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王冠を外した男

 城門の見張り台から、ガルムが低く唸った。


「団長。来たぞ」


 レイドは研究ノートから顔を上げ、窓の外に目を向けた。荒野の地平線に、小さな一団が見える。軍旗も華やかな行列もない。騎馬が十騎ほど。それだけだった。


「……本当に少数で来たな」


「護衛が十名。あとは側近が二名だ。王にしては無防備すぎる」


 ガルムの声には警戒が滲んでいた。だがレイドは首を振った。


「いや、あれが答えだ。大軍を連れてくれば威圧になる。少数で来たということは——対等に話す意思があるということだろう」


 レイドは研究ノートを閉じ、立ち上がった。


 十年前。あの玉座の間で、背を向けて去った王の姿を、今でも覚えている。



  ◇



 正門の前で、レイドは一行を出迎えた。


 フィーネが隣に立ち、リリアーナが半歩後ろに控えている。ガルムは城壁の上から全体を見渡す配置だ。


 馬から降りた男は、思ったより老けていた。白髪交じりの金髪。深い皺が刻まれた額。だがその青い瞳だけは、記憶の中と変わらない。


 クレスティア王国第十二代国王、ヴィルヘルム三世。


「——これが、あの荒野か」


 王は門をくぐり、足を止めた。


 整備された石畳の大通り。魔導灯が柔らかな光を放ち、水路には澄んだ水が流れている。市場からは種族の壁を越えた活気ある声が響き、子供たちの笑い声が重なる。


 ドワーフの鍛冶師が獣人の商人と談笑し、エルフの薬師が人間の子供に薬草の使い方を教えている。王都では決して見られぬ光景だった。


「信じられぬ」


 ヴィルヘルム三世は呟いた。その声には驚嘆と、かすかな痛みが混じっていた。


「ようこそアルカディア・ノヴァへ。陛下」


 レイドは形式通りの礼を取った。深くもなく、浅くもない。かつての臣下としてではなく、一つの都市の長として。


 王はその礼の意味を正確に読み取ったのだろう。わずかに目を細めた。


「案内を頼めるか。……いや、その前に一つ頼みがある」


「何でしょう」


「二人で話がしたい。公式の場ではなく」


 レイドは一瞬だけ沈黙した。


「——俺の研究室でよければ」



  ◇



 研究室は、レイドという人間をそのまま映す空間だった。


 壁一面の書架。積み上げられた魔術書と古代文献。机の上には展開途中の魔法陣が描かれたノートが何冊も散らばり、インクの染みが年輪のように重なっている。


 ヴィルヘルム三世は室内を見回しながら、一冊のノートに目を止めた。開かれたページには複雑な魔術式が緻密に記されている。その配列は——王家の秘庫に眠る、ある古文書の記述と酷似していた。


「これは……アルカディアの……」


 王の唇が微かに震えた。


「陛下、ご存知なのですか」


「王家には口伝がある。千年前の大戦と、失われた魔導文明について。だが断片に過ぎぬ。ここまで体系的に復元された理論は見たことがない」


 ヴィルヘルム三世はノートから視線を上げ、レイドを見据えた。


 そして——王冠を外した。


 護衛もいない研究室で、国王がゆっくりと冠を手に取り、机の上に置く。金属が木に触れる乾いた音が、静かに響いた。


「座ってくれ、レイド」


「……はい」


 二人は机を挟んで向かい合った。王と元臣下ではなく、ただの人間として。


「ヴァルターの進言を鵜呑みにしたのは、朕の怠慢だ」


 ヴィルヘルム三世は真っ直ぐにレイドの目を見て言った。


「お前が十年間、何を成し、何を守ってきたか。朕はそれを見ようともしなかった。報告書に目を通せば分かったことだ。だが朕は、宰相の言葉を疑わなかった」


 王の声は震えていない。しかしその瞳には、隠しきれぬ後悔の色が宿っていた。


「お前の十年を無にした罪は、王冠では購えぬ」


 ヴィルヘルム三世は深く頭を下げた。


 沈黙が降りた。


 レイドは王の白髪交じりの頭を見つめた。記憶の中の王は、もっと若々しかった。あの日から十年。時間は王にも等しく流れていた。


 怒りは、あった。十年前、確かにあった。


 だが今——。


「陛下。顔を上げてください」


 ヴィルヘルム三世がゆっくりと顔を上げる。


「あの追放がなければ、この街は存在しなかった」


 レイドの声は穏やかだった。


「フィーネも、ガルムも、リリアーナも、ミーシャも。ここに暮らす全ての人々との出会いは、あの日から始まったものです」


 一度だけ、間を置いた。


「だから——赦すとか赦さないとか、そういう話じゃないんです。過去は変えられない。でも、あの日があったから今がある。俺はこの街を、この仲間たちを誇りに思っています。それだけです」


 赦しでもない。和解でもない。


 過去を受け入れた上で、前を向く宣言だった。


 ヴィルヘルム三世は長い間、レイドの顔を見つめていた。やがて深い息を吐いた。


「……お前は、強くなったな」


「いえ。仲間に恵まれただけです」



  ◇



 研究室の外。


 フィーネは壁に背を預け、じっと扉を見つめていた。


 中の会話は聞こえない。聞く気もなかった。ただ——レイドがどんな顔をしているのか、それだけが気になって仕方がなかった。


 普段は飄々としている。研究に夢中になれば周りが見えなくなるし、困難にも「まあ何とかなるだろう」と笑ってみせる。


 でもフィーネは知っている。時折、夜遅くまで研究室の灯りが消えない夜。窓から覗くその横顔に、言葉にできない影が差すことを。


 十年の忠誠を、たった一言で否定された。それがどれほど深い傷か——フィーネには分かる。自分もまた、二つの種族のどちらからも拒絶された過去を持つから。


 目頭が熱くなった。唇を噛んで堪える。


「泣くな」


 低い声がした。見上げると、ガルムが腕を組んで壁に寄りかかっていた。


「泣いてません」


「目が赤いぞ」


「……花粉です」


「冬だ」


 フィーネは反論を諦めて、小さく笑った。


「レイドさん、大丈夫でしょうか」


「大丈夫だ。あいつは強いからな」


 ガルムの声は素っ気なかった。だがその視線は、扉の向こうの団長をしっかりと見守っていた。



  ◇



 研究室の空気が変わった。


 過去の清算が終わり、今度は未来の話だ。


 ヴィルヘルム三世が王冠を再び手に取った。被り直す。人間から王に戻る瞬間だった。


「レイド。深淵教団の脅威は、朕も承知している。三国連合が動いていることも。王国は、この戦いに加わりたい」


「ありがたい申し出です」


「条件があるか」


 レイドは一瞬、窓の外に視線を向けた。夕日に照らされたアルカディア・ノヴァの街並み。この街を、この仲間たちを守るために。


 ミーシャの言葉が蘇る。


 ——千年前、各国はバラバラに戦ったのです。それぞれが自国の利益を優先し、足並みが揃わなかった。だから負けたのですよぅ。同じ轍を踏んではいけないのです。


 レイドは王に向き直った。


「一つだけ」


「申してみよ」


「王国軍の指揮権を、この戦いの間だけ——俺に預けていただきたい」


 沈黙が落ちた。


 ヴィルヘルム三世の目が見開かれた。


 王国の軍を、かつて追放した一介の魔術師に預ける。王国史上、前例のない要求だ。


「……なぜだ」


「千年前の大戦で連合軍は敗れました。各国が独自に動き、連携を取れなかったからです。今回、同じ過ちは繰り返せない」


 レイドの瞳に、揺るぎない光が灯った。


「全軍を統一指揮する者が必要です。そしてそれは——どの国にも属さない者でなければならない」


 ヴィルヘルム三世は答えなかった。


 ただその目は、レイドの背後の書架に並ぶ古代アルカディアの研究ノートの群れを——千年の時を超えて蘇った理論体系を、射抜くように見つめていた。

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