宰相の断罪
クレスティア王国、王都ヴァイスブルク。
王城の大広間に、重苦しい沈黙が満ちていた。
長テーブルの周囲には、将軍、大臣、各騎士団の長——王国の中枢を担う者たちが緊急招集に応じて集まっている。誰もが表情を強張らせ、報告の続きを待っていた。
「——以上が、東部辺境の戦況であります」
軍務卿アルベルトが地図を叩いた。赤い印が三つ、東部の砦を示す場所に押されている。
「ランケスター砦、ヴォルフ砦、東門砦。いずれも陥落。駐留兵の半数が行方不明、残りは後方へ撤退中です」
「たった三日でか……」
誰かが呻いた。
「敵は魔獣の群れだけではありません。闇の術者——深淵教団の構成員が、統率された部隊として攻めてきております。我が兵では対抗が困難かと」
「聖剣旅団はどうした」
玉座に座るヴィルヘルム三世が、低い声で問うた。白髪交じりの壮年の王。その蒼い瞳には、疲労と焦燥が滲んでいる。
「現在、東部戦線で防衛に当たっております。しかし——」
アルベルトが言い淀んだ。
「……苦戦しております。聖剣旅団をもってしても、教団の術者と魔獣の連携に押されている状況です」
広間にざわめきが走った。聖剣旅団は王国最強の騎士団だ。その彼らが押されているという事実は、この場の全員に衝撃を与えた。
「陛下」
ヴァルター・ゼーリヒが立ち上がった。宰相の礼装に身を包んだ壮年の男は、いつもの冷徹な表情を崩さない。
「まずは東部に兵力を集中させるべきでありましょう。辺境方面の監視部隊を転用すれば——」
「宰相閣下」
大広間の扉が開き、一人の騎士が進み出た。
銀の鎧に刻まれた聖剣の紋章。聖剣旅団の団長、クリストフ・ヴァイゲルトだった。
「……なぜ貴様がここにいる。東部戦線にいるはずであろう」
ヴァルターの目が細まった。
「副団長に指揮を預けてまいりました」
クリストフは片膝をつき、国王に一礼した。
「陛下。戦場から直接馳せ参じた無礼をお許しください。どうしてもこの場で申し上げねばならぬことがございます」
「許す。申せ」
ヴィルヘルム三世が頷いた。
クリストフは立ち上がり、懐から数枚の書簡を取り出した。
「これは、先の辺境攻略戦において我々が接触した深淵教団の幹部——通称『蛇の司祭』の拠点から回収した文書です」
広間の空気が変わった。
ヴァルターの表情が、初めて揺れた。
「その文書には、王国内部の協力者への指示が記されています。辺境都市アルカディア・ノヴァへの経済封鎖、物資の妨害、間諜の派遣——その全てが、教団の計画の一環であったことが明記されている」
「何を……馬鹿なことを」
ヴァルターが一歩踏み出した。
「そのような偽造文書に——」
「偽造ではありません」
クリストフの声が、静かに広間を制した。
「書簡には宰相閣下の私印が押されています。さらに、教団との連絡に使用された魔導通信の記録も回収いたしました。暗号の解読には時間を要しましたが——内容は明白です」
彼は書簡を国王に差し出した。
「宰相ヴァルター・ゼーリヒは、深淵教団の幹部と通じ、辺境都市への妨害工作を実行していた。その結果、王国西部の防衛力は著しく低下し、教団の攻勢を招く一因となった——これが、聖剣旅団としての報告であります」
沈黙が降りた。
誰も動かなかった。誰も口を開かなかった。
ヴァルターの顔から、血の気が引いていく。
「……違う」
声が震えていた。あの傲慢な宰相の声が、初めて揺らいでいた。
「余は利用されていたに過ぎん。蛇の司祭が接触してきたのは事実だ。だが余は奴の提案を——王国の利益のために活用しただけだ」
「辺境都市の弱体化が、王国の利益だと?」
軍務卿アルベルトが低く問うた。
「あの都市は脅威だ!」
ヴァルターが叫んだ。
「追放された一介の魔術師が、多種族の軍を率い、三国と同盟を結び——このまま放置すれば、王国の覇権は——」
「その魔術師を追放したのは、誰だ」
ヴィルヘルム三世の声が響いた。
王は玉座から立ち上がっていた。
「レイド・アシュフォードの追放を進言したのは、そなただ。ヴァルター」
「……陛下、それは」
「辺境への封鎖を提案したのも、聖剣旅団の派遣を進言したのも。全てそなたの提案だった」
王の声には、怒号はなかった。むしろ——深い疲労と、それ以上の悲しみが滲んでいた。
「そなたの言葉を信じた朕にも責がある。だが——」
王は書簡に目を落とした。
「——教団に踊らされ、王国の剣を内に向け、結果として民を守る力を削いだ。その罪は、動機がいかなるものであれ、消えはせん」
「陛下……余は、全ては王国のためだった。それだけは——」
「もうよい」
王の一言が、全てを断ち切った。
「宰相ヴァルター・ゼーリヒ。宰相の任を解く。王城内の一室にて軟禁とし、詳細は追って沙汰する」
衛兵が進み出た。
ヴァルターは一瞬だけ抵抗するように身を強張らせたが——やがて、力なく肩を落とした。
「……承知した」
その一言を最後に、かつての宰相は衛兵に連行されていった。
広間の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
◇
御前会議の後、玉座の間には国王と数名の側近だけが残った。
「陛下。東部戦線の増援について——」
「その前に一つ、決めねばならぬことがある」
ヴィルヘルム三世は窓辺に歩み寄り、西の空を見つめた。
西——辺境都市アルカディア・ノヴァがある方角だ。
「朕は辺境に参る」
側近たちが息を呑んだ。
「陛下、なりません! 教団の攻勢が続く中、国王が王都を離れるなど——」
「危険が過ぎます。使者を送られては——」
「使者では足りん」
王は振り返った。その瞳に、久しぶりに確固たる意志の光が宿っている。
「朕がかつてヴァルターの言葉に流され、一人の優れた魔術師を追い出した。その者は恨むでもなく、荒野に都市を築き、三国をまとめ、教団に立ち向かっている。——朕が蒔いた種は、朕が刈り取る」
「しかし、相手が協力してくれる保証は……」
「ないだろうな」
王は苦笑した。
「だからこそ、朕が自ら頭を下げに行く。王の名代ではなく——かつて過ちを犯した一人の人間として」
クリストフが片膝をついた。
「護衛は、この身にお任せください」
「団長、しかし東部戦線が——」
「副団長ならばやれます。それに——」
クリストフは顔を上げた。
「私は辺境で、あの魔術師の力を目の当たりにしました。あの都市が味方につけば、戦況は変わる。確信しています」
ヴィルヘルム三世は頷いた。
「三日後に発つ。それまでに東部への増援と、王都の防衛体制を固めよ」
側近たちは顔を見合わせたが——王の決意が覆らないことを悟り、一人また一人と頭を下げた。
◇
王城の最奥。窓のない一室に、ヴァルターは座っていた。
蝋燭の明かりだけが、石壁に揺れる影を映している。
全てを失った。地位も、権威も、大義も。
「……余は、間違っていなかった」
呟いた。
だが、その言葉はもう誰にも届かない。
ふと、壁に映る自分の影が揺れた。蝋燭の炎は動いていないのに。
影が——蠢いている。
ヴァルターは目を見開いた。背筋に、氷のような感覚が走る。
知っている。この感覚を。
蛇の司祭と初めて会った夜に感じた、あの——。
「まだ終わりではない」
ヴァルターの唇が動いた。だが、その声はどこか——自分のものではないように響いた。
「私には、まだ——」
暗闇の中で、彼の瞳に縦長の光が一瞬だけ宿った。
蛇の目だ。
蝋燭の炎が一度だけ大きく揺れ——そして、何事もなかったかのように静かに燃え続けた。




