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千年の記憶、虹色の涙

 誰も動けなかった。


 広間に満ちる静寂は、まるで時そのものが凍りついたかのようだった。ミーシャの——いや、ミーシャ・アルカディアと名乗った存在の金色の瞳が、ゆっくりと一同を見渡す。


 レイドは息を呑んだまま、目の前の少女を見つめていた。あどけない外見は変わらない。銀色の髪も、小さな手も、何一つ変わっていない。だが纏う空気が、まるで別人だった。


「……ミーシャ」


 レイドがようやく声を絞り出す。


 少女は微かに首を傾げた。その仕草だけが、かつてのミーシャを思わせた。


「全てお話しします。千年前——アルカディアに何が起きたのかを」


 ミーシャは静かに語り始めた。



  ◇



「アルカディアは、大陸全土に魔法都市を展開した超文明でした」


 ミーシャの声が広間に響く。感情を押し殺した、淡々とした語り口だった。


「都市の一つ一つが巨大な魔術装置であり、マナを循環させ、大地を豊かにし、あらゆる種族が共に暮らしていた。人間も、エルフも、獣人も、ドワーフも——誰もが等しく文明の恩恵を受けていたのです」


 ガルムが腕を組んだまま、低く唸った。


「……種族差別のない世界か」


「ええ。少なくとも、理念としては。しかし——」


 ミーシャの声が僅かに揺れた。


「全ては、一人の男によって崩壊しました」


 レイドは研究ノートを握る手に力を込めた。嫌な予感が背筋を這い上がる。


「教団の首魁。元アルカディアの大魔術師にして、かつては文明を支えた最高の知性。その男が深淵の力に魅入られたのです」


「深淵の力?」


 フィーネが不安げに問う。


「マナの対極に在る、破壊と虚無のエネルギー。大魔術師はその力を用いて不老不死を得ようとした。そのために必要だったのが——深淵門」


 ミーシャは右手を掲げた。指先に金色の光が灯り、空中に複雑な魔術式が浮かび上がる。レイドは目を見開いた。その構造に見覚えがあった。


「この魔術式は……万象構築魔術の基礎構文と同じ——」


「そうです、レイド。万象構築魔術はアルカディアの正統な魔術体系。あなたが持つ力は、千年前の文明から受け継がれたものなのです」


 心臓が跳ねた。宮廷で「何の属性にも秀でない半端者」と嘲笑された力。ヴァルターに「役立たず」と切り捨てられた力。それが——。


「……そうか。だから既存の六属性に分類できなかったのか」


 レイドは呟いた。パズルの最後のピースが嵌まるような感覚だった。万象構築魔術は属性魔術の上位互換ではない。根本から体系が違うのだ。


 リリアーナが扇子の端を唇に当て、鋭い目で問う。


「その大魔術師は、深淵門を開くことに成功したのですの?」


「未遂に終わりました。しかし、その代償は途方もなかった」


 ミーシャの瞳に、千年分の悲しみが滲んだ。


「最終決戦で、七体の守護精霊が命を賭して深淵門を封印しました。私の仲間たち——家族とも呼べる存在が、一人また一人と消えていった」


 声が震えた。だが、ミーシャは唇を噛み、続けた。


「最後に残ったのは、私だけでした。封印の維持を任され、この遺跡の奥深くで眠りについた。文明の全記録を万象の書庫に託して。いつか——教団の復活に立ち向かえる者が現れることを信じて」


 広間に重い沈黙が降りた。


 ガルムが拳を握りしめる。リリアーナが目を伏せる。レイドは言葉を探したが、千年の孤独に対して何を言えばいいのか分からなかった。


「待ってください」


 フィーネが一歩前に出た。


「その大魔術師は——千年前に死んだのですか?」


 核心を突く問いだった。ミーシャは僅かに目を細めた。


「分かりません。深淵の力は不老不死を与え得る。封印で退けはしましたが、消滅を確認した者はいない」


「つまり、まだ生きている可能性がある」


 レイドの声が低くなった。蛇の司祭。ヴァルターとの繋がり。大陸各地のマナ脈異常。点と点が線で繋がっていく。


「千年を生きた大魔術師が、教団を再び動かしている——そう考えれば全ての辻褄が合う」


 ガルムが獣人特有の鋭い犬歯を剥いた。


「厄介な相手だな。だが、やることは変わらん。守るべきものを守る。それだけだ」


「ガルムさんの言う通りですわ」


 リリアーナが背筋を伸ばす。


「千年前の脅威であろうと、今この都市を守るために動くだけのこと。情報が増えたのは、むしろ好都合ですわよね」


 頼もしい言葉だった。だがレイドの視線は、ミーシャに向けられていた。大人びた声で淡々と語る少女の——その肩が、微かに震えていることに気づいていた。



  ◇



「ミーシャ」


 フィーネが静かに歩み寄った。


「千年も、一人で頑張ったんですね」


 その一言に、ミーシャの表情が凍りついた。


「……何を」


「ずっと一人で封印を守って、仲間が消えていくのを見て、それでも使命を果たし続けた。それって——すごく、寂しかったでしょう」


 フィーネの声は穏やかだった。だが、その碧い瞳には涙が滲んでいた。人間とエルフの両方から拒絶された過去を持つフィーネには、孤独の重さが痛いほど分かるのだろう。


「寂しいなどと——私は守護精霊です。感情に左右される存在では」


「嘘。今、肩が震えてますよ」


 ミーシャの言葉が途切れた。


 フィーネが小さな体を抱きしめた。ミーシャは硬直した。金色の瞳が大きく見開かれる。


「っ——」


「よく頑張りました。もう一人じゃないですから」


 沈黙が流れた。


 一秒。二秒。三秒——。


 ミーシャの体から、力が抜けた。大人びた声が、震えた。


「……ずっと、怖かった」


 呟きは、幼い少女の声に戻っていた。


「目が覚めなかったらどうしようって。誰も来なかったらどうしようって。封印が壊れたらって。ずっと——ずっと」


 涙が頬を伝った。千年分の孤独が、堰を切ったように溢れ出す。フィーネが優しく背中を撫でた。


 レイドは黙ってその光景を見守った。胸の奥が締め付けられるように痛い。自分がミーシャを遺跡で見つけたとき、彼女はあの無邪気な笑顔で「ご主人様」と呼んだ。あの笑顔の裏に、これほどの重荷があったのか。


 ガルムが目を逸らした。無骨な大男の目元が赤い。リリアーナはハンカチで顔を押さえていた。


 しばらくして、ミーシャがフィーネの腕の中で顔を上げた。


 その瞳が——金色から、虹色に戻っていた。


 見慣れた、万華鏡のように煌めく虹色の光。レイドは思わず息を漏らした。


「ミーシャは、ミーシャなのです」


 少女は涙の跡が残る顔で、にっこりと笑った。


「ただ、ちょっと昔のことも思い出しただけですよぅ。ご主人様たちと過ごした日々は——ミーシャにとって、千年分より大切な宝物なのです」


 レイドは膝をつき、ミーシャと目線を合わせた。


「お帰り、ミーシャ」


「ただいまなのです、ご主人様」


 広間に、穏やかな空気が戻った。



  ◇



 だが、安堵は長くは続かなかった。


 ミーシャが涙を拭い、表情を引き締めた。虹色の瞳に、千年の知識を持つ守護精霊の鋭さが宿る。


「ご主人様。大事なお話があるのです」


「ああ。深淵門のことだな」


「今の封印は完全ではありません。ミーシャ一人の力では、あと数年が限界。教団が本格的に動けば、もっと早く崩壊する可能性があるのです」


 全員の顔が引き締まった。レイドは静かに問う。


「封じる方法はあるのか」


 ミーシャは一度だけ瞬きした。そして、はっきりと告げた。


「深淵門を完全に封じる方法が一つだけあるのです。それは——アルカディアの都市級魔術を、もう一度この大地に蘇らせること」


 都市級魔術。その言葉の重みが、広間に響いた。


 レイドの脳裏に、ノヴァ・アルカディアの街並みが浮かんだ。まだ発展途上の、しかし確かに息づく魔法都市。それを——千年前の超文明と同じ水準にまで引き上げろと、ミーシャは言っている。


「……途方もない話だな」


 レイドは呟いた。だが、その口元には笑みが浮かんでいた。


「だが——面白い」


 研究ノートを取り出し、新しいページを開く。万象構築魔術がアルカディアの正統な体系であるなら、自分にはその資格がある。いや、資格などという話ではない。これは——。


「やるべきことが決まったな」


 ガルムが不敵に笑った。フィーネが頷く。リリアーナが扇子を閉じ、目を輝かせた。


「都市級魔術の復活——それはつまり、ノヴァ・アルカディアを大陸最強の魔法都市に変えるということですわね?」


「ああ。宰相閣下が聞いたら卒倒するだろうな」


 レイドの言葉に、全員が笑った。


 だがレイドの胸の内では、一つの覚悟が静かに固まっていた。千年前の大魔術師が今も生きているなら、教団との決戦は避けられない。都市級魔術の復活は、その戦いに勝つための唯一の道だ。


 ミーシャが小さな手でレイドの袖を掴んだ。


「ご主人様なら、できるのです。だってミーシャが保証するのですよぅ」


 千年の記憶を持つ守護精霊の、揺るぎない信頼。


 レイドは頷いた。


「ああ——やってやるさ」


 窓の外では、ノヴァ・アルカディアの街に夕陽が差し込んでいた。千年の時を超えて、古代文明の灯火が再び燃え上がろうとしている。

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