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記憶の海、金色の瞳

 ノヴァ・アルカディアの中枢塔、万象の書庫。


 レイドは机上に広げた古代の術式図を指でなぞりながら、集まった仲間たちの顔を見渡した。


「結論から言う。ミーシャの記憶を取り戻す方法が見つかった」


 フィーネが身を乗り出した。


「本当ですか? どんな方法なんです?」


「精霊記憶解放術。万象の書庫の最深層に記録されていた古代アルカディアの術式だ」


 レイドは術式図の中心を指し示した。複雑な魔法陣が幾重にも重なり、見たこともない古代文字が螺旋を描いている。


「精霊の核に直接干渉して、封印された記憶領域を段階的に開放する。理論上は完全な記憶回復が可能だ」


「理論上、ね」


 ガルムが腕を組んだまま低く言った。


「リスクがあるんだろう、団長」


 レイドは一瞬だけ目を伏せた。そして正直に告げる。


「ああ。封印が一気に解ける可能性がある。その場合、千年分の記憶が一度に流れ込むことになる。最悪、ミーシャの人格が——変わるかもしれない」


 書庫に沈黙が落ちた。


 リリアーナが扇子を閉じ、静かに問う。


「変わる、とは具体的にどういうことですの?」


「今のミーシャという人格が、千年前の記憶に上書きされる可能性がある。つまり——俺たちの知っているミーシャでなくなるかもしれない」


 その言葉が、空気を凍らせた。


 誰もが同じことを思い出していた。ミーシャが以前こぼした言葉を。


 ——ミーシャがミーシャでなくなっても、ご主人様はミーシャのことを覚えていてくれますか。


 あれは不安の吐露ではなかった。予感だったのだ。


「ミーシャは知っているのか」


 ガルムの問いに、レイドは頷いた。


「昨夜、全て説明した」



  ◇



 書庫の扉が開き、ミーシャが入ってきた。


 銀髪に虹色の瞳。見た目は十二歳の少女そのものだ。だが今日の彼女の表情には、いつもの無邪気さとは違うものが混じっていた。


「ミーシャ、無理はしなくていいんですよ?」


 フィーネが膝をつき、ミーシャと目線を合わせた。


「ほかの方法を探すこともできますし——」


「フィーネお姉様」


 ミーシャは小さく首を振った。


「怖いのです」


 その声は震えていた。


「ミーシャはミーシャのままでいたいのです。ご主人様やフィーネお姉様やガルムおじさまやリリアーナお姉様と、これからもずっと一緒にいたいのです」


 虹色の瞳が潤む。だが、次の瞬間、ミーシャは小さな拳をぎゅっと握った。


「でも、逃げていたらみんなを守れないのです。深淵教団のこと、千年前に何があったのか、ミーシャの中にその答えがあるなら——思い出さなきゃいけないのです」


 レイドはミーシャの前にしゃがみ込んだ。


「約束する。何があっても、お前はお前だ。記憶が戻っても、千年前の誰かに変わっても、俺はお前をミーシャと呼ぶ。それだけは絶対だ」


「……ご主人様」


「だから安心して帰ってこい。全員で待ってる」


 ミーシャは目を擦り、それから笑った。いつもの、屈託のない笑顔だった。


「——はいなのです」



  ◇



 準備に二刻を費やした。


 書庫の中央に巨大な魔法陣が展開された。万象構築魔術で精密に編み上げた術式は、通常の魔法陣とは根本的に異なる。属性を持たず、現象そのものを記述する古代の論理体系だ。


「フィーネ、バイタルモニタリングの状態は」


「万全ですよ。マナ循環量、精霊核の共鳴周波数、意識深度——全てリアルタイムで追えます」


 フィーネの手元には植物魔法で編んだ生体感知の蔓が広がっていた。ミーシャの精霊核と共鳴し、わずかな変調も検知できる。


「異常があれば即座に知らせてくれ。俺が術式を中断する」


「了解です。でもレイドさん——中断した場合、二度目はないんですよね」


「ああ。一度開きかけた封印は再び固まる。次にこじ開けようとすれば精霊核そのものを損傷するリスクがある」


 一度きりの勝負だった。


 ガルムが書庫の入口に立ち、外部からの干渉を遮断する。リリアーナは万一に備え、都市の防衛態勢を引き上げる指示を出していた。


「始めるぞ」


 レイドが手をかざすと、魔法陣が淡い光を放ち始めた。


 万象構築魔術——その真髄は現象の記述と再現にある。今、レイドが記述しているのは「封印された記憶領域の段階的開放」という現象そのものだ。


 ミーシャは魔法陣の中心に座り、目を閉じた。


「いってきますなのです」


 その一言を最後に、ミーシャの意識は深く沈んでいった。



  ◇



 最初の変化は静かに訪れた。


 ミーシャの身体を包む光が、白から淡い金色へと変わる。


「マナ循環量、通常の三倍に上昇。精霊核の共鳴——安定しています」


 フィーネの報告を聞きながら、レイドは術式の制御に集中した。封印の層を一枚ずつ、慎重に剥がしていく。


 二層目。三層目。四層目——。


 突然、ミーシャの口から小さな声が漏れた。


「……きれい」


 意識が記憶の海に沈んでいるはずのミーシャが、無意識に言葉を紡いでいる。


「お花がいっぱい……大きな塔……みんな笑ってる……」


 断片的な映像が、ミーシャの記憶から溢れ出していた。


 千年前のアルカディア。壮麗な魔法都市群。空中に浮かぶ庭園。水晶の尖塔を繋ぐ光の橋。街を行き交う人々の笑顔。


 レイドの万象構築魔術が共鳴し、書庫の空間にその映像が淡く投影された。


「これが……古代アルカディア」


 ガルムですら息を呑んだ。


 それは想像を超えた光景だった。ノヴァ・アルカディアが目指す理想のはるか先——魔術と生活が完全に融合した文明の極致がそこにあった。


 だが、映像は徐々に変質していく。


 空に翳りが差す。人々の笑顔が消える。大地が震え、尖塔が崩れ——。


「っ——」


 ミーシャの身体が大きく痙攣した。


「意識深度急速低下! 精霊核の共鳴周波数が乱れています!」


 フィーネが叫ぶ。


「封印の第七層が一気に崩壊した——」


 レイドの額に汗が滲む。予想していた最悪のパターンだ。段階的に開放するはずの封印が、記憶の核心に近づいたことで連鎖的に崩れ始めている。


「フィーネ、ミーシャの精霊核は持つか!」


「今のところは——でも、このペースだとあと三分が限界です!」


 三分。それだけの時間で、残りの封印全てを安全に解除しなければならない。


 レイドは歯を食いしばった。


 ——いや、違う。


 安全に解除するのではない。ミーシャ自身が記憶を受け入れられるよう、術式で支えるのだ。


「術式変更。封印解除から記憶統合支援に切り替える」


 万象構築魔術の術式を瞬時に書き換える。レイドにしかできない芸当だった。現象の記述を根本から変え、ミーシャの精霊核が記憶の奔流に耐えられるよう、構造そのものを補強する。


 書庫全体が金色の光に包まれた。


 映像が加速する。


 アルカディアの空を覆う闇。大地を引き裂く深淵。立ち向かう人々。そして——その中心に立つ、一人の少女。


 銀髪に金色の瞳。今のミーシャと瓜二つの、しかし大人びた表情の少女が、巨大な門の前で両手を広げていた。


「封じます——千年の眠りの果てに、いつか目覚める日まで」


 その声が書庫に響いた瞬間、ミーシャの身体から爆発的な光が放たれた。


「——っ!」


 全員が腕で目を庇う。光は書庫の壁を透過し、中枢塔全体を一瞬だけ金色に染め上げた。


 光が収まった時、魔法陣の中心にミーシャが座っていた。


 銀髪は変わらない。だが、ゆっくりと開かれた瞳は——虹色ではなく、深い金色に変わっていた。


「ミーシャ……?」


 フィーネが恐る恐る呼びかける。


 少女は——いや、その存在は、静かに立ち上がった。


「……思い出した。全て、思い出しました」


 その声に、全員が凍りついた。


 幼さが消えていた。澄んだ、凛とした大人の声。千年の重みを湛えた、静謐な響き。


 金色の瞳がレイドを見つめた。そこには確かにミーシャの面影があった。だが同時に、遥かに深い知性と、途方もない哀しみが宿っていた。


「ご主人様——いえ、レイド」


 ミーシャは——かつてミーシャと呼ばれた存在は、穏やかに、しかし揺るぎない声で告げた。


「私の真名は『ミーシャ・アルカディア』。アルカディア最後の守護精霊にして——千年前の最終決戦で深淵門を封じた者です」

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