蛇に蝕まれし者
マナ脈跳躍の中継地点に辿り着いたのは、ドワーフ領を発って三日目の昼過ぎだった。
荒野の只中に立つ古代の石柱群。その根元に、人影が倒れていた。
「団長、止まれ」
ガルムが低く唸り、腰の戦斧に手をかけた。虎族の鋭敏な嗅覚が、ただならぬ気配を嗅ぎ取っている。
「血の匂いがする。それと——魔力の腐った臭いだ」
レイドは目を細め、倒れた人影を注視した。襤褸と化した高級官服。痩せこけた体躯。かつては威厳に満ちていたであろうその姿は、今や見る影もない。
だが、その顔には見覚えがあった。
「……ヴァルター」
レイドの声が、乾いた風に溶けた。
クレスティア王国宰相、ヴァルター・ゼーリヒ。レイドを宮廷から追放し、辺境への妨害工作を幾度となく仕掛けてきた男が、荒野の石柱に寄りかかるようにして倒れていた。
近づくにつれ、その異様さが際立つ。露出した腕や首筋に、黒紫色の蛇の紋様が浮かび上がっている。紋様は脈打つように微かに蠢き、衰弱した身体から残りの生命力を吸い取っているかのようだった。
「こいつは——」
ガルムの声に、明確な敵意が混じる。
「罠の可能性がある。このまま放っておくべきだ」
「気持ちはわかる。だが、このまま見捨てるわけにはいかない」
レイドは躊躇わなかった。腰の通信結晶を起動し、フィーネを呼び出す。
「フィーネ、聞こえるか。ヴァルターを発見した。衰弱が激しい。全身に蛇の呪紋が広がっている」
『ヴァルター宰相を? そんな場所で……?』
通信越しのフィーネの声が驚きに跳ねた。だがすぐに薬師の冷静さを取り戻す。
『蛇の呪紋ですね。触れると術者に感知される可能性があります。まず、レイドさんの万象構築で呪紋の進行を遅延させてください。魔力の流れを読んで、侵食の方向を特定できますか?』
「やってみる」
レイドはヴァルターの傍に膝をつき、指先に淡い銀光を灯した。万象構築魔術で呪紋の構造を読み解く。複雑に絡み合った魔術式が、宿主の生命力をマナに変換し、外部に送信している。寄生と搾取の術式だ。
「……ひどいな。これは人間を魔力の供給源として使い潰す術式だ」
『やはり。呪紋の中核——おそらく胸元か背中に術式の起点があるはずです。そこに解呪の楔を打ち込めれば、進行は止められます。ただし、完全な除去には直接の施術が必要ですから、まずは応急処置だけお願いします』
フィーネの的確な指示に従い、レイドは万象構築魔術を展開した。呪紋の流れを一つ一つ読み取り、侵食を遅らせる阻害式を胸元の起点に刻む。
数分の作業の後、蛇の紋様の蠢きが緩やかになった。
「ぐ……っ」
ヴァルターの瞼が震え、焦点の合わない瞳がゆっくりと開いた。
◇
最初に視界に入ったのが、レイドの顔だったのだろう。
ヴァルターの目に、一瞬だけ動揺が走った。しかしすぐに、見慣れた傲岸な表情を取り繕おうとする。
「……ほう。追放した男に、拾われるとはな」
掠れた声。虚勢であることは、誰の目にも明らかだった。
「しゃべるな。体力を消耗する」
「余に指図するか、元宮廷魔術師。相変わらず……分を弁えぬ男だ」
ガルムが鼻を鳴らした。
「死にかけの分際で偉そうだな。団長、やっぱりこいつは放っておいていいんじゃないか」
「ガルム」
レイドの静かな制止に、ガルムは不満げに口を閉じた。だが警戒の姿勢は崩さない。
ヴァルターは数度咳き込み、やがて諦めたように目を閉じた。虚勢を保つだけの気力すら、もう残っていないのだ。
「……なぜ助ける。余はお前を追放し、幾度も潰そうとした男だぞ」
「知ってる」
レイドは淡々と答えた。
「だが、目の前で人が死にかけているのに放置する理由にはならない」
沈黙が落ちた。ヴァルターの唇が微かに震えた。
「……愚かな男だ。その甘さがいつか命取りになる」
「かもしれないな。で、何があった」
レイドの問いに、ヴァルターはしばらく答えなかった。乾いた風が石柱の間を吹き抜け、砂埃を巻き上げる。
やがて、搾り出すような声が漏れた。
「私は——」
一人称が変わったことに、レイドは気づいた。「余」ではなく「私」。仮面を脱いだ声だった。
「この国を、強くしたかっただけだ」
ヴァルターの目が虚空を見つめる。そこに映っているのは、かつての記憶だろうか。
「あの男——蛇の司祭と名乗る者に出会ったのは、五年前だ。王国の軍事力低下を憂いていた余に、奴は囁いた。魔術師は国を弱体化させる毒だと。戦場で役に立たぬ魔術など、国家にとって害悪でしかないと」
「それで、俺を追放したのか」
「……そうだ」
ヴァルターの声から、初めて悔恨の色が滲んだ。
「万象構築魔術の使い手を排除しろと、あの男は言った。古代遺跡に近づけるな、辺境を発展させるなと。余は——私はそれを、国のためだと信じた。信じたかった」
レイドの拳が無意識に握り締められた。
追放の日。宮廷の冷たい視線。「お前の魔法は役立たず」という嘲笑。あの全てが、教団の思惑通りだったということか。
怒りが腹の底から湧き上がる。だが同時に、操られていたヴァルターへの複雑な感情も押し寄せた。この男もまた、教団の駒に過ぎなかったのだ。
「……蛇の司祭について、知っていることを全て話せ」
感情を押し殺し、レイドは問うた。今は怒りに浸っている場合ではない。
ヴァルターは弱々しく頷いた。
「奴らの目的は、大陸のマナ脈を全て掌握することだ。七箇所あるマナ脈の主要湧出点のうち——五箇所は、既に教団の手に落ちた」
「五箇所だと?」
ガルムが思わず声を上げた。
「残りは二箇所。一つはお前たちの辺境——ブランフェルト荒野の地下。もう一つは、大陸南方の海底遺跡だ」
レイドは奥歯を噛み締めた。七分の五。教団の浸透は、想像を遥かに超えていた。残された時間は、おそらくほとんどない。
「なぜ今になって、お前を切り捨てた」
「用済みだからだ。辺境の妨害は失敗し、万象の盟約で多種族同盟が成立した。余の役割は終わった——いや、最初から使い捨ての駒だったのだろう」
ヴァルターの唇に、自嘲の笑みが浮かんだ。
「この呪紋が、その証拠だ。最初から余の身体には術式が刻まれていた。忠誠を誓った時点で、余は奴らの人形になっていたのだ」
◇
レイドはフィーネに状況を伝え、呪紋の解析結果を共有した。通信の向こうで、フィーネが息を呑む気配がした。
『五箇所……。レイドさん、急いで戻ってきてください。都市核の防御機構を再構築する必要があります』
「ああ、わかっている」
レイドがヴァルターに視線を戻した時、衰弱した宰相の目に、最後の力が宿った。
「一つ……伝えておかねばならないことがある」
ヴァルターの声が、不自然なほど真剣だった。
「蛇の司祭は言っていた」
息を整え、一言一言を刻むように告げる。
「『あの人工精霊こそが最後の鍵だ。千年前に儀式を阻んだ裏切り者を——今度こそ手に入れる』と」
空気が凍った。
ガルムが目を見開き、レイドの表情が強張る。通信越しに聞いていたフィーネの沈黙が、痛いほどに重い。
全員の思考が、一つの名前に収束した。
銀髪に虹色の瞳。古代アルカディアの遺跡に封印されていた人工精霊。都市の魔導インフラの中核を担い、誰よりも古代の真実を知る少女。
ミーシャ。
レイドの手の中で、通信結晶が微かに軋んだ。握り締める力が、無意識に強まっていた。




