解き放たれし封印
決戦から三日が過ぎた。
ノヴァ・アルカディアの街並みには、まだ戦いの痕跡が残っている。崩れた外壁の修復作業が進む中、石工のドワーフたちが威勢のいい掛け声を上げていた。
レイドは万象の書庫の最奥で、古びた石板と向き合っていた。
「これが、セラフィーナの使った術式の痕跡か」
石板の表面に浮かぶ魔術式は、レイドが見てきたどの体系にも属さない異質なものだった。通常の六属性魔術とも、自身の万象構築魔術とも根本的に異なる。まるで世界の法則そのものに穴を穿つような——禍々しい論理構造。
「正確には、術式の『残響』です」
書庫の守護者ソフィアが、静かに隣へ歩み寄った。千年の時を越えた古代の知識を宿すその瞳が、石板の文字列をなぞる。
「やはり、これは『解放の儀式』の一部なのですね」
「ええ。深淵教団がかつて用いた、封印干渉術の体系。七つの段階を経て、完全なる解放に至る」
七つの段階。レイドは眉をひそめた。
「セラフィーナがあの戦いで発動したのは——」
「最初の一段階に過ぎません」
ソフィアの声が、一段低くなった。
「ですが、レイド。始まってしまった。一度起動した儀式は、止めることが極めて難しい。段階を重ねるごとに封印は弱まり、あの存在が目覚めに近づく」
あの存在——千年前、古代アルカディア文明を滅ぼしたとされる深淵の脅威。ソフィアが以前語った、千年周期の警告が脳裏をよぎる。
「つまり、ソフィアが言っていた通りだったわけだ」
「的中してほしくない予言でした」
ソフィアは苦い笑みを浮かべた。レイドは石板から視線を上げ、書庫の天井を見つめる。古代の叡智が刻まれた壁面が、微かに脈動するように光を放っていた。
「各段階の間隔は?」
「不定です。教団の術者の力量と、外部からのマナ供給量に依存する。ただ、セラフィーナほどの使い手が関与しているなら——数ヶ月、あるいはもっと短い可能性もあります」
レイドは研究ノートを取り出し、ソフィアの言葉を書き留めていく。ペンを走らせる手が、自然と速まっていた。
「儀式の進行を妨害する方法は?」
「各段階には触媒となる場所が必要です。古代の封印点——大陸各地に散らばる七つの聖域。そこを守るか、あるいは先んじて封印を強化するか」
「七つの聖域の場所は分かるか?」
「いくつかは。ですが千年の間に地形が変わり、失われた記録も多い。調査が必要です」
レイドはペンを止め、深く息を吐いた。やるべきことは山積みだが、道筋は見えてきた。
◇
書庫を出ると、リリアーナが廊下で待っていた。手には数通の書簡を携え、その表情は珍しく高揚している。
「レイド様、朗報ですわ。シルヴァリアとファングランド、両国が正式に軍事同盟を表明しました」
「正式に?」
「ええ。決戦での我々の勝利を受けて、もはや日和見は許されないと判断したのでしょう。特にファングランドは獣人兵の派遣まで申し出ていますの」
リリアーナは書簡の一つを広げた。獣人連合の紋章が押された公式文書。そこには確かに、辺境都市との軍事同盟締結の意思が明記されていた。
「外交的には大勝利ですわ。三国連合が辺境都市を中心に成立する。王国としても、もはや正面から我々を潰すことは難しくなりました」
「だが」
「ええ、だが——ですわね」
リリアーナは小さく笑い、すぐに表情を引き締めた。
「ヴァルター宰相は追い詰められれば追い詰められるほど危険になる方。正攻法が通じないと悟れば、何をしてくるか分かりませんわ。むしろ今が一番警戒すべき時期かもしれません」
「同感だ。そして——聖剣旅団以上の脅威が、別の方向から迫っている」
リリアーナの赤い瞳が、鋭く細められた。
「詳しくお聞かせいただけまして?」
「ああ。皆を集めてくれ」
◇
評議室に全員が揃ったのは、夕刻のことだった。
窓から差し込む西日が、長い卓を琥珀色に染めている。レイドは上座に立ち、フィーネ、ガルム、リリアーナ、ミーシャの顔を順に見渡した。
「単刀直入に言う。セラフィーナがあの戦いで発動した術式の正体が判明した」
レイドは書庫での調査結果を、簡潔に説明した。解放の儀式。七つの段階。深淵教団の封印が弱まりつつあること。
沈黙が落ちた。ガルムが腕を組み、低い声で尋ねる。
「聖剣旅団より厄介だと?」
「比較にならない。千年前にアルカディア文明を滅ぼした脅威だ。聖剣旅団は人間の軍だったが、これは——」
「ご主人様」
ミーシャが手を挙げた。虹色の瞳がいつもの無邪気さを失い、真剣な光を帯びている。
「ミーシャ、報告があるのです。今朝から荒野の各所で微弱な『虚無』の気配を検出しているのです」
「虚無の気配?」
「アルカディア語で言う『ヴォイド・レゾナンス』。封印された存在が覚醒に近づくとき、周囲のマナが局所的に消失する現象なのですよぅ。千年前の記録にも同様の前兆が記されているのです」
ミーシャの言葉に、室内の空気が一段と重くなった。フィーネが小さく息を呑む音が聞こえた。
「まだ微弱なのです。でも、確実に増えている。千年の眠りから覚めかけている——何かが、いるのです」
再び沈黙。レイドは仲間たちの表情を見た。不安。緊張。だが、誰の目にも恐怖に屈した色はない。
最初に口を開いたのは、フィーネだった。
「じゃあ、また皆で立ち向かうだけですよ」
穏やかな微笑みだった。薬師の手が膝の上で小さく震えているのを、レイドは見逃さなかった。それでも彼女は笑っている。怖くないわけがない。それでも、逃げるという選択肢が彼女の中には存在しないのだ。
「今度の敵は斬れるのか?」
ガルムが拳を打ち合わせた。巨躯が椅子を軋ませる。
「斬れるなら斬る。斬れないなら、斬れるようにするだけだ」
「交渉できない相手は初めてですわね」
リリアーナが不敵に笑った。扇で口元を隠しているが、その奥の表情は戦意に満ちている。
「でしたら、交渉以外の手段を全力で整えるまでですわ。同盟国への根回しは、わたくしにお任せくださいまし」
「ミーシャも頑張るのです! 古代の対虚無防壁のデータ、書庫から全部引っ張り出してくるのですよぅ!」
レイドは、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
宮廷にいた頃は、一人だった。理解されない魔術を抱え、嘲笑に耐え、それでも研究を続けた。あの頃の自分に教えてやりたい。お前はいずれ、こんなにも頼もしい仲間を得るのだと。
「ありがとう。正直に言えば、今回の脅威は俺にも全容が見えていない。だが——この街を、この仲間を守るためなら、俺は何でもやる」
レイドは立ち上がり、窓の外に目を向けた。荒野の地平線に夕陽が沈みゆく。赤く染まった空の下、ノヴァ・アルカディアの街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
「まずは情報収集だ。七つの聖域の場所を特定する。ソフィアとミーシャに書庫の記録を精査してもらい、シルヴァリアのエルフにも古い伝承の提供を求める。ガルムは荒野の警備体制を強化してくれ。虚無の気配が検出された地点を重点的に。リリアーナは同盟国との連絡を密にして、各国にも異変がないか確認を」
「了解だ」
「承知しましたわ」
「任せてください」
「はいなのです!」
仲間たちが頷き、それぞれの持ち場へ動き出す。フィーネだけが最後に残り、レイドの隣に立った。
「レイドさん、無理しないでくださいね。あなた、大変なときほど一人で抱え込む癖があるんですから」
「分かってる。もうあの頃の俺じゃない」
「ならいいんですけど」
フィーネは小さく笑い、評議室を出ていった。
一人残されたレイドは、研究ノートを開いた。真新しいページに、震えのない文字で書き記す。
『解放の儀式——第一段階、起動確認。残り六段階。阻止する』
ペンを置き、窓の外を見る。夕闇が荒野を覆い始めていた。
どこか遠くで——本当に微かに——大地が脈動した気がした。
◇
同じ頃、王都クレスティア。
宰相執務室の燭台が、風もないのに揺れた。
ヴァルター・ゼーリヒは執務机に向かい、報告書を読んでいた。聖剣旅団の撤退。三国同盟の成立。辺境都市の勢力拡大。どの報告も、彼にとって不快な内容ばかりだった。
だが不思議と、焦りはなかった。
あの夜以来——影の訪問者と言葉を交わして以来、ヴァルターの中で何かが変わっていた。思考が冴え渡り、これまで見えなかった手筋が次々と浮かぶ。まるで、誰かが耳元で囁いているかのように。
「辺境ごとき、恐れるに足りん」
呟き、報告書を閉じる。
その瞬間——執務室の鏡に映った彼の瞳が、一瞬だけ深紅に染まった。
ヴァルター自身は気づかない。ただ、唇の端に浮かんだ笑みだけが、以前の彼には決してなかった種類のものだった。
荒野の最深部では、大地の亀裂から黒い霧がゆっくりと這い出し始めていた。
千年の封印が——確実に、解け始めていた。




