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撤退と暗影

 ミーシャの警告が脳裏にこびりついたまま、レイドは城壁の上に立っていた。


 眼下には、整然と隊列を組み直す聖剣旅団の姿がある。夜明けの淡い光が、傷つき疲弊した騎士たちの鎧を照らしていた。


 その先頭に、グレイヴが立っている。


 聖剣を鞘に収め、兜を脱いだその顔には、敗北の屈辱ではなく、静かな納得の色が浮かんでいた。


「レイド・アシュフォード」


 グレイヴの声が、朝の荒野に響いた。騎士としての威厳を崩さぬまま、彼は城壁を見上げる。


「聖剣旅団は、ここに撤退を宣言する」


 城壁の上で、守備に就いていた兵士たちがざわめいた。ガルムが腕を組んだまま、鋭い目でグレイヴを見据えている。


「罠か?」


「いや」レイドは首を横に振った。「あの男は嘘をつかない」


 グレイヴは続けた。


「王国騎士として、余は命令に従い此の地に来た。だが——この都市を滅ぼすべき理由を、余は見出せなかった」


 一瞬の沈黙が、戦場を包んだ。


「種族の異なる者たちが共に暮らし、互いの力を活かし合う街。それを悪と断じる根拠を、余の剣は持たぬ」


 レイドは城壁の階段を降りた。フィーネが「レイドさん、まだ危険かも——」と声をかけたが、レイドは振り返って微笑んだ。


「大丈夫だ。あの人は筋を通す人間だから」


 城門が開き、レイドがひとりで歩み出る。グレイヴもまた、供を連れずに前に出た。


 二人は、荒野の中央で向き合った。


「見事な戦いだった」グレイヴが言った。「あの概念構築魔術とやら、余の聖剣で断ち切れたはずだったが——まさか法則そのものを書き換えるとはな」


「こちらこそ。聖剣がなければ、もっと楽に勝てたんだが」


 レイドの軽口に、グレイヴの口元がわずかに緩んだ。


「宰相には、余から報告する。この地に脅威はないとな」


「それは——助かる」


「勘違いするな」グレイヴは鋭い目を向けた。「次に命令が下れば、余は再び剣を取る。それが騎士だ」


「ああ。わかっている」


 レイドは手を差し出した。グレイヴは一瞬だけ躊躇し、それからその手を握った。甲冑越しでも伝わる、武人の握力だった。


「いずれまた会おう、万象の魔術師」


「そのときは、茶でも出すよ。うちの街の水は美味いぞ」


 グレイヴは鼻を鳴らし、踵を返した。五百騎の聖剣旅団が、砂塵を上げて東へと去っていく。


 城壁の上で、リリアーナが望遠鏡を下ろした。


「予想通りですわ。南東の包囲軍も動き始めました。撤退方向——王都への帰路ですわね」


「読み通りか」ガルムが呟いた。


「聖剣旅団が退けば、残りの部隊に戦う理由はありませんもの」リリアーナは扇を開いた。「彼らは最初から、旅団の勝利を前提に配置されていただけですわ」


 歓声が沸き上がった。


 城壁の上から、街の中から、農地から。ノヴァ・アルカディアの住民たちが、勝利を叫んでいる。獣人の子供たちが通りを駆け回り、ドワーフの鍛冶師たちが槌を打ち鳴らして祝った。エルフの楽師が即興の旋律を奏で、人間の商人たちが蓄えていた酒樽を開ける。


 フィーネがレイドのもとに駆け寄り、その手を取った。


「終わりましたね、レイドさん」


「ああ……ひとまずはな」


 レイドの声に、どこか影が残っていた。フィーネは首を傾げる。


「どうしたんですか? 勝ったのに、そんな顔して」


「ミーシャの報告が気になる」


 レイドは祝賀の喧噪から離れ、指揮所に戻った。ミーシャが魔導端末の前で忙しなく虹色の瞳を動かしている。


「ミーシャ、戦場の最終記録を見せてくれ」


「はいなのです。……ご主人様、やっぱり変なのです」


 ミーシャが空中にマナ映像を展開した。戦闘中の俯瞰記録だ。騎士団の動き、都市防衛網の稼働状況、そして——


「ここなのです」ミーシャが一点を指差した。「戦闘の最中に、この人影が戦場の端から消えているのです」


 映像の中で、フード姿の人物が荒野の岩陰に立っていた。セラフィーナ。レイドが以前から気にかけていた、謎の多い女だ。


「消えた? 転移魔術か?」


「それが違うのです。転移ならマナの跳躍反応が記録されるはずなのに、何もないのです。まるで最初からそこにいなかったみたいに——」


 ガルムが腕を組んだ。


「信用ならん女だとは思っていた」


「断定は早い」レイドは言った。「だが、無視もできない」


 そこへ、息を切らせてソフィア——遺跡管理を担う魔導技師——が駆け込んできた。


「レイド様、大変です! 地下遺跡のマナモニターに異常値が出ています!」


「異常値?」


「荒野全域のマナ流が不規則に脈動しています。まるで……何かが地下で共鳴しているような。こんなパターンは、記録にもありません」


 ミーシャの顔が青ざめた。


「……あるのです。千年前の記録に。アルカディアの古文書に記された、大崩壊の前兆と同じパターンなのです」


 歓声が響く街の地下で、大地は不気味に脈打っていた。レイドは研究ノートを取り出し、ソフィアの持ってきたデータと照合し始めた。


「セラフィーナの失踪と、このマナ変動。偶然とは思えないな」


「団長」ガルムが静かに言った。「戦は終わっていないということか」


「ああ。むしろ——始まったばかりかもしれない」


 レイドは窓の外を見た。祝いの灯が街を照らしている。この光を守るために、まだやるべきことがある。



 ◆ ◆ ◆



 王都クレスティア。王城の奥深く、宰相の執務室。


 グレイヴの報告書が、机の上に叩きつけられた。


「撤退だと?」


 ヴァルターの声が、石壁に反響した。蒼白な顔に血管が浮き、握りしめた拳が小刻みに震えている。


「聖剣旅団五百騎を送り込み——あの半端者ひとりに敗れたと?」


 報告書を持ってきた伝令官が怯えた顔で後ずさった。


「は、はい。グレイヴ団長からの正式な撤退報告でございます。辺境都市に脅威は認められず、むしろ——」


「黙れ」


 ヴァルターの一言で、室内の空気が凍りついた。


「脅威がないだと? あの男は王国の秩序を脅かしている。獣人やエルフと手を組み、独自の同盟を築き——それを脅威でないと?」


 側近のひとりが恐る恐る口を開いた。


「宰相閣下、しかし国王陛下の御裁可なくこれ以上の軍事行動は——」


「裁可などいらん!」


 ヴァルターは立ち上がり、机上の書類を薙ぎ払った。羽根ペンとインク壺が床に散乱する。


「この私の判断が間違っていたと言うのか! あの辺境の寄せ集めが、王国の正規軍を退けた? ありえん。断じてありえん!」


 側近たちが顔を見合わせた。宰相の目には、もはや理性の光がない。権力の座に固執する者特有の、追い詰められた獣の目だった。


「全軍を動員する」ヴァルターは宣言した。「辺境都市を殲滅せよ。あの荒野ごと、地図から消し去れ」


「し、しかし閣下、それでは王国の防衛が——」


「余の命令が聞けぬのか!」


 側近たちは沈黙した。反論できる者は、もういなかった。


 伝令官たちが慌ただしく走り出す。王の裁可なき動員命令。それがどれほどの混乱を招くか、ヴァルターには見えていなかった。


 いや——見ようとしていなかった。


 執務室に再び静寂が訪れた。ヴァルターは崩れるように椅子に座り、頭を抱えた。


 そのとき。


「——お困りのようですね、宰相殿」


 声は、部屋の隅の影から聞こえた。


 ヴァルターが弾かれたように顔を上げる。護衛も通さず、扉も開かず、いつの間にそこにいたのか。


「何者だ」


「我々にお任せいただければ、あの都市など一夜で消し去れますよ」


 影の中に立つ人影は、深い闇を纏っていた。フードの奥に顔は見えない。ただ、その存在が放つ禍々しいマナだけが、ヴァルターの肌を粟立たせる。


「一夜で、だと?」


「ええ。軍など必要ありません。もっと——確実な方法がございます」


 影が一歩前に出た。燭台の炎が不自然に揺れ、室内の温度が下がる。


 ヴァルターは、逃げるべきだと本能が告げていた。


 だが——彼は、逃げなかった。


「……聞こう」


 宰相の声は、もう震えていなかった。

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