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決戦前夜の灯火

 万象の書庫の最深部で、レイドは術式の海に沈んでいた。


 周囲に浮かぶ古代文字の光が、銀灰色の髪を青白く照らしている。指先が虚空をなぞるたびに、複雑な魔法陣が組み上がり、解け、また再構成される。その繰り返しが、もう何時間続いているのか。


「——つまり防衛結界の第七層に概念構築の術式を噛ませれば、物理攻撃の運動エネルギーそのものを減衰できる。いや待て、減衰じゃない。概念的に『衝突』という事象の定義を書き換えて——」


 独り言が加速していく。研究ノートにはびっしりと数式が書き連ねられ、余白などとうに残っていなかった。


「ご主人様」


 ミーシャの声が、思考の奔流を遮った。銀髪の人工精霊が、虹色の瞳に心配の色を浮かべて立っている。


「ご主人様、もう八時間も休んでいないのです。概念構築は精神への負荷が尋常じゃないのですよぅ」


「大丈夫だ、ミーシャ。あと少しで術式が完成する」


「大丈夫じゃないのです!」


 ミーシャが珍しく語気を強めた。虹色の瞳が揺れる。


「いいですか、ご主人様。アルカディアの記録によれば、概念構築魔術を実戦で使用した大魔導士は、千年の歴史でたった三人なのです。三人ですよぅ? そのうち二人は術式の暴走で命を落としているのです」


 レイドの手が止まった。ミーシャの言葉の重みを、理解していないわけではない。


「知っているさ。記録は全て読んだ」


「なら——」


「だから、四人目になる」


 静かな声だった。虚勢でも楽観でもない。膨大な研究と試行の果てにたどり着いた、確信に基づく言葉。


 ミーシャは唇を噛んだ。この人は、こうなったら止められない。それは誰よりもよく知っている。


「……フィーネさんを呼んでくるのです」


 小さな体が書庫の入口へ駆けていく。レイドは苦笑して、再び術式に向き直った。



  ◇



 十分後、フィーネが書庫に現れた。


 金髪が寝癖で少し乱れている。急いで来たのだろう、薄手の上着を羽織っただけの姿だった。


「レイドさん」


「ああ、フィーネ。すまない、ミーシャが大げさに——」


「目の下の隈、鏡で見ました?」


 遮るように言われて、レイドは言葉に詰まった。


 フィーネは無言で近づき、レイドの研究ノートをそっと取り上げた。抵抗しようとした手を、細い指で押さえる。


「あと少しで完成するんだ。本当に、あと——」


「それ、三時間前にもミーシャに言ってたそうですよ」


 碧い瞳が真っ直ぐにレイドを見つめる。怒っているわけではない。ただ、心配しているのだ。明日の決戦を前にして。


「……術式は九割方できている。残りは朝でも間に合う」


「なら、今は休んでください」


 フィーネは書庫の壁際に腰を下ろし、自分の膝を軽く叩いた。レイドが目を丸くする。


「いや、さすがにそれは——」


「明日、万全じゃないレイドさんなんて見たくないんですけど!?」


 語尾が跳ね上がった。怒りと心配が混ざった声。レイドは観念したように肩の力を抜いた。


「……わかった。少しだけだぞ」


 フィーネの膝に頭を預けると、蓄積していた疲労が一気に押し寄せてきた。古代文字の残光がまぶたの裏にちらつく。


「ありがとう、フィーネ」


「お礼は明日、無事に終わってからにしてください」


 細い指が銀灰色の髪をそっと梳いた。数秒もしないうちに、レイドの呼吸が穏やかに整っていく。


 ミーシャが書庫の入口から覗き込み、その光景を見て満足そうに頷いた。



  ◇



 同じ頃、城壁の上。


 ガルムは松明の光の下、整列した兵士たちの前に立っていた。


 虎族の巨躯が夜闇にそびえる。無数の傷跡を刻んだ腕を組み、琥珀の瞳が一人一人の顔を見据えた。


 獣人、人間、ドワーフ、ハーフエルフ。かつて種族の違いで迫害され、この地に流れ着いた者たち。その誰もが、今は同じ紋章を胸に掲げている。


「明日、聖剣旅団が来る」


 低い声が夜風に乗った。


「王国最精鋭の五百騎だ。一人一人が、並の兵士十人分の戦力を持つ」


 兵士たちの間に緊張が走る。だが、ガルムは構わず続けた。


「俺たちは数で劣る。練度でも劣る。正面からぶつかれば、勝ち目は薄い」


 沈黙が落ちた。松明の炎が風に揺れる。


「だが——」


 ガルムの声が一段低くなった。


「俺たちには、この都市がある。団長が築いた結界がある。三千体の魔獣を退けた防衛陣がある。あの時と同じだ。敵を城壁で受け止め、結界で削り、反撃で叩く。単純だが、それでいい」


 第三章の魔獣大戦で確立した防衛ドクトリン。それを対人戦に応用する。ガルムは何日もかけてその調整を行ってきた。魔獣と人間では動きが違う。だが、原則は変わらない。


「明日は一人も死なせねえ」


 断言だった。


「団長の命令だ。全員生きて帰れ。それが、ノヴァ・アルカディアの戦い方だ」


 兵士たちの目に光が宿った。恐怖は消えていない。だが、それ以上の何かが——信頼が、決意が、そこにあった。


「了解!」


 声が揃った。種族の違う喉から発せられた、一つの意志。


 ガルムは頷き、かすかに口角を上げた。それは、彼なりの笑みだった。



  ◇



 城壁の反対側、リリアーナは広げた地図の上に駒を並べていた。


「最終確認ですわ」


 赤毛をかき上げ、地図を指でなぞる。


「聖剣旅団は東から。それに呼応して、買収された近隣三領主の軍勢が北と南から包囲する形を取っています」


 傍らに控える伝令兵が緊張した面持ちで聞いている。


「ですが——」


 リリアーナの口元に、鋭い笑みが浮かんだ。


「所詮は金で動いた連中ですわ。彼らの兵は進軍速度を意図的に落としています。本気で戦う気がないのは明白。聖剣旅団が負ければ、蜘蛛の子を散らすように逃げるでしょう」


 第六十五話で分析した通りだった。宰相ヴァルターの金に釣られた領主たちだが、自領の兵を本気で消耗させるつもりはない。形だけの包囲に過ぎない。


「つまり、実質的な敵は聖剣旅団のみ。包囲軍は無視して構いません。全戦力を東に集中しますわ」


 リリアーナは駒を一つ、東の城壁に移動させた。


「この戦い、レイドさんが結界を完成させれば——わたくしたちの勝ちですの」



  ◇



 夜明け前。


 レイドは二時間の仮眠から目を覚ました。体は軽い。フィーネの膝枕と、書庫の濃密なマナが疲労を癒してくれたらしい。


 残りの術式を三十分で書き上げ、都市の防衛結界に概念構築魔術を組み込んだ。結界の蒼い光が一瞬だけ虹色に揺らめき、新たな力を宿したことを示す。


「行くか」


 城壁に上ると、すでに全員が揃っていた。


 ガルムが腕を組んで東を見据えている。フィーネが杖を握りしめ、かすかに唇を引き結んでいた。リリアーナは地図を丸めて腰に差し、戦場を見渡す目に切り替わっている。ミーシャがレイドの肩に飛び乗り、小さな体を寄せた。


 東の空が白み始めていた。


 紫から橙へ。夜の帳が、ゆっくりと剥がれていく。


「綺麗ですね」


 フィーネが呟いた。


「ああ。——明日もこの空を見よう」


 レイドの言葉に、誰もが頷いた。


 やがて、朝日が地平線から顔を出す。


 その光の中に——動くものがあった。


 整然たる隊列。陽光を弾く銀の鎧。五百騎の聖剣旅団が、一糸乱れぬ行軍で前進を開始していた。


 大地を揺らす蹄の音が、風に乗って城壁まで届く。


「来たか」


 ガルムが低く唸った。


「予想通りの布陣ですわ。包囲軍は動いていません」


 リリアーナが冷静に報告する。


 レイドは目を細め、敵陣を注視した。聖剣旅団の先頭を走る旗印。その威圧感は、さすがに王国最精鋭と呼ばれるだけのことはあった。


 だが——


 その最後尾に。


 銀の鎧とは明らかに異質な一団が紛れていることに、まだ誰も気づいていなかった。


 黒いローブを纏った十数名の影が、朝霧に紛れて静かに進んでいる。その足取りには、軍人のそれとは異なる——どこか儀式的な規則性があった。


 決戦の朝が、明けた。

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