騎士の問い
朝焼けが荒野を赤く染め上げた、その日の正午だった。
ノヴァ・アルカディアの東方監視塔から、甲高い警鐘が鳴り響いた。三度の短鳴と一度の長鳴——敵性勢力接近を示す信号。レイドが結界制御室から飛び出したとき、すでにガルムが城壁の上に立っていた。
「来たか」
ガルムの低い声が風に乗る。虎族の鋭い瞳が東の地平線を射抜いていた。
砂塵の壁が迫ってくる。その中に、整然と並ぶ騎馬の影が見えた。白銀の鎧が陽光を弾き、まるで光の波が押し寄せてくるようだった。先頭に翻る軍旗には、交差した聖剣の紋章。
「聖剣旅団」
レイドは城壁に手をつき、目を細めた。五百騎。報告通りの数だ。一騎一騎が王国最精鋭の称号に恥じない威圧感を放っている。
「団長、住民の避難は——」
「もう済んでいる。リリアーナが取り仕切ってくれた」
レイドの言葉に、ガルムは小さく頷いた。
聖剣旅団は都市の外縁一キロメートルほどの地点で停止した。砂塵が晴れると、幾何学的な正確さで陣が敷かれていくのが見えた。天幕が立ち、柵が組まれ、見張り台が設置される。その手際は、さすがに見事と言わざるを得なかった。
一刻もしないうちに、白旗を掲げた騎士が二騎、都市の正門に向かってきた。
「使者だな。俺が出る」
「一人でか」レイドの判断にガルムが眉を寄せた。
「相手が礼を示しているなら、こちらも礼で返す。それが交渉の第一歩だ」
ガルムは不服そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。ただ、城壁の上から弓兵の配置をさりげなく厚くする指示を出していた。
正門の前に立ったレイドに、使者の騎士が馬上から声をかけた。若い男だったが、声には訓練された硬さがあった。
「クレスティア王国聖剣旅団団長グレイヴ・ランカスター卿の名代として申し入れる。辺境都市の統治者との正式な会談を要請する」
「辺境都市ノヴァ・アルカディアの代表、レイド・アシュフォードだ。会談に応じよう。場所と条件は?」
「両陣営の中間地点。護衛は各三名まで」
「了解した。一刻後に」
使者は敬礼し、馬首を返した。レイドはその背を見送りながら、小さく息を吐いた。
——少なくとも、いきなり攻め込んでくるような相手ではない。
約束の時刻、荒野の中間地点に簡素な天幕が張られた。
レイドはガルムとフィーネを伴って天幕に入った。向かいに座る男を見て、無意識に背筋が伸びた。
グレイヴ・ランカスター。四十代半ば、灰色交じりの金髪を短く刈り上げた偉丈夫。深い皺が刻まれた顔には、戦場で培われた威厳が滲んでいた。その隣に立つ女騎士——副官セラフィーナだろう——は、氷のような蒼い瞳でレイドを睨みつけていた。
「レイド・アシュフォード。元宮廷魔術師にして、この辺境都市の長か」
グレイヴの声は低く、落ち着いていた。敵意よりも、品定めするような響きがあった。
「その通りだ。グレイヴ卿、単刀直入に聞こう。要求は何だ」
「王国の名において命じる。辺境都市の武装を解除し、古代遺跡群を王国に引き渡せ。住民の安全は保障する。これが宰相閣下からの勅命だ」
勅命——王の名を借りたヴァルターの意思。レイドは予想通りの内容に表情を変えなかった。
「お断りする」
セラフィーナの手が剣の柄に伸びた。だがグレイヴが片手を上げ、それを制した。
「理由を聞こう」
「法的根拠がある」レイドは懐から一通の羊皮紙を取り出した。追放の日に叩きつけられた、あの書状だ。「これは王印入りの正式な辺境領地下賜状だ。『ブランフェルト荒野の統治権をレイド・アシュフォードに委ねる』と明記されている。俺がこの地を開拓し、統治する権利は王国自身が認めたものだ」
グレイヴの目が細くなった。書状を手に取り、王印を確認する。
「——確かに正式な文書だ」
「グレイヴ卿。我々は王国に反逆していない。税も納めている。他国と同盟を結んだのも、この地の防衛と発展のためだ。武装解除に応じる法的義務は、どこにもない」
沈黙が天幕に落ちた。セラフィーナが苛立たしげに口を開いた。
「団長、交渉は無駄です。この男は言葉巧みに時間を稼いでいるだけ。即座に攻撃すべきです」
彼女の声には、単なる軍事的判断以上の何かが滲んでいた。焦り——いや、執着に近い熱。レイドはそれを聞き逃さなかった。
「セラフィーナ」グレイヴが静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。「騎士として礼を尽くす。それが聖剣旅団の誇りだ」
副官は唇を噛んだが、それ以上は反論しなかった。
グレイヴは深いため息をついた。書状をレイドに返し、立ち上がる。
「三日間の猶予を与える。その間に考えを改めることを勧める」
「考えは変わらない」
「だろうな」グレイヴはかすかに笑みを浮かべた。「だが、猶予は猶予だ。三日後に再び問う。それまでは一切の攻撃を行わないことを、騎士の名に誓う」
天幕を出たグレイヴの背中を見送りながら、フィーネが小声で言った。
「思っていたより……まともな人ですね」
「だからこそ厄介だ」ガルムが腕を組む。「狂犬なら対処しやすい。理性的な敵は読みづらい」
レイドは黙って頷いた。グレイヴの目に宿っていた光——あれは命令に従う軍人の目ではなかった。何かを見極めようとする目だ。
都市に戻ると、住民たちが広場に集まっていた。
リリアーナが状況を説明し終えたところだったらしい。人々の顔には恐怖もあったが、それ以上に決意の色が濃かった。
「レイド様!」ドワーフの鍛冶師が声を上げた。「俺たちも戦うぞ!ここは俺たちの街だ!」
「戦えない者も手伝いますわ」獣人の女性が幼い子供を抱きながら言った。「物資の運搬でも、怪我人の手当てでも」
「逃げるつもりはありませんよ」エルフの老人が杖をつきながら前に出た。「わしらは追われてここに来た。もう、逃げる場所はないんじゃ。いや——逃げたくないんじゃ」
次々と上がる声に、レイドは胸が詰まった。種族も年齢もばらばらな人々が、同じ方向を向いている。かつて宮廷にいた頃、こんな光景は一度も見なかった。
「——ありがとう」
レイドの声はかすかに震えていた。だが、すぐに表情を引き締めた。
「みんなの覚悟は受け取った。だが、俺は誓う。誰も死なせない。一人もだ。そのための準備を、今から始める」
その夜、結界制御室でガルムとの最終打ち合わせが始まった。
「殺さずに五百騎を無力化する。正直に言えば、常識では不可能だ」
ガルムの言葉は率直だった。テーブルに広げた地図を指で叩く。
「だが、団長の魔術なら話は別だ。要は全員の戦闘力を奪えばいい」
「ああ。万象構築魔術で三つの防衛層を構築する」レイドは地図に魔術式を描き込んでいった。「第一層——足場の概念書き換え。騎兵の突撃ルートの地面を、踏み込むほど足が沈む泥沼に変える。馬が使えなくなれば、騎兵の機動力は死ぬ」
「第二層は?」
「重力勾配の局所操作。城壁の手前三百メートルに、体が重くなる領域を作る。鎧を着た騎士なら、立っているだけで精一杯になるはずだ」
ガルムが低く唸った。「で、第三層が本命か」
「ああ。概念構築の応用——『眠りの領域』だ。マナを媒介にして、範囲内の生物の意識を緩やかに沈める。殺傷力はゼロだが、制御が難しい。味方にも効く可能性がある」
「そこはミーシャの結界で味方を遮蔽できる」
「そういうことだ」
二人は夜が更けるまで細部を詰めた。ガルムが退出し、レイドが一人で魔術式の調整を続けていた深夜——。
結界が、来訪者を告げた。
一人。武装なし。だが、その魔力反応は紛れもなく——。
レイドは制御室を出て、城壁の上に立った。月明かりの下、正門の前に一人の男が立っていた。グレイヴ・ランカスター。鎧を脱ぎ、剣も持たない。平服姿で腕を組み、月を見上げていた。
レイドは門を開けさせた。ガルムなら止めただろう。だが、直感が告げていた。これは罠ではない。
「グレイヴ卿。夜分に何用だ」
グレイヴはレイドを真っ直ぐに見た。戦場の威圧感は消え、そこにいたのは一人の——疲れた騎士だった。
「団長として聞くのではない」
グレイヴの声は低く、静かだった。
「一人の騎士として聞きたい——お前は何のために戦う?」
月光が二人の間に影を落とした。荒野を渡る風だけが、沈黙を埋めていた。




