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四つの刃、四つの盾

 深淵からの共鳴を感じた夜から、レイドは眠れずにいた。


 研究塔の窓から見下ろすノヴァ・アルカディアの街並みは静かだ。月明かりに照らされた石造りの建物が整然と並び、魔導灯の淡い光が通りを照らしている。聖剣旅団の到着まであと一日。街は嵐の前の静けさに包まれていた。


 ——いや、静かすぎる。


 レイドは窓枠に手をかけたまま目を細めた。結界の魔力パターンに微かな乱れがある。外部からの侵入ではない。既に内側にいる者が、結界の死角を縫って動いている。


「……来たか」


 研究ノートを閉じ、レイドは塔を飛び出した。



    ◆



 フィーネの薬草園は、夜でも仄かな緑の光を放っていた。


 魔力を帯びた薬草たちが月光を吸い、幻想的な輝きを纏っている。その美しい光景の中に——異質な紫煙が這い寄っていた。


「毒煙……っ」


 フィーネは寝間着のまま薬草園に駆け込んでいた。就寝前の巡回。それが彼女の日課だった。以前、内通者に薬草を汚染された経験がある。あの苦い記憶が、今の彼女を守っていた。


 紫煙は猛毒のヴァイパーミスト。吸えば数分で呼吸が止まる。だが——


「甘いですよ」


 フィーネは両手を地面につけた。植物魔法が薬草園全体に伝播する。薬草の根が一斉に脈動し、大気中の毒素を吸い上げ始めた。浄化能力を持つシルバーリーフの群生が、紫煙を貪欲に吸収していく。


「この薬草園は私の領域です。毒を撒くなら——」


 地面から蔦が噴き出した。物陰に潜んでいた黒装束の暗殺者二人が、足首を絡め取られて悲鳴を上げる。


「——それくらいの覚悟はしてくださいね?」


 蔦が全身を拘束し、暗殺者たちは身動きが取れなくなった。フィーネは額の汗を拭い、静かに息を吐く。


 第三章での内通者事件以来、薬草園の防衛は最優先で強化してきた。毒には毒を。いや、毒には薬を。それが薬師の戦い方だった。



    ◆



 同時刻。ガルムの宿舎。


 爆音が夜を引き裂いた。


 木造の壁が吹き飛び、炎が室内を舐め回す。爆裂魔具——高密度の火属性マナを圧縮した使い捨ての兵器だ。直撃すれば獣人の頑強な肉体でも無事では済まない。


 だが、寝台の上に人影はなかった。


「遅い」


 瓦礫の陰から虎族の巨躯が立ち上がる。ガルムは最初から寝台を離れ、壁際で仮眠を取っていた。暗殺者対策として、就寝位置を毎晩変える。それもまた、過去の教訓から学んだ習慣だった。


 炎の向こうから、二つの影が飛び込んでくる。短剣を構えた暗殺者だ。


「獣人め、死に——」


 一人目が右側から襲いかかる。ガルムの右腕——毒の後遺症で以前ほどの力が出ない腕だ。暗殺者はそれを知っているかのように、あえて右側を狙った。


 ガルムは右腕を上げた。短剣が前腕の毛皮を裂く。浅い傷。だが暗殺者は一瞬、手応えに気を取られた。


 その一瞬で十分だった。


「右が弱いのは知ってるだろう。だが——」


 左の拳が暗殺者の腹に突き刺さった。獣人の全力の一撃。肋骨が砕ける音が響き、暗殺者は壁まで吹き飛んだ。


「——左が強くなったことは知らなかったようだな」


 右腕の衰えを補うため、左腕を徹底的に鍛え直した。結果として、以前よりも強力な一撃を手に入れた。不自由が生んだ、新しい戦い方。


 二人目の暗殺者は、仲間の無残な姿を見て逃走を図った。だがガルムの脚力の方が速い。首根っこを掴み上げ、地面に叩きつける。


「団長に報告することが増えたな」



    ◆



 リリアーナの執務室は、商業区画の二階にあった。


 深夜にもかかわらず灯りが点いている。机の上には書類が山と積まれ、椅子に座った人影がペンを走らせていた——ように見えた。


 窓から忍び込んだ暗殺者は、音もなく背後に回り込む。短剣を抜き、一息に——


 ガチャリ。


 足元で何かが鳴った。暗殺者が視線を落とした瞬間、床板が抜け落ちた。


「きゃあっ!?」


 女の悲鳴。だがそれは暗殺者のものだった。床下の空間に落下し、四方から鉄格子がせり上がる。


「——かかりましたわね」


 隣室の扉が開き、リリアーナが姿を現した。執務室の人影は、書類を積み上げて作った囮だ。


「商人にとって最も大切なのは情報ですの。あなたたちが来ることは、昨日の時点で察しておりましたわ」


 リリアーナは鉄格子の前にしゃがみ込み、冷たい笑みを浮かべた。


「さて、お話を聞かせていただきましょうか? 黒蛇の方。誰に雇われて、何を目的に——素直にお答えいただければ、痛い思いはさせませんわ」


 その目には、没落貴族の令嬢とは思えない鋭さが宿っていた。交渉の場数が、彼女をここまで変えた。



    ◆



 地下遺跡の最深部。ミーシャのコア結晶が安置された聖室。


 虹色に輝く結晶体の表面を、黒い文様が這い回っていた。呪詛術式。遠隔で仕掛けられた高度な魔術だ。コア結晶を汚染し、ミーシャの機能を停止させる——それが狙いだった。


「んー、くすぐったいのです」


 ミーシャは結晶の前に浮かび、小首を傾げた。


「千年前にも似たようなことをされたのですよぅ。あの時はアルカディアの防護術で——えーっと、古代語で『鏡面反転障壁リフレクティオ・スペクルム』って言うのです」


 小さな手のひらから虹色の光が広がる。呪詛の黒い文様が結晶から剥がれ、逆流を始めた。


「呪詛を送り返すだけじゃなくて、術者の魔力パターンを逆探知できるのです。便利なのですよぅ」


 ミーシャの虹色の瞳が、遠くを見据えるように細められた。


「……見つけたのです。術者は街の外、北東の丘陵地帯。距離はおよそ三キロ」


 呪詛は完全に跳ね返された。コア結晶は何事もなかったかのように虹色の輝きを取り戻す。


「ご主人様に教えてあげなきゃなのです!」



    ◆



 レイドが最初に駆けつけたのはフィーネの薬草園だった。


 だが、そこには蔦で簀巻きにされた暗殺者と、腰に手を当てて仁王立ちするフィーネの姿があった。


「あ、レイドさん。大丈夫ですよ、もう片付きました」


「……そうか」


 ガルムの宿舎に向かえば、気絶した暗殺者二人を肩に担いだ虎族の戦士が待っていた。


「団長、遅いぞ。もう終わった」


「……そうだな」


 リリアーナの執務室では、鉄格子の中の暗殺者が既に情報を吐き始めていた。


「あら、レイド様。ちょうどいいところですわ。興味深い話が聞けそうですの」


「……なるほど」


 地下聖室に降りれば、ミーシャが誇らしげに胸を張っていた。


「ご主人様! ミーシャ、呪詛を跳ね返して術者の場所も突き止めたのです! 褒めてほしいのです!」


 レイドは全員の顔を見回し——苦笑した。


「頼もしくなったな、お前たち」


 かつては自分が守らなければならなかった仲間たちが、今は自分の力で危機を切り抜けている。それは誇らしくもあり、少しだけ寂しくもある。だがこの感情の正体を、レイドは正しく理解していた。


 ——これが、信頼だ。



    ◆



 夜明け前。捕らえた暗殺者たちを一箇所に集め、尋問が始まった。


 リリアーナが引き出した情報と、ミーシャが逆探知した術者の位置。それらを突き合わせると、不穏な全体像が浮かび上がった。


「黒蛇は二重契約だったようですわ」


 リリアーナが書類に目を落としながら言った。


「ヴァルター宰相からの依頼。それは把握していました。ですが——もう一つ、別の依頼主がいたようですの」


「別の依頼主?」


 レイドは眉をひそめた。


 鉄格子の中で、最も口の軽い暗殺者が乾いた笑いを漏らした。


「へへ……あんたら、すげえよ。俺たちを全員返り討ちにするなんてな。だがよ——」


 男の目に、恐怖の色が浮かんだ。ヴァルターへの恐怖ではない。もっと根源的な、本能に刻まれたような怯え。


「——俺たちの本当の依頼主は……王国じゃねえ。もっと古い、もっと恐ろしい連中だ」


 室内の空気が凍りついた。


「古い連中、とは?」


 レイドの声は静かだった。だが、その静けさの中に鋭い刃が潜んでいた。


 暗殺者は首を横に振った。唇が震えている。


「名前は言えねえ。言ったら——言っただけで、あいつらには分かる。どこにいても、何をしていても——」


 男の視線が虚空を彷徨った。


「あいつらは千年前からいるんだ。ずっと、ずっと——この大陸の裏側で」


 千年前。その言葉にミーシャが反応した。虹色の瞳が大きく見開かれる。


「……千年前から?」


 ミーシャの声から、いつもの幼さが消えていた。


 レイドは足元を見下ろした。昨夜感じた深淵からの共鳴。古代遺跡群よりもさらに深い場所で目覚めようとしている何か。そして今、千年の闇から手を伸ばす依頼主の存在。


 点と点が線になりかけている。だが、その線の先にあるものの輪郭は、まだ見えない。


「聖剣旅団は明日来る。だが——」


 レイドは仲間たちを見渡した。


「本当の敵は、もっと深いところにいるかもしれない」


 東の空がうっすらと白み始めていた。夜明けの光が、五人の顔を照らす。


 嵐は一つではなかった。

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