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亀裂の種、そして迫る影

 朝市の喧騒が、いつもと違う色を帯びていた。


 ノヴァ・アルカディアの中央広場に並ぶ露店の間を歩きながら、レイドは眉をひそめた。果物を並べる獣人の商人と、人間の買い物客が睨み合っている。昨日も似たような光景を見た。一昨日も。


 些細な値段交渉が怒鳴り合いに変わり、周囲の空気が張り詰める。


「てめえら獣人は、いい品を仲間内で回して人間には売れ残りしか寄越さねえだろうが!」


「何を言う。同じ値段で同じ品を出している。言いがかりはやめてくれ」


 虎族の商人が低く唸ると、人間の男が一歩後ずさった。だがその目には恐怖ではなく、憎悪が宿っている。


 レイドが間に入ろうとした時、横から伸びた太い腕が人間の男の肩を掴んだ。


「——落ち着け」


 ガルムだった。無言の圧で場を制し、双方を引き離す。だがその顔には、隠しきれない苦渋が滲んでいた。


「団長。少し話がある」


 広場から離れた路地裏で、ガルムは腕を組んだまま低い声で告げた。


「ここ数日、こういった揉め事が十件を超えた。市場だけじゃない。居住区でも、人間の家の壁に『獣人は出ていけ』と落書きされた。逆に獣人の若い連中は『人間に舐められてたまるか』と血気立っている」


「……以前の内部撹乱と同じ匂いがするな」


 レイドは研究ノートを閉じ、目を細めた。第三章の騒乱——あの時も、外部からの工作で内側から都市を崩そうとする手口だった。


「ガルム、部下の獣人兵士たちの様子はどうだ」


「正直に言う。動揺している」


 歯を食いしばるように、ガルムは続けた。


「訓練中に人間兵と口論になった者が二名。俺が叱りつけて収めたが、根が深い。『結局、人間と獣人は分かり合えないのでは』——そんな空気が広がりつつある」


 レイドは黙って頷いた。この都市の根幹は多種族共存だ。その土台にひびが入れば、どんな結界も魔導インフラも意味を成さない。


 その時、早足で駆けてきたのはリリアーナだった。赤毛を揺らし、息を整えながら報告する。


「レイド様、噂の出所を突き止めましたわ」


 リリアーナは手帳を開いた。几帳面な文字がびっしりと並んでいる。


「二週間前に『南方の戦災難民』として入城した三名。身元の裏取りを進めていたのですけれど、彼らが入城した直後から市場での諍いが急増していますの。居酒屋で人間住民に『獣人が物資を独占している』と吹き込み、同時に獣人側には『人間が裏で差別的な条例を準備している』と嘘を流していた痕跡がありますわ」


「第三章の時の経験が活きたな。あの時より特定が早い」


 レイドの言葉に、リリアーナは唇を引き結んだ。


「ええ。ですが——遅かったですわ」


「どういうことだ」


 ガルムが問う。


「今朝、三名とも宿で死亡しているのが見つかりましたの。毒を仕込んだ歯——噛み砕くと即死する類のものですわ。証拠になりそうな書簡や指示書の類は、すべて灰になっていました」


 沈黙が落ちた。自らの命を捨ててまで口を封じる。それは単なる間諜ではなく、訓練された工作員の手口だ。


「ヴァルターか」


 レイドの声は静かだったが、深緑の瞳に冷たい光が灯った。


「断定はできませんが、手口からして宰相府の暗部でしょう。物的証拠は残っていません」


 リリアーナが悔しげに手帳を閉じる。レイドは数秒の沈黙の後、顔を上げた。


「証拠がなくても、やるべきことは変わらない。種族の溝を塞ぐ。それが最優先だ」


 翌日、レイドは全住民に向けて告知を出した。


 人間と獣人の混成チームによる共同防衛訓練——その実施を。


「正気か、団長」


 訓練場でガルムが低く唸った。目の前には、ぎこちなく整列した兵士たち。人間と獣人が交互に並ぶ隊列は、互いの視線が交差するたびに空気が軋む。


「正気だ。むしろ今やらなければ手遅れになる」


 レイドはガルムの肩を叩いた。


「指導役は頼んだぞ。お前以上の適任はいない」


「……買い被りだ」


 そう言いながらも、ガルムは隊列の前に立った。巨躯に刻まれた無数の傷跡が、陽光の下で白く光る。


「いいか、よく聞け。これから模擬戦をやる。二人一組——必ず人間と獣人のペアだ。文句は後で聞く。まず生き残れ」


 ガルムの号令で訓練が始まった。


 最初は散々だった。人間兵は獣人の身体能力についていけず、獣人兵は人間の連携を無視して突出する。互いに苛立ち、舌打ちが飛び交う。


 だが、ガルムは容赦しなかった。


「バラバラに動くな! 敵はお前の横にいる味方じゃない、正面だ!」


 二巡目。人間の槍兵が獣人の剣士の死角を庇い、獣人の剣士が人間の槍兵の間合いを補った。初めて敵役の上級兵を「倒した」ペアが、思わず顔を見合わせる。


「やる、じゃないか」


「お前こそ。あの突きは助かった」


 ぎこちない笑みが交わされた。小さな、だが確かな変化。


 フィーネが訓練場の端で回復魔法の準備をしながら、その光景を見つめていた。


「少しずつ、ですね」


 レイドの隣に並び、柔らかく微笑む。


「ああ。工作員は排除された。だが蒔かれた不信の種は簡単には消えない。こうやって一緒に汗を流して、互いの背中を預ける経験を積み重ねるしかないだろうな」


「レイドさんらしいですよ。力で押さえつけるんじゃなくて、一緒に何かを乗り越えさせるところ」


「……そう言ってもらえると、少し救われるな」


 訓練は午後まで続いた。疲労と達成感が入り混じる中、兵士たちの表情から険しさが薄れていく。人間の兵士が獣人の仲間に水筒を差し出し、獣人の兵士が人間の仲間の鎧の紐を直してやる。


 ガルムはそれを見て、ほんの僅かに口元を緩めた。


 ——だが、束の間の安堵は長くは続かなかった。


「団長!」


 訓練場の入口に、砂埃にまみれた偵察兵が駆け込んできた。息を切らし、膝に手をつきながら叫ぶ。


「ほう、報告します! 西方偵察隊より緊急伝令——聖剣旅団、ブランフェルト荒野西端を通過! 現在の進軍速度から推定して、本都市まで三日の距離です!」


 訓練場が静まり返った。兵士たちの顔から血の気が引く。聖剣旅団——王国最精鋭の騎士団。その名は辺境にも轟いている。


 レイドは表情を変えずに偵察兵に歩み寄った。


「人数は」


「本隊およそ八百。騎馬三百、歩兵五百。補給部隊が後方に」


「それだけか」


 偵察兵が唾を飲み込んだ。


「いえ——もう一点。旅団の後方、半日ほど遅れて移動する一団を確認しました。数はおよそ五十。全員が黒い装束を纏い、旅団の旗印を掲げていません。所属……不明です」


 ガルムの目が鋭く細まった。リリアーナが息を呑む。フィーネの手が、無意識にレイドの袖を掴んだ。


「黒装束……ですって?」


 レイドは偵察兵の肩に手を置いた。


「よく報告してくれた。休め」


 そして振り返り、仲間たちの顔を見渡した。訓練で一つになりかけた兵士たち。その瞳に、新たな不安の影が差し込む。


 だがレイドの声は、揺るがなかった。


「——全員、聞いてくれ。敵が来る。だが、今日の訓練で証明しただろう。人間も獣人も関係ない。俺たちは一つの都市を守る、一つの軍だ」


 静寂の後、誰かが槍の石突きで地面を打った。一人、また一人と続き、やがて訓練場全体に力強い共鳴が響き渡る。


 レイドは頷き、そして視線を西の空へ向けた。


 聖剣旅団。そしてその影に潜む、正体不明の黒い群れ。


 嵐が、三日後に来る。

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