万象の盟約
仮調印式の朝は、ブランフェルト荒野には珍しいほどの快晴だった。
ノヴァ・アルカディア中央広場には三国の使節団が集い、各種族の旗がマナの微風に揺れている。ドワーフの鉄槌紋、獣人連合の牙月旗、そしてシルヴァリアの銀樹旗——それらの中心に、レイドが考案した都市の紋章が掲げられていた。六属性を環状に配した古代アルカディアの意匠。
「レイド様、準備が整いました」
リリアーナが書類の束を抱えて駆け寄った。赤毛をいつもより丁寧にまとめ、正装の上着には辺境都市参謀官の徽章が光っている。
「各条文の最終確認は昨夜のうちにヘルダ殿と済ませましたわ。通商圏の関税率、交易路の警備分担、品目リスト——全て合意済みですの」
「助かる。リリアーナがいなければ、この交渉は半年かかっていただろうな」
「お褒めにあずかりますわ。ですが、本当の勝負はここからですのよ」
彼女の目が鋭くなる。商人の顔だった。
広場の一角では、ガルムが獣人連合の使者ヴォルフリーデと並んで立っていた。老狼の獣人は穏やかな目で式典の準備を見渡している。
「仮調印とはいえ、歴史的な一日だ」
ヴォルフリーデが静かに言った。ガルムは腕を組んだまま頷く。
「ああ。まさかこんな日が来るとはな」
「ガルム殿。一つ聞きたい」
老狼が真っ直ぐにガルムを見た。
「ファングランドに戻り、穏健派と共に族長を変える覚悟はあるか」
重い問いだった。ガルムの虎耳がわずかに伏せられる。族長グラオスの暴政を変えるということは、武力ではないにせよ、故郷との対決を意味する。
「……まだその時ではない」
ガルムは短く答えた。だが、琥珀の瞳には確かな光があった。
「だが、いずれ必ず。この街が証明しているだろう。種族が違っても共に歩けると——その事実を、ファングランドにも届ける日が来る」
ヴォルフリーデは目を細め、深く頷いた。
「待っている。穏健派の若い者たちも、お前の言葉を待っている」
広場に集まった人々のざわめきが、ふと静まった。
全員の視線が、中央階段の上に向けられる。
フィーネが姿を現した。
シルヴァリアの正装——銀糸で織られた長衣に、翡翠の葉を模した胸飾り。エルフの儀礼服を纏った彼女の姿に、レイドは一瞬息を忘れた。
だが、何より目を引いたのは別のことだった。
いつも髪で隠していた長い耳が、堂々と露わになっている。
ハーフエルフとして生まれ、人間からもエルフからも拒絶されてきた少女。その痕跡を隠すように、ずっと耳を覆い続けていた髪が——今日は後ろに流されていた。
「シルヴァリア公式連絡官、フィーネ・ルーチェです」
凛とした声が広場に響く。わずかに震えていたが、その目に迷いはなかった。
「本日の仮調印式に、シルヴァリアを代表して立ち会います」
拍手が起きた。最初はまばらに、やがて広場全体に広がっていく。ドワーフの使節ヘルダが力強く手を叩き、ヴォルフリーデが穏やかに頷く。
レイドは壇上に立ち、三国の使節を見渡した。
「本日、ここに『万象の盟約』の仮調印を行う」
声を張る必要はなかった。広場に張り巡らされた音声増幅の魔術陣が、彼の言葉を隅々まで届ける。
「技術共同体について、三国全ての正式合意を得た。古代アルカディアの知識は、特定の国や種族のものではない。この大陸に生きる全ての者の財産だ」
ヘルダが羊皮紙に署名した。ドワーフの鍛冶技術と古代魔導技術の融合——その可能性に、彼女の目は輝いていた。
「相互防衛条約については、ヴォルフリーデ殿が穏健派を代表して署名してくださる。族長グラオスの承認は今後の課題だが、最初の一歩としてこれ以上のものはない」
ヴォルフリーデが厳かにペンを取った。老狼の手は震えていなかった。
「自由通商圏には、ドゥルガンが先行して参加を表明してくれた。来月からの定期交易路の開設も決定している」
リリアーナとヘルダが視線を交わし、互いに頷く。昨夜遅くまで詰めた交易協定の詳細——関税の段階的撤廃、鉱石と魔導具の優先取引枠、護衛隊の共同編成。その全てがこの一瞬に結実していた。
「この同盟は——」
レイドは一拍、間を置いた。
「武力ではなく、知恵で世界を変えるためのものだ」
静寂が広場を包んだ。そして、万雷の拍手。
ドワーフの使節団が足を踏み鳴らし、獣人たちが吠声を上げ、エルフの従者たちが胸に手を当てて敬意を示す。種族も文化も異なる者たちが、一つの理念の下に集った瞬間だった。
壇を降りたレイドの元に、フィーネが歩み寄った。
「レイドさん」
「ああ。似合っているぞ、その正装」
「……ありがとうございます」
フィーネは自分の耳に触れた。隠さなくなった耳。その指先はもう震えていない。
「やっと、全部出せた気がします」
祝賀の空気が広場を満たす中、ミーシャがレイドの袖をそっと引いた。
「ご主人様、少しだけお時間をいただきたいのです」
普段の無邪気さが消えている。レイドは眉を寄せ、人目を避けて広場の裏手に回った。
「どうした、ミーシャ」
「世界樹ネットワークの中枢制御装置——そのデータを解析していたのです」
虹色の瞳が揺れていた。ミーシャがこんな表情を見せるのは珍しい。
「起動条件が見つかりました。中枢の完全起動には——」
彼女は声を落とした。
「『アルカディアの王族の血統』が必要なのです」
レイドの手が止まった。
「……王族の血統? アルカディアは千年前に滅んだはずだ」
「だからこそ、なのですよぅ。滅んだはずの王族の血を引く者が、今もどこかにいなければ——このネットワークは永遠に目覚めないのです」
ミーシャの視線が、真っ直ぐにレイドを見つめていた。その目に宿る感情を、レイドは読み取れなかった。
「……何か、心当たりがあるのか」
「まだ確証はないのです。でも——」
それ以上は言わなかった。ミーシャは小さく首を振り、いつもの笑顔を取り繕った。
「お祝いの席に戻りましょう、ご主人様。今日は良い日なのです」
レイドは頷いたが、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が消えなかった。
——アルカディアの王族の血統。
自分の出自について、レイドは多くを知らない。孤児として育ち、魔術の才だけで宮廷に上り詰めた。両親の顔も知らない。
それが何を意味するのか——考えるのは、今ではない。
だが、ミーシャが言葉を濁した理由は、嫌でも想像がついた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王都クレスティア。
宰相執務室に、一人の密偵が跪いていた。
「——以上が、偽情報工作の顛末でございます。三国全ての使節が辺境側の反証を受け入れ、工作は完全に失敗いたしました」
ヴァルターは報告書を机に放った。表情に怒りはない。あるのは、氷のような静けさだけだった。
「ならば次の手だ」
密偵が顔を上げる。
ヴァルターの視線は、机上に広げられた別の書類に向けられていた。『辺境都市討伐軍 編成案』——その表題が、燭台の炎に照らされている。
「政治で潰せぬなら、武力で正す。至極単純な道理に過ぎん」
翌日、ヴァルターは王の謁見の間に立っていた。
「陛下」
玉座に座る老王を、冷たい目で見上げる。
「辺境の叛徒は三国と結託し、王国への包囲網を形成しようとしております。技術共同体、相互防衛条約、自由通商圏——これらは全て、王国の権威を切り崩すための布石であるな」
老王の表情は見えない。だが、その沈黙は否定ではなかった。
「今こそ、武力をもって正すべき時であるな」
ヴァルターが膝を折る。
謁見の間に静寂が降りた。
その時——玉座の背後の暗がりに、一つの影が立っていることに、ヴァルターだけが気づいていた。
フードを深く被った人物。その存在を、老王は認識していない。
影がわずかに頷いた。
ヴァルターの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。




