崩れゆく盟約の夜
リリアーナの報告から一夜が明けた。
だが、朝を迎えたノヴァ・アルカディアの空気は、昨日までとは決定的に変わっていた。
レイドが執務室で朝の報告書に目を通していると、ガルムが血相を変えて飛び込んできた。
「団長、まずい。使節団の宿舎が騒がしい」
「何があった?」
「シルヴァリアのエレアノール殿が、今朝方に早馬の書簡を受け取った。それからだ」
レイドは報告書を置き、立ち上がった。嫌な予感がする。リリアーナが警告した通り、ヴァルターの手が既に動いていたのだ。
会議場に向かう廊下で、リリアーナと合流した。
「状況は把握していますわ」
彼女の表情はいつになく険しい。
「各国の使節団に、王都からの密書が届いています。内容は——辺境都市がアルカディアの古代兵器を復活させ、大陸の覇権を握ろうとしている、という告発ですわ」
「古代兵器だと?」
レイドは眉をひそめた。そんなものは存在しない。いや、ミーシャの記録にアルカディアの軍事技術への言及はあったが、それは歴史的な文書に過ぎない。
「証拠として添えられているのは二つ。改竄されたミーシャの古代記録の断片と、辺境都市の防衛結界が攻撃兵器に転用可能とする王国魔術師団の分析報告ですわ」
会議場の扉を開けた瞬間、凍てついた視線が突き刺さった。
エレアノールが立っていた。
昨日まで慎重ながらも対話の姿勢を見せていたエルフの使節は、今や氷のような眼差しでレイドを射抜いている。その手には、蝋印の押された羊皮紙が握られていた。
「レイド・アシュフォード」
名を呼ぶ声に、敬称はなかった。
「この文書について、説明を求めます」
エレアノールが羊皮紙を広げた。そこにはアルカディア古語で記された記録の写しと、王国紋章入りの分析報告書が添えられていた。
「千年前、アルカディアの兵器がエルフの大森林を焼いた。あの大戦で、わたくしたちの祖先は故郷の三分の一を失った」
エレアノールの声が震えた。怒りではない。恐怖だ。千年の時を経てなお、エルフの記憶に刻まれた傷。晩餐会でも語られた、あの歴史的対立の記憶が今、最悪の形で呼び覚まされていた。
「やはり、この街を信用すべきではなかった」
「待ってくれ、エレアノール殿。その文書は——」
「交渉の中断を宣言します」
レイドの言葉を遮るように、エレアノールは背を向けた。
追い打ちをかけるように、ファングランドのザガンが口を開いた。
「古代兵器の情報を、獣人に隠していたのか。レイド・アシュフォード」
低い唸り声のような声だった。ザガンの瞳には、昨日までの友好的な光はない。グラオスからの指令——それが裏にあるのだろうと、レイドは直感した。だが今はそれを指摘する余裕もない。
「隠してなどいない。そもそも古代兵器など——」
「ならば、なぜ王国の魔術師団がこのような報告を出す? 根拠もなく?」
ザガンの問いは、鋭く核心を突いていた。
そして、最も意外な声が上がった。
「……レイド殿」
ドワーフのボルグだ。あの豪快な笑い声の持ち主が、今は慎重に言葉を選んでいる。
「以前、第七兵装庫という遺跡の話を聞いた。あれと、この報告書の内容は——関連があるのか?」
レイドは拳を握った。
第七兵装庫。確かに、アルカディアの遺跡群の中にそう呼ばれる区画があることは、ミーシャの記録から判明していた。だがそれは封印されたまま手をつけていない。ヴァルターの密書は、断片的な事実を巧みに繋ぎ合わせ、存在しない脅威を作り上げていた。
「証拠を検証してほしい」
レイドは声を抑え、冷静に言った。
「その文書が本物かどうか、ミーシャの記録原本と照合すれば分かる。少なくとも、一方的な告発だけで判断を下すのは——」
「照合の間、交渉は凍結する」
エレアノールが振り返らずに言い放った。
「それが最低限の条件です」
三国の使節が、次々と会議場を去っていく。
一夜にして、築き上げた信頼が崩れた。
会議場に残されたのは、レイドとその仲間たちだけだった。
「くそっ」
ガルムが拳をテーブルに叩きつけた。
「あのヴァルターって野郎、やりやがったな」
「感情的になるな、ガルム」
レイドは自分にも言い聞かせるように言った。だが、胸の奥で怒りが渦巻いているのは否定できない。
リリアーナが密書の写しを手に取り、目を細めた。
「巧妙ですわね。事実と虚偽を絶妙に織り交ぜている。全くの嘘なら反証は容易ですが、これは——」
「断片的な事実を悪意ある文脈で繋いでいる」
レイドが続けた。
「ミーシャの記録にアルカディアの軍事技術への言及があるのは事実だ。防衛結界が理論上攻撃転用可能なのも、魔術的には間違いではない。だが——」
「レイドさん」
フィーネの声が、静かに割って入った。
彼女はミーシャの記録の写しを食い入るように見つめていた。薬師として植物の文献を読み込んできたフィーネは、文書の細部に敏感だ。
「この報告書に添えられたミーシャの記録——改竄されています」
「何だと?」
「文体が違うんです。ミーシャの古代記録は、独特の語順と術語の使い方をしています。アルカディア古語の公文書には決まった書式がある。でもこの写しは、途中から微妙に言い回しが変わっている」
フィーネが指で該当箇所を示した。
「ここ。『兵装群の復元は現行マナ濃度において実行可能である』——この一文だけ、主語と述語の配置がアルカディアの文法規則から外れています。現代の学術論文の語順に近い。つまり、古代語を学んだ誰かが後から書き加えた部分です」
レイドの目が鋭くなった。
「よく気づいたな、フィーネ」
「以前ミーシャに古代語を教わった時に、嫌というほど文法の癖を叩き込まれましたから」
フィーネは少しだけ唇を緩めたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「それに——ミーシャが以前話していた、アルカディアの武器禁輸条約の文書。あれが残っているなら、古代兵器の復活が不可能であることの反証に使えるはずです」
レイドは頷いた。あの時ミーシャが「後で整理するのです」と後回しにしていた文書群。今こそ、それが必要だった。
「ミーシャを呼んでくれ」
フィーネがすぐに伝令を飛ばし、数分もしないうちにミーシャが駆け込んできた。銀髪が乱れ、虹色の瞳がきょろきょろと動く。
「ご主人様、大変なのです! 使節団のみなさんが怖い顔で宿舎に引き上げていったのです!」
「ミーシャ。これを見てくれ」
レイドが改竄された文書を差し出すと、ミーシャは一瞥して眉をひそめた。
「……これ、ミーシャの記録じゃないのです」
「分かるか」
「当然なのです。ミーシャが書いた記録には、全ての文書にアルカディア中央書記官庁の暗号署名が埋め込まれているのです。この写しには——ああ、巧妙なのです。署名は模倣されていますが、第三層の暗号鍵が旧式のものにすり替わっている」
ミーシャの声が、珍しく真剣なものに変わった。
「ご主人様。この改竄文書を作成するには、アルカディアの暗号体系を知る者でなければ不可能なのです」
部屋の空気が凍りついた。
「ミーシャ以外にその知識を持つ者がいるのか?」
「千年前の大戦で、アルカディアの知識体系はほぼ全て失われたはずなのです。ミーシャが封印されていたのも、知識の散逸を防ぐためだった。それなのに——」
ミーシャが顔を上げた。虹色の瞳に、かつてない不安の色が浮かんでいる。
「つまり——王国の宮廷に、古代知識を持つ何者かがいるのです」
沈黙が落ちた。
ヴァルターの背後に、まだ見えない影がある。
レイドは静かに拳を握りしめた。敵は、宰相一人ではなかったのだ。




