荒野に灯す場所
煙は、近づくほどに黒さを増した。
獣脂の焦げる臭い。そして——悲鳴。
「急ぐぞ!」
レイドは荒野を駆けた。隣をガルムの巨躯が並走する。フィーネは薬草袋を抱えてやや遅れながらも、必死についてくる。
丘を越えた瞬間、眼下の光景が視界に飛び込んだ。
数十人の集団が、荷車を円形に並べて即席の防壁を築いていた。その周囲を、十数匹の魔獣——灰色の毛皮を持つ荒野狼が包囲している。通常の狼より二回りは大きく、眼窩に赤紫の光を宿していた。マナに汚染された獣だ。
荷車の隙間から槍を突き出して応戦する者がいたが、動きは鈍い。疲労と飢えで限界が近いのは明らかだった。
「団長、数は——」
「十四。いや、丘の裏にまだいる。二十は超えるな」
レイドは走りながら研究ノートを開いた。指先で素早く魔術式を描く。
「ガルム、三十秒だけ稼いでくれ」
「三十秒か。短いな」
ガルムは腰の大剣を抜き放った。刃が陽光を弾く。
「十五秒で終わらせる」
虎族の獣人が丘を駆け下りた。その速度は人間の倍を優に超える。
先頭の荒野狼がガルムに気づいて振り返った瞬間、大剣の一閃が胴を両断した。返す刃で二匹目の首を刎ねる。血飛沫を浴びながら、ガルムは叫んだ。
「こっちだ、雑魚ども!」
狼たちの注意が一斉にガルムへ向く。
その隙を、レイドは逃さなかった。
「——万象構築、起動」
魔術式が空中に展開された。六角形の幾何学模様が青白く発光し、荒野の砂と岩を巻き上げる。
砂が圧縮され、岩が再構成される。
わずか数秒で、難民たちを囲むように高さ三メートルの石壁が出現した。壁の外側にはガルムが戦う空間だけが残されている。
「な——壁が!?」
難民たちからどよめきが上がった。
レイドは丘を駆け下りながら、さらに術式を重ねた。壁の上部に鋭い突起を生成し、狼が飛び越えられないようにする。即興だが、理論は研究ノートの応用だ。
壁の外側では、ガルムが獅子奮迅の戦いを見せていた。
五匹目を斬り伏せたところで、残りの狼たちが怯んだ。群れの統率が崩れている。
「——今だ、ガルム!」
「わかってる!」
ガルムが大きく跳躍し、壁の内側に飛び込んだ。着地と同時にレイドが壁の隙間を塞ぐ。
完全な防壁。
外に取り残された狼たちが壁に爪を立てたが、圧縮された岩壁はびくともしない。やがて、数匹が遠吠えを上げて荒野の奥へ去っていった。残りもそれに続く。
静寂が戻った。
「……終わったか」
ガルムが大剣を地面に突き立て、荒い息をついた。腕に浅い裂傷がある。
「ガルムさん、怪我——!」
追いついたフィーネが駆け寄り、すぐに薬草を取り出した。手際よく傷口を洗浄し、植物魔法で薬草の成分を浸透させる。
「大したことはない」
「大したことあります! 動脈に近いんですから、もう少しずれてたら——」
フィーネの声が震えていた。怒っているのか、安堵しているのか。おそらく両方だろう。
レイドは壁の内側に目を向けた。
数十人の難民たちが、呆然とこちらを見つめている。
人間がもっとも多いが、犬耳の獣人の親子、鱗を持つ蜥蜴人の青年、そして——小柄で筋骨隆々とした矮人族が数人。種族はばらばらだった。共通しているのは、全員がぼろぼろの身なりで、目に深い疲労を宿していることだけだ。
「お主ら——何者じゃ」
しゃがれた声が響いた。
矮人族の老人が、杖代わりの金槌をつきながら前に出てくる。白い髭を胸元まで伸ばし、腕には無数の火傷痕。鍛冶師の手だ。
「通りすがりの魔術師だ。怪我人がいるなら診せてくれ」
レイドが穏やかに答えると、老矮人は目を細めた。
「魔術師じゃと? こんな荒野の果てに?」
「訳ありでね。——フィーネ、頼む」
「はい!」
フィーネが難民たちの間に駆け込んだ。負傷者は十人以上。骨折、裂傷、脱水。どれも処置が遅れれば命に関わるものばかりだ。
フィーネは一人ひとりに声をかけながら、手際よく治療を進めた。獣人の子供が怯えて泣き出すと、耳を隠していた髪をかき上げて見せた。
「ほら、私もエルフの血が入ってるんですよ。怖くないでしょ?」
子供が泣き止み、おずおずとフィーネの耳に触れた。
その光景を見ていた老矮人が、ふっと表情を緩めた。
「わしはドルン。この連中のまとめ役——というほど大層なもんでもないがな」
「レイド・アシュフォードだ。そちらの大きいのがガルム、治療しているのがフィーネ」
「アシュフォード……どこかで聞いた名じゃな。まあいい」
ドルンは周囲を見回し、疲れたように息を吐いた。
「見ての通り、寄せ集めじゃよ。王都で獣人狩りが始まって逃げてきた者、領主の圧政に耐えかねた農民、ギルドから追い出された職人……行き場のない連中が、いつの間にか群れになった」
「なぜこの荒野に?」
「荒野なら誰も追ってこんからじゃ」
消極的な理由。だが、それが彼らの現実だった。
レイドは難民たちを見渡した。
人間の母親が、獣人の子供に水を分け与えている。蜥蜴人の青年が、矮人の老婆の荷物を黙って運んでいる。追い詰められた者たちが、種族の壁を越えて助け合っていた。
——そしてその中に、一人だけ異質な空気をまとう青年がいた。
フードを深く被り、集団の端に座っている。怪我はないようだが、誰とも目を合わせない。年の頃は二十歳前後だろうか。手だけが妙に綺麗なのが気になった。労働者の手ではない。
レイドはそれを視界の隅に留めつつ、ドルンに向き直った。
「ドルン、一つ聞いていいか」
「なんじゃ」
「あんたたちは——この先、どうするつもりだ?」
沈黙が落ちた。
ドルンは答えなかった。答えられなかったのだ。
行き先などない。この荒野を彷徨い、いずれ魔獣に襲われるか、飢えて倒れるか。それが彼らの未来だった。
レイドは空を見上げた。
荒野の空は、どこまでも広い。王都の狭い研究室からは想像もできなかった青さだ。
地下に眠る膨大なマナ。再構成を待つ大地。そして——居場所を求める人々。
「——この場所を、居場所にしよう」
レイドの声は、静かだった。
だが、迷いはなかった。
「お主、何を言っておる?」
「この荒野に街を作る。水を引き、畑を拓き、壁を築く。種族も出自も関係ない、誰でも受け入れる場所を」
ドルンが目を見開いた。難民たちがざわめく。
「団長、本気か」
ガルムが低い声で問うた。
「団長って呼ぶのはやめてくれ」
レイドは苦笑した。
「——まあ、本気だ」
ガルムは腕を組み、しばらくレイドの目を見つめた。
やがて、口元に笑みが浮かんだ。獣人の牙が覗く、不器用な笑み。
「……お手並み拝見だ。団長」
「だから団長はやめろって」
フィーネが治療の手を止めて振り返った。その目が潤んでいるのを、レイドは見て見ぬふりをした。
「レイドさん、私も——手伝います。いえ、手伝わせてください」
「最初からそのつもりだ」
ドルンが金槌を地面に打ちつけた。乾いた音が荒野に響く。
「若造、大口を叩くのは勝手じゃが——」
老矮人の目が、不意に鋭くなった。
「お主、この荒野の地下に何があるか知っておるか?」
レイドは眉を上げた。昨日、マナの流れを感じ取ったばかりだ。
「……何か、知っているのか」
「わしは若い頃、一度だけこの地を訪れたことがある」
ドルンの声が低くなった。周囲の空気が張り詰める。
「地下に——古代の都市がまるごと眠っておる」
風が止んだ。
レイドの瞳に、研究者の光が灯った。




