母が遺した地図
ザガンの告白から一夜が明けた。
レイドとガルムは迎撃準備のために闘技場から軍議室へと消え、都市全体にはにわかに緊張が走っていた。だがフィーネは、別の戦場にいた。
古代遺跡の調査室。青白い魔力灯が壁を照らす地下空間で、フィーネは膨大な量の石板記録と向き合っていた。
「ミーシャ、この区画のデータ、読み取れる?」
「もちろんなのです! えーっと、これはアルカディア第七研究棟の生命維持魔術部門——バイオマナ・サステインメント・ディヴィジョンの記録ですよぅ」
ミーシャが虹色の瞳を輝かせ、石板に指先を触れた。空中に半透明の文字列が浮かび上がる。古代アルカディア語の記述が、淡い光の中で踊った。
「生命維持魔術……母さんが研究していた分野だ」
フィーネは手元の手帳を開いた。革表紙はすり切れ、何度も読み返した跡がある。母アイリーンが遺した、研究手記だった。
「フィーネ、ここに面白い記述があるのです」
ミーシャが空中に図を展開した。大陸の地図に、光の線が網目のように走っている。その結節点には、木の意匠が刻まれていた。
「これは……樹?」
「正式名称は『ユグドラ・リンケージ・システム』——ミーシャたちの時代では『世界樹ネットワーク』と呼んでいたのです」
フィーネの手が止まった。
「世界樹ネットワーク?」
「大陸各地に根を下ろす霊木を、地下のマナ脈で繋ぐ循環システムですよぅ。霊木がマナを吸い上げて、浄化して、大気に還す。それが大陸全体のマナバランスを保っていたのです」
ミーシャの指が、地図上の一点を示した。大陸東部——シルヴァリアの森。
「ここにある霊木も、ネットワークの一部だったのです」
フィーネは息を呑んだ。
「シルヴァリアの聖樹が……古代文明の遺産の一部だった?」
「そうですよぅ。でも千年前の大戦で、ネットワークは完全に破壊されたのです。マナ脈が断絶して、各地の霊木は孤立した。それ以来、ゆっくりと……」
「枯れかけている」
フィーネは呟いた。ティリエルの言葉が蘇る。——聖樹の衰退は、もう何世紀も前から始まっている。
「ミーシャ、ちょっと待って」
手帳を猛然とめくった。母の手記の中に、気になる記述があった。何度も読んだはずなのに、今この瞬間まで意味が繋がらなかった一節。
——聖樹の根は孤独を知らない。かつて大地の奥底で、遠い同胞と手を結んでいた。その絆を取り戻す鍵は、全てが始まった場所にある。
「母さん、知っていたんだ」
声が震えた。アイリーンはシルヴァリアを追放された後も、聖樹を救う方法を探し続けていた。そしてその答えに——少なくとも手がかりには、辿り着いていた。
「フィーネ? 大丈夫ですかぅ?」
「大丈夫。大丈夫だよ、ミーシャ」
フィーネは手帳を抱きしめ、深く息を吸った。それから顔を上げた。
「ミーシャ、このブランフェルト荒野のマナ湧出源。ネットワーク上ではどういう位置づけだった?」
「えっとですね——」ミーシャが地図を拡大する。「ここはネットワークの西方結節点。かなり大きなマナの集積地で、複数の霊木にマナを供給する中継拠点だったのです」
「つまり、ここから聖樹へのマナ脈を再接続できれば——」
「理論上は、聖樹の衰退を止められる可能性があるのです!」
ミーシャが目を丸くした。フィーネは手帳の記述と、空中に浮かぶ古代の図面を交互に見比べた。
母の仮説と、千年前のデータ。二つが重なった。
「シルヴァリアの使節団に、今すぐ伝えなきゃ」
フィーネは資料を抱えて、調査室を飛び出した。
* * *
使節団の滞在棟。応接室に通されたフィーネを、ティリエルとエレアノールが待っていた。
ティリエルは若い外交官らしい好奇心に満ちた目で資料を受け取り、エレアノールは腕を組んだまま壁際に立っていた。
「——以上が、古代アルカディアの世界樹ネットワークの全容です」
フィーネが説明を終えると、ティリエルが身を乗り出した。
「これが本当なら……聖樹の衰退は、ネットワーク断絶による慢性的なマナ欠乏が原因ということに——」
「はい。そして、この荒野のマナ湧出源と聖樹を再接続できれば、衰退を止められるかもしれません」
ティリエルの目が輝いた。希望の光が、その翠の瞳に灯る。
だが、エレアノールの声は冷たかった。
「つまり、シルヴァリアの聖樹——我が国の根幹が、この辺境都市のマナ源に依存することになると?」
空気が張り詰めた。ティリエルが口を開きかけたが、エレアノールが鋭い視線で制した。
「あなたの善意は疑いません、フィーネ殿。しかし外交とは善意で動くものではない。もしこの都市が聖樹の生命線を握るなら、それは——」
「交渉材料になる、と言いたいのですね」
フィーネは遮った。声は穏やかだったが、その目に迷いはなかった。
「エレアノール様。これは取引ではありません」
手帳を、そっとテーブルに置いた。
「母が——アイリーンが生涯をかけて守ろうとしたものを、私が引き継ぐだけです。見返りなんて、求めていません」
沈黙が落ちた。
エレアノールの表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。鉄のような外交官の仮面の下から、別の感情が覗いた。
「……その手帳は」
「母のものです。シルヴァリアを出た後も、ずっと聖樹の研究を続けていました」
エレアノールは目を閉じた。長い睫毛が、かすかに震えている。
「……アイリーンも、そういう女だった」
その声は、外交官のものではなかった。かつて一人の友を失った、一人のエルフの声だった。
「頑固で、不器用で——自分が何を言われても、信じたものを曲げない」
エレアノールの目が開いた。そこに光るものを、フィーネは見逃さなかった。
「……資料を、本国に送る許可をいただきたい」
「もちろんです」
「それと——」エレアノールはわずかに居住まいを正した。「技術検証のために、シルヴァリアから専門家を呼び寄せます。あなたの仮説が正しければ、これは両国の協力事業として正式に推進すべきものだ」
ティリエルが小さくガッツポーズをした。エレアノールが横目で睨んだが、その目尻は柔らかかった。
フィーネは手帳をそっと胸に抱いた。
母さん、聞こえていますか。あなたが繋ごうとした絆を、私が——。
* * *
その夜。
調査室に戻ったミーシャが、世界樹ネットワークのデータをさらに掘り下げていた。
「あれぇ……?」
ミーシャの手が止まった。虹色の瞳が、急速に点滅する。
「ご主人様ぁ——これ、大変なのです」
レイドはちょうど軍議を終えて調査室に立ち寄ったところだった。
「どうした、ミーシャ」
「ネットワークの中枢制御装置——全てのマナ脈を統御する心臓部が、まだ存在しているのです」
空中にブランフェルト荒野の立体地図が展開された。ミーシャの指が、地図の最深部を指し示す。
これまで調査した全ての遺跡よりも、さらに深い場所。
「ここ——荒野の最深部。ミーシャたちがまだ一度も足を踏み入れていない大遺跡の中に、眠っているのです」
レイドの目が細まった。
「中枢制御装置があれば、ネットワーク全体を再起動できるのか」
「理論上は——はい。でもご主人様、この遺跡は」
ミーシャの声が、珍しく真剣なものに変わった。
「アルカディア時代でも、最高位の許可なしには立ち入りが禁じられていた場所なのです。何が待っているか、ミーシャにもわからないのですよぅ」
レイドは研究ノートを取り出し、新しいページを開いた。
グラオスの軍勢が迫る中、荒野の最深部にはまだ見ぬ古代の遺産が眠っている。
時間は、あまりにも足りなかった。




