十年の真実
朝陽が闘技場の石畳を白く照らしていた。
臨時に設けられた観覧席には、三国の使節団が並んでいる。獣人連合の副族長ヴォルフリーデ、エルフの外交官、ドワーフの技術長。そしてその周囲を、辺境都市ノヴァ・アルカディアの住民たちがぎっしりと埋め尽くしていた。
人間、獣人、エルフ、ドワーフ。あらゆる種族の視線が、闘技場の中央に注がれている。
「——始めるか」
ガルムが低く言った。
上衣を脱ぎ、鍛え上げられた上半身を晒す。虎族の縞模様が走る褐色の肌には、無数の古傷が刻まれていた。その一つひとつが、三十五年の戦歴を雄弁に物語っている。
対面に立つザガンは、ガルムより一回り小柄な狼族の青年だった。鋭い金色の瞳が、獲物を見定める狼そのものだ。年齢は二十代半ばといったところか。若く、速い。
「ファングランドの名誉に賭けて——裏切り者ガルム・ドラグハートに裁きを下す」
ザガンが宣言すると、観覧席の一部から低い唸り声が上がった。獣人連合からの随行員たちだ。
レイドは闘技場の最前列から、腕を組んで見守っていた。隣にはフィーネとリリアーナ、そしてミーシャが並んでいる。
「大丈夫でしょうか……」
フィーネが不安げに呟いた。
「ガルムを信じろ。あいつは——ただの力比べにするつもりはない」
レイドはそう答えたが、拳は無意識に握り締められていた。
ヴォルフリーデが立ち上がり、立会人として右手を掲げた。
「獣人連合の慣習法に基づく名誉決闘。武器は己の肉体のみ。降参、もしくは戦闘不能をもって決着とする。——始め」
その声が闘技場に響いた瞬間、ザガンが動いた。
速い。
地を蹴る音すら聞こえない踏み込みから、右の爪撃が繰り出される。狼族特有の低い姿勢から放たれる一撃は、常人の目では捉えられないだろう。
だが、ガルムは首を半歩分だけ傾けてそれを躱した。
続く左からの薙ぎ払い。回し蹴り。フェイントを織り交ぜた連続攻撃が、嵐のようにガルムを襲う。
ザガンの動きは確かに速かった。若さゆえの瞬発力と、鍛え抜かれた技術。しかしガルムは、その全てを最小限の動きで捌いていく。まるで嵐の中に立つ巨木のように、揺るがない。
「やるな。だが——」
ガルムが初めて反撃に転じた。踏み込みは一歩。だがその一歩が生み出す圧力は、ザガンの連撃を遥かに凌駕していた。
虎族の掌底がザガンの胸を打つ。
鈍い衝撃音が闘技場に響き、ザガンの身体が数歩分吹き飛ばされた。
「ぐっ——」
ザガンは体勢を立て直し、再び構える。だが口元からは僅かに血が滲んでいた。
たった一撃。それだけで、両者の地力の差は明白だった。
観客席がざわめく。しかしガルムは追撃しない。
代わりに、静かな声で言った。
「お前の踏み込み——左足を軸にして死角から入る技だな。傭兵の格闘術じゃない」
ザガンの目が微かに揺れた。
「何を——」
「その足運びには見覚えがある」
ガルムの声は、闘技場に低く響いた。感情を押し殺した、だからこそ重い声だった。
「十年前。俺の傭兵団を襲った暗殺部隊が、同じ動きをしていた」
場内が静まり返った。
ザガンが再び突進する。だが先ほどまでの精密さが失われていた。右の爪撃が僅かに軌道を逸れ、ガルムの腕を掠めるに留まる。
「黙れ!」
「回し蹴りの後に膝を折って下段に切り替える動き。あれはグラオス直伝の暗殺術だ。正規の軍では教えない」
ガルムは語りながらも、ザガンの攻撃を的確に捌き続けていた。
「お前はあの夜、現場にいたな」
断定だった。
ザガンの動きが一瞬、完全に止まった。
その隙を、ガルムは見逃さない。
低く踏み込み、ザガンの軸足を払う。体勢を崩した相手の腕を掴み、一気に地面に組み伏せた。石畳に叩きつけられたザガンの背中から、鈍い音が響く。
「がっ——は——」
「十年前、俺の傭兵団が壊滅した。公式には魔獣の襲撃とされている。だが違う」
ガルムはザガンを押さえつけたまま、声を上げた。衆人環視の中、その言葉は隅々まで届いた。
「あれは族長グラオスの命による粛清だった。俺たちが人間の依頼を受けたことを『獣人の裏切り』と断じ、暗殺部隊を送り込んだ。仲間たちは——眠っているところを襲われた」
沈黙が、鉛のように闘技場を包んだ。
「嘘だ!」
ザガンが叫んだ。だがその声は震えていた。
「族長は——ファングランドのために——」
「お前自身が証拠だ、ザガン。お前の身体に染み付いた技が、全てを語っている」
ガルムの声に、怒りはなかった。あるのは、長い年月をかけて研ぎ澄まされた静かな確信だけだった。
ヴォルフリーデが立ち上がった。
副族長の威厳ある声が、闘技場に響く。
「立会人として裁定を下す。ザガンの戦技は、確かにグラオス直伝の暗殺術と一致する。これは状況証拠として十分だ」
ザガンの目から、抵抗の色が消えた。全身から力が抜け、石畳に額を押し付けるように項垂れる。
ガルムは——手を離した。
組み伏せていた腕を解き、ゆっくりと立ち上がる。止めを刺す気はない。最初から、なかった。
「お前も利用されただけだ」
ガルムは見下ろすのではなく、屈んでザガンと目線を合わせた。
「獣人同士で殺し合う。そんな愚かなことに、もう終止符を打とう」
ザガンの金色の瞳が大きく見開かれた。殺されることを覚悟していた目が、理解できないものを見るように揺れている。
闘技場は完全な静寂に包まれていた。
やがて——誰かが、手を打った。
一人。二人。三人。
獣人の住民たちだった。最初はおずおずと。だが波紋のように広がり、やがて拍手は闘技場全体を震わせる大きなうねりとなった。
人間の住民も、エルフも、ドワーフも。種族を問わず、その拍手に加わっていく。
レイドは目を細めた。
「……やったな、ガルム」
「レイドさん、泣いてません?」
フィーネが覗き込んできた。
「泣いてない。目にゴミが入っただけだ」
「嘘ですよ、それ」
リリアーナが扇子で口元を隠しながら、穏やかに微笑んだ。
「ガルム殿は——勝利より大きなものを、手に入れましたわね」
ミーシャが大きく頷いた。
「ご主人様の街の人たちが、みんな同じ方を向いているのです。これが本当の強さなのですよぅ」
闘技場の中央で、ガルムはただ静かに立っていた。拍手の渦の中、その傷だらけの背中は、かつてないほど大きく見えた。
だが。
決着がついた後も、ザガンは立ち上がろうとしなかった。
石畳に膝をつき、両手を握りしめ——その肩が小刻みに震えている。それは敗北の悔しさではなかった。
「——俺は」
掠れた声が漏れた。
「知っていた」
ガルムが振り返る。
ザガンはゆっくりと顔を上げた。金色の瞳には、もはや戦意はない。代わりにあったのは、長い間押し込めていた何かが決壊した者の目だった。
「俺は……あの夜のことを、知っていた。だが逆らえなかった。族長グラオスに——」
声が震えていた。それでもザガンは、言葉を止めなかった。
「……族長グラオスは、この決闘の結果に関わらず、辺境都市への攻撃を計画している」
拍手が、一瞬で止んだ。
闘技場を包んでいた温かな空気が、氷のように張り詰める。
「軍勢はすでに動き始めている。開戦は——三日後だ」
ザガンの告白が、青空の下に重く響いた。
ガルムの拳が、音もなく握り締められた。
レイドは立ち上がり、闘技場を見渡した。三国の使節たちの表情が一斉に強張っている。
束の間の勝利の余韻は、新たな嵐の予兆にかき消された。




