獣人の掟
翌朝、レイドが執務室で報告書をまとめていると、扉が勢いよく開いた。
「団長、面倒事だ」
ガルムの声に、普段の寡黙さはない。その背後に、銀毛の獣人——ヴォルフリーデが険しい顔で立っていた。
「何があった?」
「ザガンが動いた」
ヴォルフリーデが一枚の獣皮紙をレイドの机に置く。そこには、古い獣人文字で何かが記されていた。ガルムが低い声で読み上げる。
「『ファングランドの掟に基づき、追放者ガルム・ドラグハートに対し、名誉の決闘を申し入れる。裁定は力をもってなされるべし』——正式な決闘状だ」
レイドの手が止まった。
「獣人の掟、か」
「ファングランドの法では、追放者への告発は決闘で決着をつけることができる」
ヴォルフリーデが腕を組み、壁に背を預けた。
「ザガンの狙いは明確だ。ガルムを倒して辺境都市から排除し、ファングランドとの交渉を自分に有利な形で進める」
レイドは椅子の背に身を預け、天井を仰いだ。思考が高速で回転する。
「これは罠だ」
「わかっている」
「いや、ガルム。二重の罠だと言っている」
レイドは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。朝日に照らされた街並みを見下ろしながら、言葉を選ぶ。
「ザガンが勝てば、お前を失う。辺境都市の軍事の要を奪われる。だが——お前が勝った場合も問題だ。ファングランドの使節を叩きのめしたとなれば、交渉は決裂する。どちらに転んでも、ザガンの思惑通りだ」
ガルムは黙って聞いていた。その虎の瞳に、怒りではなく静かな覚悟が宿っている。
「だから受けるつもりはない——と言いたいんだろう、団長」
「当然だ」
「だが、そうはいかん」
口を挟んだのはヴォルフリーデだった。銀狼の獣人は壁から身を起こし、レイドに向き直る。
「決闘を拒否すれば、ファングランドの全獣人がガルムを卑怯者と見なす。そしてこの街も、だ」
「名誉の問題か」
「名誉だけではない。獣人にとって掟は法であり、信仰に近い。拒否は獣人の文化そのものを否定する行為と受け取られる」
ヴォルフリーデの声には、忠告以上の重みがあった。
「今この街に身を寄せている獣人の難民たちも、ガルムが掟を守るかどうかを見ている。拒否すれば、彼らの信頼も失う」
沈黙が執務室を満たした。レイドは窓枠に手をつき、歯を食いしばった。外交的にも、文化的にも、避けられない。ザガンはそこまで計算した上で仕掛けてきたのだ。
「団長」
ガルムの声が、静かに響いた。
「俺に任せてくれ」
振り返ると、ガルムの表情が変わっていた。怒りでも諦めでもない。戦士としての、純粋な決意。
「ただの力比べにはしない」
「どういう意味だ?」
「まだ言えん。だが、ザガンには俺にしか突けない弱点がある。決闘の場で、全てを明らかにする」
レイドはガルムの瞳を見つめた。長い付き合いだ。この男が虚勢を張っているのか、本気なのかは分かる。
——本気だ。
「わかった。ただし、条件がある」
レイドは机に戻り、羽ペンを取った。
「決闘はファングランドの掟に従う。だが、場所は辺境都市だ。ならば、辺境都市の法も適用する。具体的には——立会人の指名権はこちらにもある」
ヴォルフリーデが片眉を上げた。
「立会人に誰を?」
「あなたと、ボルグ殿だ」
ヴォルフリーデ——ファングランドの長老格。ボルグ——ドワーフの使節団長。二人の目が同時にレイドに向いた。
「両名は獣人の掟に精通し、かつこの都市の客人でもある。公正な裁定が期待できる。ザガンも、この人選は拒否できないだろう」
「なるほど」
ヴォルフリーデの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「ファングランドの長老が立ち会えば、結果に対する正統性が保証される。ザガンが不正を働けば、即座に露見する——よく考えたな、人間」
「抜かりない男だろう、うちの団長は」
ガルムが珍しく口角を上げた。レイドは苦笑を返す。
「ザガンに伝えてくれ。辺境都市の法の下、明日の正午に決闘を受ける。立会人はヴォルフリーデ殿とボルグ殿。条件に異論がなければ、正式に承諾すると」
ヴォルフリーデは頷き、執務室を出て行った。
二人きりになった部屋で、ガルムが背を向けたまま言った。
「団長。俺がファングランドを追われた本当の理由——知っているか?」
「お前の口から聞いたことはない」
「明日、決闘の場で全てを話す。お前にも、あの狼にも、ザガンにも——全員の前で」
ガルムは振り返らず、部屋を出た。
レイドは一人残された執務室で、獣皮紙の決闘状をもう一度見下ろした。古い文字が、朝日を受けて鈍く光っている。
——ただの力比べにはしない。
その言葉の意味を、レイドはまだ完全には理解できていなかった。
◇
決闘の知らせは、瞬く間に街中に広まった。
リリアーナが情報を整理し、フィーネが医療班の準備を始め、ミーシャが決闘場の魔力計測設備を設置する。それぞれが動く中、ザガンからは即座に承諾の返答が届いた。
「ほう、辺境都市の法の下で、か。面白い。どこで戦おうが結果は変わらん」
自信に満ちた伝言だったという。
ヴォルフリーデは淡々とレイドに報告した。
「ザガンは強い。ファングランドでも五指に入る戦士だ。油断はするな」
「ガルムも負けていないだろう」
「力は互角。だからこそ、ザガンは別の手を使うかもしれん」
警告を残し、ヴォルフリーデは去った。
◇
日が沈み、街に夜帳が下りた頃。
ガルムは自宅の裏庭で、一人、古い戦斧の手入れをしていた。刃に布を当て、ゆっくりと磨く。その背中に、静かな足音が近づいた。
「あなた」
妻のナディアだった。虎族の女性らしい、しなやかな体躯。穏やかな琥珀色の瞳で、夫の背中を見つめている。
「ナディア。子供たちは寝たか」
「タロスがまだ起きてる。あなたに会いたいって」
「……あとで行く」
ナディアはガルムの隣に腰を下ろした。しばらく、戦斧を磨く音だけが響いた。
「あなたは勝つわ」
「ああ」
「でも——勝った後のことが心配」
ガルムの手が、一瞬だけ止まった。
「ザガンを倒せば、ファングランドの強硬派が黙るとは限らない。あの男の背後には、もっと大きな力がある。決闘の結果が、ファングランド全体の政治を動かすかもしれない」
「わかっている」
「わかっているから心配なのよ、あなた」
ナディアの声は責めるでもなく、ただ事実を述べていた。ガルムは戦斧を膝に置き、夜空を見上げた。星々が、ブランフェルトの澄んだ空気の中で鋭く瞬いている。
「だが、退くわけにはいかん。この街で暮らす獣人たちのためにも。そして——あいつに知らせなければならない真実がある」
「真実——」
「明日の決闘で、全てを終わらせる」
ナディアはそれ以上問わなかった。ただ夫の肩にそっと手を置き、立ち上がった。
「タロスが待ってるわ」
ガルムが頷き、裏庭から居間に向かうと、小さな影が飛び出してきた。
「父さん!」
息子のタロス。まだ幼い虎族の少年が、父の太い腕にしがみつく。ガルムは片手でタロスを抱き上げた。
「まだ起きていたのか」
「だって、明日父さんが戦うって聞いたから」
「心配するな。すぐ終わる」
タロスはガルムの胸に顔を埋め、くぐもった声で言った。
「父さん。僕もいつか強くなったら、ファングランドに行きたい」
「——何だと?」
「ファングランドに行って、みんなに本当のことを伝えたい。父さんは悪い人じゃないって。この街は、すごいところだって」
ガルムの腕に、無意識に力がこもった。
幼い息子が背負おうとしている重荷。それは、本来この子が負うべきものではない。
「お前にはそんな苦労はさせん」
低く、だが揺るぎない声だった。
「俺が明日、終わらせる。お前は——お前の好きなように生きろ」
タロスは顔を上げ、父の瞳を見つめた。幼いながらも、その目には虎族の誇りが確かに宿っていた。
窓の外では、決闘の舞台となる広場に、松明の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めていた。




