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母の遺した言葉

 深夜の客間に、沈黙が降りていた。


 使節団に割り当てられた一室。窓から差し込む月明かりが、向かい合う二人の女性の横顔を照らしている。


 フィーネ・ルーチェと、シルヴァリア使節エレアノール。


「——単刀直入に申します」


 エレアノールが静かに口を開いた。長い銀髪が揺れ、碧い瞳がフィーネをまっすぐに捉える。


「あなたのお母様——アイリーン・ルーチェのことです」


 その名を聞いた瞬間、フィーネの肩がわずかに強張った。


「母の名前を、なぜあなたが」


「私はアイリーンの同僚でした。そして——親友だった」


 フィーネは息を呑んだ。目の前のエルフが、母と同じ時代を生きた者だという事実。それだけで、胸の奥がざわめく。


「お母様は単なる薬師ではありませんでした」


 エレアノールの声は淡々としていた。だがその瞳の奥に、長年押し殺してきた感情が揺れているのをフィーネは見た。


「アイリーンはシルヴァリアの宮廷魔術師であり、聖樹ユグラシルの研究者でした。植物魔法において、彼女の右に出る者はいなかった」


「宮廷……魔術師?」


 フィーネの声が震えた。母はいつも、小さな村で薬草を摘み、病人を治す穏やかな女性だった。宮廷魔術師という言葉とは、あまりにもかけ離れている。


「嘘、ですよね。母は——ただの薬師で——」


「あなたを守るために、そう振る舞っていたのでしょう」


 エレアノールは目を伏せた。


「アイリーンは研究の中で、聖樹の衰退を発見しました。マナの循環に異常が生じていると。放置すれば百年以内に聖樹は枯死し、シルヴァリアの森は死に絶えると」


「そんな——」


「彼女は長老会議に警鐘を鳴らしました。何度も、何度も。しかし」


 エレアノールの声に、初めて苦いものが混じった。


「長老たちは耳を貸さなかった。それどころか、アイリーンが人間の学者と恋仲になったことを利用したのです。『純血の聖域に穢れを持ち込んだ者の言葉に価値はない』と」


 フィーネの手が、膝の上で握りしめられた。爪が掌に食い込む。


「あなたを身籠ったことが追放の理由——というのは表向きです。本当の理由は、聖樹の衰退という不都合な真実を公にしようとしたこと。長老たちにとって、アイリーンは黙らせるべき存在だった」


「それで母は——」


「シルヴァリアを追われ、人間の世界に入った。けれど人間社会でも、ハーフエルフの子を持つエルフは歓迎されなかった」


 エレアノールの声が、かすかに詰まった。


「私は——あの時、何もできなかった。親友が追放されるのを、ただ見ていた。長老会議に逆らう勇気がなかった」


 長い沈黙が落ちた。


 フィーネの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。村の子供たちに「尖り耳」と石を投げられた日。母が自分の耳を髪で隠してくれた、あの温かい手。「隠さなくていい日がきっと来る」と言いながら、その目には涙が滲んでいた。


 母は知っていたのだ。自分が追われた本当の理由を。それでも娘には語らず、ただ薬草学の知識だけを遺して逝った。


「今になって、アイリーンの研究が正しかったことが証明されています」


 エレアノールが続けた。


「聖樹の衰退は加速している。長老たちも、もはや無視できない段階に来ています。そして——あなたの母の研究を引き継げるのは、あなただけかもしれない」


 その言葉が、引き金だった。


「——ふざけないでください」


 フィーネの声が、低く震えた。


「母を追い出しておいて。研究を握り潰しておいて。私が——私がどれだけ」


 声が裏返った。涙が頬を伝い、止まらなくなった。


「耳を隠して生きてきたか、知ってるんですか!? 母がどれだけ苦しんだか! 病気になっても、エルフの薬が手に入らなくて——それなのに今更、都合のいいことを言わないでください!」


 叫びが、部屋の壁に反響した。


 エレアノールは何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。銀髪が床に広がる。


「——おっしゃる通りです。すべて、私たちの罪です」


 フィーネは荒い息を吐きながら、立ち上がった。視界が涙で歪む。


「出てください。一人に——させてください」


 エレアノールは静かに立ち上がり、一礼して部屋を出た。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 一人になった部屋で、フィーネはベッドに崩れ落ちた。嗚咽が止まらない。枕に顔を押し付け、声を殺して泣いた。


 どれくらいそうしていただろう。


 涙が枯れた頃、フィーネの目が荷物の中の一冊に止まった。


 母が遺した薬草学の手記。革表紙はすっかり擦り切れ、何度も読み返した跡がある。この手記だけは、どこへ行くにも肌身離さず持ち歩いてきた。


 震える手で、ページをめくる。


 薬草の効能。調合の手順。母の丁寧な筆跡が並ぶ。見慣れた内容だった——はずだった。


「これ……」


 手記の後半、フィーネがこれまで読み飛ばしていた部分。古代エルフ語で書かれた注釈が、びっしりと余白を埋めていた。幼い頃は読めなかった文字。だが今のフィーネには、読める。


 ——聖樹のマナ循環に関する考察。衰退の原因は根系の魔力伝導経路の劣化。修復には、失われた古代技術が必要。


 ページをめくる手が止まった。


 母の筆跡が、一箇所だけ力強くなっている。何度も下線を引いた跡。


 ——古代アルカディアの生命維持魔術。聖樹の根系修復の鍵は、おそらくここにある。


「アルカディア——」


 フィーネは顔を上げた。涙の跡が頬に残ったまま、目が見開かれる。


 古代アルカディア文明。その遺跡の上に建つ都市。ミーシャが管理する、膨大な古代データベース。


 母が求めていた答えが、この街の地下に眠っているかもしれない。


 その可能性に気づいた瞬間、胸の奥で何かが動いた。悲しみでも怒りでもない。もっと深い場所から湧き上がる、静かな衝動。


 フィーネは手記を胸に抱きしめた。そのまま、夜が明けるまで動けなかった。


 ——やがて、窓の外が白み始めた。


 フィーネは腫れた目をこすり、深呼吸を一つ。手記をそっと鞄にしまい、部屋の扉を開けた。


 廊下の壁に背を預け、腕を組んだまま目を閉じている男がいた。


「……レイドさん?」


 レイド・アシュフォードは目を開けた。深緑の瞳が、フィーネを静かに見つめる。服には夜露が染み、ここで朝まで待っていたことは明白だった。


「いつから——」


「昨夜、エレアノール殿が険しい顔で出てくるのを見た。それから、ずっと」


 フィーネは唇を噛んだ。また涙が込み上げそうになる。


「聞いて、たんですか」


「いや。聞こえないように離れていた」


 レイドは壁から背を離し、フィーネの前に立った。何かを問いただすでもなく、慰めの言葉を並べるでもなく。


 ただ一言。


「一人で背負うな」


 それだけ言って、レイドはかすかに笑った。


 フィーネは数秒、その顔を見つめた。そして——


「——母の手記に、手がかりがありました」


 声はまだ震えていた。けれど、目にはもう涙はなかった。


「古代アルカディアの生命維持魔術。聖樹を救う鍵が、この街の地下にあるかもしれません」


 レイドの目が、わずかに見開かれた。


「ミーシャのデータベースに——」


「ええ。あるかもしれない」


 フィーネは手記を握りしめ、まっすぐ前を向いた。


「私、母の研究を引き継ぎます。でも——一人じゃ、無理です」


「当たり前だ」


 レイドは即答した。


「ミーシャを叩き起こすところから始めよう。あいつ、朝は機嫌が悪いが——古代アルカディアの生命維持魔術と聞けば、目の色を変えるはずだ」


 フィーネは、泣き腫らした顔で小さく笑った。


 朝日が、廊下に差し込み始めていた。

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