汚名の真実
翌朝の交渉は、荒れることが予想されていた。
レイドは会議室の窓から朝日を浴びながら、昨夜のフィーネの表情を思い返していた。エレアノールと何か話していたらしいが、詳しくは聞けていない。
だが今日は、別の問題が先に来る。
「団長」
背後からガルムの低い声が響いた。振り返ると、虎族の巨躯が入り口に立っている。いつもは感情を見せない男の顔に、微かな緊張が走っていた。
「ファングランドとの個別交渉、俺は外れた方がいい」
「理由は聞いている」
レイドは静かに答えた。副使ザガンとガルムの間にある因縁——昨夜のうちにリリアーナが調べ上げてくれていた。
「だからこそ、お前にいてほしい」
「……団長」
「逃げるな、ガルム。ここは宮廷じゃない。不都合な真実を隠して体裁を繕う場所じゃないんだ」
ガルムは数秒、沈黙した。やがて、小さく顎を引いた。
※
会議室の空気が張り詰めたのは、交渉開始からわずか十分後だった。
ファングランド正使ヴォルフリーデが通商条件について穏やかに話を進めていた、その時。副使ザガンが卓上に一枚の羊皮紙を叩きつけた。
「本題に入る前に、確認すべきことがある」
狼族の鋭い眼光がガルムを射貫く。
「この都市の軍事責任者ガルム・ドラグハートは、ファングランドにおいて『集落虐殺の共犯および逃亡』の罪で手配されている。我々は犯罪者と同席して交渉するつもりはない」
室内の温度が、一気に下がった。
リリアーナが素早くレイドに目配せする。レイドは小さく首を振り、静観の姿勢を示した。
ヴォルフリーデの表情が曇る。彼女はこの展開を予期していなかったわけではないだろう。だが、この場で持ち出されることは想定外だったはずだ。
「ザガン副使、それは本交渉の議題とは——」
「関係がないと? 犯罪者を重用する都市の信頼性は、交渉の根幹に関わる問題だ」
ザガンが羊皮紙を広げた。そこには、十年前の事件の公式記録が記されていた。
「ラクシャ集落防衛戦。ガルム率いる混成傭兵団は、獣人集落の防衛任務を請け負いながら壊滅。集落の住民二百名以上が犠牲となった。そして団長であるこの男だけが、家族を連れて逃亡した」
ガルムの拳が、膝の上で白くなるほど握り締められていた。だが、口は開かない。
「なるほど」
レイドの声は平坦だった。
「それがファングランドの公式見解だということは理解した。——ガルム、お前の見解を聞かせてくれ」
「団長、俺は——」
「事実だけでいい」
ガルムは一度目を閉じた。そして、絞り出すように語り始めた。
「十年前、俺は獣人と人間の混成傭兵団を率いていた。種族は関係ない、腕が立つ奴なら誰でも受け入れる——そういう方針だった」
ザガンの目が細まる。
「ラクシャ集落の防衛任務を受けた時、補給路はファングランド本国が保証していた。だが——」
ガルムの声が低くなった。
「補給が来なかった。食料も、武器の補充も、増援も。三度の要請を送ったが、すべて無視された。傭兵団は消耗し、魔獣の第二波に対応する余力を失った」
「言い訳だ」ザガンが遮った。「補給の遅延は戦場では常のこと——」
「遅延じゃない」
ガルムの声が、初めて感情を帯びた。
「断たれたんだ。意図的に」
沈黙が落ちた。
ヴォルフリーデの表情が凍りついている。
「当時の補給責任者は誰だった?」
レイドが静かに問いかけた。その視線は、ザガンに向けられていた。
「それは本件とは無関係だ」
「無関係? 補給が断たれた事実を検証するなら、責任者の特定は不可欠だろう」
リリアーナが即座に補足した。
「わたくしの調査では、当時の補給管轄はファングランド東部軍区。その軍区長は族長候補グラオス殿の直轄でしたわね。そして——」
赤毛の少女の碧い瞳が、ザガンを正面から見据えた。
「実務を取り仕切っていたのは、当時グラオス殿の副官だったザガン殿、あなたご自身ではなくて?」
ザガンの顔色が変わった。一瞬だが、確かに動揺が走っていた。
「……根拠のない中傷だ」
「中傷かどうかは、記録を精査すれば明らかになりますわ」
リリアーナが微笑んだ。だがその目は笑っていない。
ガルムが続けた。声は低いが、もう震えてはいなかった。
「グラオスは混成傭兵団の存在が気に入らなかった。『獣人は獣人だけで戦うべきだ』——あの男の純血主義に、俺たちの在り方は目障りだったんだろう。だから補給を断ち、傭兵団を壊滅させた。集落の住民を巻き添えにしてでも」
「出鱈目を——」
「俺の汚名はどうでもいい」
ガルムが立ち上がった。巨躯が揺れ、椅子が軋んだ。
「だが、あの集落で死んだ者たちの名誉だけは——俺が生きている限り、踏みにじらせはしない」
その言葉には、十年分の重みが乗っていた。
ザガンが何か言い返そうとした瞬間、ヴォルフリーデが片手を上げた。
「本件は、今日の交渉の場で結論を出すべき問題ではない」
正使の声は冷静だったが、その金色の瞳には複雑な光が揺れていた。
「ファングランドは事実に基づく判断を行う。——ザガン副使、これ以上の発言は控えなさい」
「正使殿、しかし——」
「控えなさい」
ヴォルフリーデの声に、有無を言わさぬ力が宿った。
ザガンは歯を食いしばり、席に座り直した。だが、その目は暗い怒りに燃えている。レイドは気づいていた。この男が辺境都市の防衛配置を、視察と称して細かく観察していたことを。交渉のためだけにしては、不自然なほど軍事面への関心が高い。
交渉はその後、表面上は平穏を取り戻した。だが何かが変わっていた。ヴォルフリーデの随行員の中に、ザガンの言葉ではなくガルムの言葉に頷いていた若い獣人たちがいたことを、レイドは見逃さなかった。
グラオスの純血主義。それはファングランド内部でも、特に若い世代の間で反発を生んでいるのかもしれない。
※
交渉が終わり、各国使節が退出した後。レイドはガルムと二人、会議室に残っていた。
「すまなかった、団長。俺の問題で交渉を乱した」
「乱したのはザガンだ。お前じゃない」
レイドは窓辺に寄りかかり、腕を組んだ。
「ガルム。お前がこの街に来た理由、今日初めて全部わかった」
「……ああ」
「家族を守るために逃げた。それは卑怯じゃない。唯一の正解だ」
ガルムは何も言わなかった。ただ、わずかに顎を引いた。それが、この男なりの精一杯の感情表現であることを、レイドはもう知っていた。
「約束する。この街で——お前の正しさを証明する機会を、俺が作る」
「団長——」
「具体的な方法はまだ見えていない。だが、あの集落で死んだ者たちの名誉を取り戻す。それだけは、必ず」
ガルムの巨体が、かすかに震えた。十年間、背負い続けた重荷。誰にも語れなかった真実。この男は、それをたった一人で抱えてきたのだ。
「——感謝する。団長」
短い言葉だった。だが、レイドにはそれで十分だった。
※
その夜。
レイドが執務室で書類を整理していると、控えめな扉の音がした。
入ってきたのは、予想外の人物だった。
「夜分に失礼する。レイド・アシュフォード殿」
ヴォルフリーデ。ファングランド正使その人が、護衛もつけず、一人で立っていた。
「今日の交渉の件で、個人的にお話がしたい」
「……どうぞ」
レイドは椅子を勧めた。ヴォルフリーデは座らず、まっすぐにレイドを見つめた。
「ガルムの件。私は——薄々、感じていた」
その声に、昼間の冷静さはなかった。苦悩が、滲んでいた。
「グラオスが何をしたか。ザガンが何を隠しているか。だが証拠がなかった。十年間、ずっと」
「それを俺に話す理由は?」
「ガルムの無実を証明できれば、ファングランドの穏健派は全面的にあなたに味方する」
ヴォルフリーデの金色の瞳が、月明かりの中で鋭く光った。
「だが——証拠は、グラオスの本拠地にしかない」
沈黙が、執務室を満たした。
レイドの脳裏に、大陸の地図が浮かぶ。ファングランド東部軍区。グラオスの勢力圏の、最も深い場所。
「それは——」
「ええ。最も危険な場所、ということです」
ヴォルフリーデが初めて、かすかに笑った。だがその笑みには、覚悟が宿っていた。




