焚き火の夜に
日が傾き始めた頃、ガルムが足を止めた。
「ここがいい。風除けになる岩がある」
荒野に突き出た巨岩の影に、ちょっとした窪地があった。見渡す限りの荒れ地にあって、野営には悪くない場所だ。
レイドは研究ノートから顔を上げた。
「ああ、もうそんな時間か。すまない、ガルム。完全に没頭していた」
「知ってる」
素っ気ない返事だったが、敵意は感じなかった。少なくとも、朝よりは幾分か柔らかい。
フィーネが荷を下ろしながら声を上げた。
「私、薬草を探してきますね。この辺りの土壌なら、ニガヨモギが自生しているかもしれません」
「頼む。俺は火を起こそう」
レイドが枯れ草を集めていると、ガルムの双子の子供たちが駆け寄ってきた。五歳ほどの虎耳の少年と少女——名をルークとレナという。
「おじちゃん、あっちにかわいた木がいっぱいあるよ!」
レナが指差す方角には、確かに枯れ木の群生が見えた。この距離で、よく気づいたものだ。
「ありがとう。助かるよ」
レイドが礼を言うと、双子は嬉しそうに走っていった。ガルムの妻——穏やかな目をした獣人の女性、サーシャが申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、騒がしくて」
「いや、子供は元気なのが一番だ」
レイドは本心からそう思った。
*
焚き火が安定した頃、五人と二匹——もとい二人の子供を含めた七人が、炎を囲んで座っていた。
フィーネが採ってきた薬草で淹れた茶が、乾いた喉に沁みる。荒野の夜は冷える。火の温もりが、ありがたかった。
「ガルム。聞いていいか」
レイドは茶を啜りながら切り出した。
「お前たちが辺境に向かっている理由——傭兵団を追われた、と言っていたな」
沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜる音だけが響く。
サーシャが夫の腕にそっと手を添えた。ガルムは、しばらく炎を見つめていた。
「……十年いた」
低い声だった。
「『鉄狼団』という傭兵団だ。人間も獣人も関係なく、腕で評価される——そういう場所だった」
レイドは黙って聞いた。
「新しい領主が来るまではな」
ガルムの拳が膝の上で握られた。
「獣人排斥令。領内の傭兵団から、獣人を全て追放しろという命令だ。団長は抵抗した。だが——」
「圧力に屈した?」
「いや」
ガルムは首を振った。その目に、怒りよりも深い悲しみが宿っていた。
「団長は俺たち獣人を逃がすために、命令に従うふりをした。だが密告者がいた。団長は投獄され、俺たちは追われた。十年共に戦った仲間の半数が、剣を向けてきた」
フィーネが息を呑んだ。
「残りの半数は——見て見ぬふりをした。それが一番堪えた」
焚き火の光が、ガルムの顔の傷跡を照らし出す。その一つ一つに、語られない物語があるのだろう。
レイドは何も言わなかった。安易な慰めは、この男には侮辱になる。
「……すまないな。湿っぽい話をした」
「いや。聞けてよかった」
レイドの言葉に嘘はなかった。この男の強さの根にあるものが、少しだけ見えた気がした。
しばらくの沈黙の後、フィーネが口を開いた。
「私も、似たようなものです」
普段の明るさを押し殺した、静かな声だった。
「ハーフエルフは、どちらにも居場所がないんです。人間の村では『化け物』と石を投げられて。エルフの里では——」
言葉が途切れた。
「『穢れた混血』、と」
フィーネは自分の耳に触れた。長い髪で隠された、人間よりは長く、エルフよりは短い耳。
「里を出た経緯は——その、いろいろあって」
笑顔を作ろうとして、失敗していた。レイドはそれ以上踏み込まなかった。語りたくないことには、相応の理由がある。
「それで薬師になったのか」
「はい。薬は、種族に関係なく効きますから」
その言葉の重さを、レイドは噛み締めた。
「で、あんたはどうなんです?」
フィーネがレイドに問いかけた。
「宮廷魔術師が追放されるなんて、よほどのことがあったんでしょう?」
「よほどのこと、か」
レイドは苦笑した。
「新しい宰相——ヴァルター・ゼーリヒが就任してな。『魔法は戦力でなければ無価値』という方針を打ち出した。俺の万象構築魔術は、攻撃力が低い。それで不要と判断された。それだけだ」
「それだけって——十年も仕えたんでしょう!?」
フィーネの語尾が跳ね上がった。
「まあな。でも正直に言うと——」
レイドは焚き火の向こうに広がる星空を見上げた。荒野の空は、宮廷の窓から見たどんな夜よりも広い。
「あの宮廷にいた十年で一番楽しかったのは、夜中に一人で研究してた時間だったな」
フィーネが呆れた顔をした。ガルムが、微かに——本当に微かに、口の端を上げた。
「お前は、変わった奴だな」
それは、警戒でも侮蔑でもなかった。初めて見る、ガルムの素の表情だった。
「変わっていると言えば——その万象構築魔術、実際のところ何ができる?」
ガルムが問うた。純粋な興味が、声に混じっていた。
「良い質問だ」
レイドの目が輝いた。研究者の顔になる瞬間を、フィーネは見逃さなかった。
「一般の魔術は六属性——火、水、風、土、光、闇に分類される。だが万象構築魔術は、そのどれにも属さない」
レイドは地面に指で魔法陣を描き始めた。指先から淡い光が零れ、砂の上に文様が浮かぶ。
「この魔術の本質は『この世のあらゆる現象を理解し、魔術式として記述・再構成する』ことにある」
「あらゆる現象を……再構成?」
フィーネの目が見開かれた。
「例えば、水を生み出す魔術は『水属性魔術』だ。だが俺のやり方は違う。大気中の水分子の振る舞いを記述し、凝集する条件を魔術式で再現する。結果として水が生まれるが、プロセスが根本的に異なる」
「つまり——水だけじゃなく、何でも作れるってことか」
ガルムが核心を突いた。
「理論上はな。あらゆる物質の構造を理解できれば、それを再構成できる。ただし——」
レイドは言葉を切った。
「理解が追いつかないものは、作れない。俺の知識が限界であり、天井でもある。だから研究が必要なんだ」
フィーネとガルムは顔を見合わせた。この魔術の潜在能力は——宮廷が「役立たず」と切り捨てたそれは——途方もない可能性を秘めている。
「宮廷の連中は、馬鹿だな」
ガルムが端的に言った。
「まあ、おかげで自由になれた。悪くない取引だ」
レイドは笑って、茶の残りを飲み干した。
夜が更け、子供たちがサーシャの膝で寝息を立て始めた頃——レナが不意に目を開けた。
「パパ。ひがし、なんかへん」
寝ぼけた声だったが、ガルムの耳がぴくりと動いた。東の闇を睨む。
「……何も聞こえんが」
「レナちゃん、夢でも見たんですよ」
フィーネが微笑んで、レナの頭を撫でた。幼い虎耳の少女は、安心したようにまた目を閉じた。
ガルムだけが、しばらく東の方角を見つめていた。
*
翌朝、レイドは冷えた空気に目を覚ました。
焚き火は燃え尽き、白い灰だけが残っている。東の空が薄く赤く染まり始めていた。
「団長」
ガルムの声が、緊張を帯びていた。
レイドは反射的に立ち上がった。ガルムが指差す方角——東。朝焼けの空に、黒い煙が何筋も立ち昇っている。
「煙……? あの方角は——」
「昨日すれ違った隊商が言っていた。東から難民の一団が来ていると」
フィーネの顔が蒼白になった。
「魔獣、ですか」
「分からん。だが、ただの焚き火の煙じゃない」
ガルムの声は低く、断定的だった。歴戦の傭兵の勘が、そう告げている。
レイドは研究ノートを懐にしまい、荒野の東を見据えた。
昨夜、レナが「東がへん」と言った言葉が、頭をよぎる。
「行こう」
短く、だが迷いなくレイドは言った。
「——は?」
「あの煙の下に人がいるなら、助けに行く。それだけだ」
ガルムが目を細めた。値踏みするような視線。
だがその口元には——昨夜と同じ、微かな笑みが浮かんでいた。
「……ついて行ってやる。足手まといになるなよ、団長」
東の空に昇る煙は、一筋ではなかった。
何かが、燃えている。




