獣の牙と白狼の矜持
翌朝、ノヴァ・アルカディアの東門に砂煙が立った。
レイドは城壁の上から、近づいてくる一団を見下ろしていた。隣にはリリアーナが書類を抱えて立ち、その後方にはフィーネが救急用の薬草袋を肩に掛けている。万が一に備えての配置だったが、レイドはそれが杞憂であることを祈っていた。
「来ましたわね」
リリアーナが目を細めた。
使節団は二十名ほど。先頭を歩くのは、白銀の毛並みを朝日に輝かせた長身の女性だった。白狼族——一目でわかるほど、その存在感は圧倒的だった。背に負った大剣は彼女の身の丈ほどもあり、それを苦もなく背負って歩く姿は、まさに歴戦の戦士そのものだ。
その半歩後ろに、虎族の男が続いていた。ガルムと同じ虎の耳と尾を持つが、毛並みはより暗い灰縞で、目つきは鋭く冷たい。
「あの虎族——」
ガルムの声が、背後から低く響いた。レイドが振り返ると、ガルムは瞳を凍りつかせて門の下を見つめていた。
「知り合いか?」
「……ザガン。虎族の中でも、特に狡猾な男だ」
それ以上は語らなかった。だが、ガルムの拳が白くなるほど握り締められていることに、レイドは気づいていた。
◆
東門の広場で、正式な出迎えが行われた。
白狼族の女戦士は、レイドの前に立つと片膝をつくでもなく、堂々と胸を張って名乗った。
「ファングランド使節団団長、ヴォルフリーデ・シルヴァヘルだ。族長グラオスの名代として参った」
声は低く、よく通る。武人の声だ。レイドは自然と背筋を伸ばした。
「辺境都市ノヴァ・アルカディア代表、レイド・アシュフォードだ。長旅ご苦労だった。歓迎する」
「歓迎か」
ヴォルフリーデの金色の瞳が、城壁を、街路を、そして上空に薄く輝く防衛結界を順に見上げた。
「噂には聞いていたが、想像以上だな。この結界——古代式か?」
「よくわかるな」
「白狼族は鼻が利く。マナの匂いでわかる。古い、深い、そして途方もなく濃い魔力だ」
感心したように鼻を鳴らすヴォルフリーデの隣で、副使ザガンもまた結界を見上げていた。だがその目は称賛ではなく、品定めをする商人のそれに近かった。結界の紋様が走る位置、魔力の流れる方向、術式の接合部——その視線は明らかに、構造を分析していた。
「ほう、これはこれは」
ザガンが口を開いた。薄い笑みを浮かべながら、視線をレイドからガルムへと移す。
「驚いたな。裏切り者が、ずいぶんといい身分になったものだ」
空気が凍った。
ガルムの全身から、殺気とも呼べる気配が立ち上った。虎族の戦士の瞳が、縦に裂けた獣の目に変わる。
「……何だと」
「おいおい、そう睨むな。俺はただ事実を言っただけだ。かつての仲間を見捨てて逃げた男が、今や辺境都市の幹部とは——世の中わからんものだな」
「黙れ。お前が何をしたか、俺は忘れていない」
ガルムが一歩踏み出した。その巨躯が動いただけで、周囲の空気が軋む。ザガンの護衛たちが反射的に武器に手をかけた。
「ガルム」
レイドの声は静かだった。だが、その一言に込められた重みに、ガルムの足が止まる。
「……すまん、団長」
ガルムは歯を食いしばり、一歩下がった。だがその目はザガンから逸らさなかった。
ヴォルフリーデが溜息をついた。
「ザガン。余計な口を叩くなと言ったはずだ」
「これは失礼。族長の副使として、旧知に挨拶をしただけですよ」
慇懃な言葉とは裏腹に、ザガンの目には挑発の色が消えていなかった。
レイドはその一連のやり取りを見て、使節団の内部構造を理解した。ヴォルフリーデは穏健派、ザガンは強硬派の族長グラオスの目として送り込まれた監視役。二人の間にある亀裂は、そのままファングランド内部の権力闘争を映している。
「まずは旅の疲れを癒してくれ。宿舎を用意している。会談は明日の午前でどうだ?」
「ありがたい」
ヴォルフリーデは素直に頷いた。「だが一つ、先に言っておく。ファングランドは強者と手を結ぶ。この街がその名に値するかどうか——この目で確かめさせてもらう」
「望むところだ」
レイドは笑みを返した。試されることには慣れている。追放された日から、ずっとそうだった。
◆
その日の夕刻、レイドはヴォルフリーデとの非公式な会談の席についていた。
場所は都市庁舎の小会議室。リリアーナが茶を淹れ、フィーネが薬草茶の菓子を添えた。ザガンは同席を求めたが、ヴォルフリーデが「団長間の私的な会話だ」と退けていた。
「単刀直入に言おう」
ヴォルフリーデは茶碗を置き、レイドを真っ直ぐに見た。
「ファングランドは今、揺れている。族長グラオスは人間との対決を望んでいるが、私はそれが破滅への道だと考えている」
「……随分と率直だな」
「回りくどいのは性に合わん。それに、この街を見ればわかる。獣人と人間が対等に暮らしている。こんな場所は、大陸のどこにもない」
ヴォルフリーデの声に、かすかな苦味が混じった。
「ファングランドでは今、若い獣人たちが故郷を捨てて人間の街に流れている。差別されるとわかっていても、だ。故郷に残っても未来がないと、若者たちは感じている」
リリアーナが小さく息を呑んだ。獣人社会の内側から語られるその言葉は、外部の報告書では決して見えない現実だった。
「だからこそ——」
レイドは身を乗り出した。
「相互防衛条約と技術供与の枠組みを提案したい。ノヴァ・アルカディアの魔導インフラ技術をファングランドに提供する代わりに、有事の際の軍事協力を約束する。獣人の若者たちにとっても、新しい選択肢になるはずだ」
ヴォルフリーデの金色の瞳が、わずかに見開かれた。
「……魔導インフラの技術供与だと? 人間がそれほどの譲歩を?」
「俺はここで、種族の壁をなくそうとしている。取引じゃない。共に生きるための仕組みを作りたいんだ」
しばしの沈黙が落ちた。ヴォルフリーデはレイドの目を見つめ、嘘や打算がないか探るように視線を動かした。やがて、白狼族の女戦士はふっと表情を緩めた。
「面白い男だ。宮廷を追われた魔術師とは思えん器の大きさだな」
「追われたからこそ、かもしれない」
レイドは肩をすくめた。ヴォルフリーデは低く笑ったが、すぐにその笑みが消えた。
「だが——私の一存では何も決められん。族長グラオスの承認なしには、条約はおろか覚書すら交わせない」
その声には、明確な悔しさがにじんでいた。有能な武人が、政治の鎖に縛られている。レイドにはその苛立ちが痛いほどわかった。
「わかっている。今日はまず、信頼の土台を作れればいい」
「……感謝する。あの街を案内してもらえるか。自分の目で、この都市の真の姿を見たい」
「もちろんだ」
◆
深夜。使節団に割り当てられた宿舎の一室で、ザガンは窓の格子越しに夜空を見上げていた。
防衛結界の魔力線が、星空に淡い紋様を描いている。昼間の観察で、結界の層構造と主要な術式接合点はおおよそ把握できた。古代アルカディア式の多層防御——正面からの突破は困難だが、接合部に干渉すれば内側から崩せる可能性がある。
ザガンは懐から小さな水晶球を取り出した。通信魔具だ。使節団の正式な装備にはないもの。
魔力を注ぐと、水晶が鈍く光った。
「——こちらザガン。定時報告です」
水晶の奥で、低い唸り声が応じた。
「辺境都市の戦力は報告通り。防衛結界は古代式の多層構造で、正面突破は推奨しません。しかし術式の接合部に脆弱性が見られます。詳細は帰還後に」
一拍、間を置いた。
「それと——虎族の裏切り者ガルムが、幹部として居座っています」
水晶の向こうで、沈黙が重くなった。
「族長。如何いたしましょう」
低く、地の底から響くような声が返った。
『——放っておけ、とは言わんよ。ザガン』
水晶の光が、ザガンの薄笑いを照らし出していた。




