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三通の書簡と、それぞれの影

 ファングランドの旗を掲げた一団は、城壁の前で足を止めた。


 レイドは城壁の上から彼らを見下ろしながら、隣で身を強張らせるガルムの様子を横目で確認した。虎族の巨躯がわずかに震えている。それは恐怖ではなく、怒りだ。


「ガルム、落ち着け」


「……わかっている」


 短く答えたものの、ガルムの瞳は獣人連合の旗印から離れなかった。


 一団の先頭に立つ獣人が、片手を高く掲げた。武器を持たない手——休戦の意思表示だ。もう片方の手には、封蝋が施された書簡が握られている。


「辺境都市ノヴァ・アルカディアの長に告ぐ! 獣人連合ファングランドより、正式な使節団派遣の打診書をお届けに参った!」


 声は朝の荒野によく通った。武装した戦士団は微動だにしない。レイドは彼らの陣形を観察した。確かに友好的とは言い難い布陣だが、攻撃態勢でもない。威圧だ。交渉前に力を誇示する、古典的な外交手法。


「受け取ろう」


 レイドが城門を開かせると、使者が一人だけ進み出た。書簡を渡し、一礼して去っていく。それだけの、素っ気ないやり取りだった。


 だが書簡はそれだけではなかった。


「団長、これを」


 リリアーナが駆け寄ってきたのは、ファングランドの使者が去ってから一刻もしないうちだった。その手には二通の封書が握られている。


「南門と東門にも使者が来ましたの。こちらはドゥルガン——鉄灰色の封蝋ですわ。そしてこちらが」


 リリアーナが差し出したもう一通を見て、フィーネが小さく息を呑んだ。


 深緑の封蝋に刻まれた、銀の大樹の紋章。エルフの森林国家シルヴァリアの国璽だった。


「フィーネ?」


 レイドが声をかけると、フィーネは慌てて首を振った。


「な、なんでもないですよ。ちょっと驚いただけで」


 しかしその手は無意識に自分の髪を直していた。長い耳を隠すように——いつもの、あの仕草だ。レイドはそれ以上追及しなかった。今はまず、三通の書簡を読むべきだ。


 会議室に集まった五人の前に、三通の書簡が並べられた。


 リリアーナが一通ずつ開封し、内容を読み上げる。


「まずファングランド。『貴殿の武勇と統治手腕に敬意を表し、通商および安全保障に関する協議のため使節団を派遣したい』——表向きは丁重ですけれど、先ほどの武装を見れば意図は明白ですわね」


「力の誇示か」


 ガルムが低く唸った。


「あいつらのやり方だ。まず牙を見せて、相手が怯むかどうかを試す」


「続いてドゥルガン。『先般の交易協定に基づき、さらなる関係深化を望む。技術交流と防衛協力について正式に協議したい』——こちらは既存の関係がありますから、最も友好的な内容ですわ」


 ミーシャが書簡を覗き込み、小さな鼻をひくつかせた。


「ドワーフさんたちは素直なのです。書いてある通りの意味だと思いますよぅ」


「最後にシルヴァリア」


 リリアーナの声がわずかに緊張を帯びた。


「『永きにわたり閉ざしていた対外交渉の門を開く用意がある。貴殿の都市が掲げる多種族共存の理念について、直接意見を交わしたい』——これは……かなり異例ですわね。シルヴァリアが自ら外交を申し出るなんて、ここ百年で初めてではないかしら」


 沈黙が落ちた。


 レイドは三通の書簡を見比べながら、頭の中で情報を整理した。魔獣の大群を退けた直後。王国軍の進軍が迫る中で、三つの国が同時に接触を図ってきた。偶然ではありえない。


「リリアーナ、分析を聞かせてくれ」


「ええ。結論から申し上げますと——戦勝直後の今が、わたくしたちの交渉力が最も高い時期ですわ」


 リリアーナは地図を広げ、指で各国の位置を示した。


「魔獣の大群を撃退した事実は、もう大陸中に伝わっているはずです。各国とも、この辺境都市が持つ戦力と技術に関心を抱いている。特にヴァルター宰相が王国軍を動かそうとしている今、わたくしたちと関係を結ぶことは、王国への牽制になりますの」


「つまり、俺たちを利用したいわけだな」


「利用し合う、と言った方が正確ですわ。外交とはそういうものです」


 リリアーナの目が鋭く光った。商人の顔だ。交渉の場では、この令嬢は誰よりも冷静になる。


「俺は全員を受け入れる」


 レイドの言葉に、ガルムが顔を上げた。


「団長」


「わかっている、ガルム。お前にとってファングランドは複雑な相手だろう。フィーネ、シルヴァリアについても同じだろうな」


 フィーネが目を伏せた。否定はしなかった。


「だが、断る理由がない。むしろ三カ国同時に受け入れることで、一国だけに偏っていないという姿勢を示せる。リリアーナ、外交カードになりそうなものは何がある?」


「技術供与ですわ」


 即答だった。


「魔法インフラの技術——上下水道、通信網、防衛結界。どの国も喉から手が出るほど欲しいはずです。これを外交カードとして使えば、対等以上の立場で交渉に臨めますわ」


「ミーシャ、迎賓館の建設を頼みたい。各国の使節団を同時に迎える施設が必要だ」


「おまかせなのです!」


 ミーシャが目を輝かせて跳ね上がった。


「古代アルカディアには外交儀礼のプロトコルがあったのです。ドワーフには天井の低い重厚な石造りの部屋、エルフには木と水の調和した開放的な空間、獣人には広くて風通しの良い大広間——各種族に合わせた接遇が必要なのです!」


「……ずいぶん詳しいな」


「ミーシャは古代の外交記録を全部覚えてますよぅ。えっと、それと——」


 ミーシャが記録結晶を取り出し、空中に古代文字を投影した。


「あ、これは……『アルカディア武器禁輸条約』? んー、でも今は迎賓館が先なのです。こっちは後で読むのです」


 ミーシャは条約の記録をさっとしまい込んだ。レイドはその文書名が気にかかったが、確かに今は優先すべきことがある。


「迎賓館の建設を最優先で進めてくれ。それと、リリアーナは各国への返書の草案を。ガルム——」


「ああ」


 ガルムは立ち上がった。


「警備の話だろう。三カ国の使節が同時に滞在するなら、警備体制を三倍にする必要がある。任せろ」


「頼む」


 会議が終わり、それぞれが持ち場に散っていく。


 レイドは窓の外を見た。復旧が進むノヴァ・アルカディアの街並み。その向こうに広がる荒野の彼方から、三つの国がこの小さな都市に手を伸ばそうとしている。


 技術供与を軸にした外交戦略。理屈の上では正しい。だが、レイドにはわかっていた。外交とは理屈だけで動くものではない。感情が、過去が、否応なく絡みつく。


 ガルムのファングランドへの怒り。フィーネのシルヴァリアへの恐れ。それぞれが胸の奥に抱えた傷が、これからの交渉にどう影響するのか——レイドにはまだ、想像もつかなかった。



    ◆



 夜が更けた城壁の上に、一つの影があった。


 ガルムは腕を組み、西の地平線を睨んでいた。ファングランドの使者たちが陣を張った方角だ。焚き火のかすかな光が、闇の中に点々と浮かんでいる。


 風が吹いた。荒野の乾いた風が、虎族の戦士の毛並みを揺らす。


「あの男がまだ族長をやっているなら——」


 ガルムの声は低く、そして硬かった。


「まともな交渉にはならん」


 傷だらけの拳が、石の欄干を握り締めた。古い傷が——傭兵団を追われた日に刻まれた傷が、夜風の中でじくりと疼いた。

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