大陸に響く雷鳴
勝利から三日。ノヴァ・アルカディアに平穏が戻りつつある中、レイドは執務室で報告書の山と格闘していた。
魔獣襲撃による被害の集計。防衛結界の稼働記録。住民の負傷者リスト。幸いにも死者はゼロだったが、やるべきことは山積みだった。
「団長、また寝てないだろう」
ガルムが扉を開け、湯気の立つカップを置いた。
「ああ、すまない。もう少しで——」
「飲め。話はそれからだ」
有無を言わさぬ口調に、レイドは苦笑して従った。ハーブティーの温かさが、張り詰めていた肩の力を抜いてくれる。
「報告がある」ガルムが腕を組んだ。「ファングランドから、連絡が来た」
「獣人連合から?」
「俺のかつての戦友からだ。どうやら——俺がここで人間の都市を守ったことが、本国で議論になっているらしい」
ガルムの表情は読みにくい。だが、その声にわずかな揺れがあった。
「『獣人が人間のために戦うとは何事か』という連中と、『種族の壁を超えた好例だ』という連中で、真っ二つだそうだ」
「ガルム、お前は——」
「俺は気にしていない」
即答だった。虎族の戦士は、静かだが揺るぎない目でレイドを見た。
「俺が守ったのは人間の都市じゃない。俺の家族が暮らす場所だ。それだけだ」
レイドは黙って頷いた。それ以上の言葉は、この男には不要だろう。
——だが、ファングランドの内部で議論が起きているという事実は、記憶に留めておく必要がある。
扉がノックされ、リリアーナが入ってきた。いつもの快活さに加えて、どこか興奮を抑えきれない様子が見える。
「レイド様、大変ですわ。いえ、大変というか——素晴らしいというか」
「落ち着いてくれ、リリアーナ」
「落ち着いてなどいられませんの!」
赤毛の令嬢は、手にした羊皮紙を広げた。
「各地に送った使者から、続々と返信が届いておりますわ。まずドゥルガン王国。商人ギルドが即座に使節団の派遣を決定。交易拡大の好機と見ているようですの」
「さすがドワーフだ。商機を嗅ぎ取るのが早いな」
「それだけではありませんわ」リリアーナの目が鋭くなった。「シルヴァリアからも反応がございました。ただし——こちらは少々、複雑ですの」
「複雑?」
「古代アルカディアの技術復活に、ハーフエルフの薬師が関わっているという情報が、彼らの耳に入ったようですわ」
レイドの手が止まった。フィーネのことだ。
「シルヴァリアはフィーネに注目している、ということか」
「はい。今のところ公式な声明はありませんが、非公式の接触があるかもしれません。フィーネさんには——」
「ああ。俺から話しておく」
レイドは立ち上がった。フィーネの過去——人間とエルフの双方から迫害された記憶は、まだ癒えきっていないはずだ。エルフの国が彼女に関心を持つという事実は、良い知らせにも悪い知らせにもなりうる。
同じ頃、王都クレスティア。
王城の謁見の間は、重苦しい沈黙に包まれていた。
「——以上が、辺境の反乱勢力に関する報告にございます」
ヴァルターは国王の前に立ち、整然と報告を終えた。その言葉選びは巧妙だった。「都市建設」ではなく「反乱拠点の構築」。「防衛結界の起動」ではなく「古代兵器の復活」。事実を歪めることなく、しかし印象を操作する——それがこの男の得意とするところだった。
「正規軍二個師団の派遣許可を願いたい。古代兵器が完全に稼働する前に、制圧すべきであるな」
国王は玉座の上で、長い沈黙を保った。白髪交じりの顎髭を撫でながら、重い口を開く。
「ヴァルターよ。辺境の動きは余も承知している」
「であれば——」
「だが、今この瞬間に軍を動かすことは許可できぬ」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「各国が辺境に注目しておる。ドゥルガンは使節を送り、ファングランドは議論を始めた。シルヴァリアすら動きを見せておる。この状況で軍事行動を取れば——我が国が侵略者と見なされかねん」
「しかし陛下、あの男は——」
「宰相よ」国王の声に、かすかな鋼が混じった。「余が判断する」
ヴァルターは一礼して退出した。
廊下を歩く足音が、苛立ちを刻んでいた。
「——小賢しい」
低く呟く。国王が慎重になるのは想定内だった。だが、時間をかければかけるほど、あの男の影響力は増していく。
別の手を打つ必要がある。軍でなければ、何を使う——。
ヴァルターの思考が冷たく回転し始めた。
翌朝、ノヴァ・アルカディア。
レイドが結界の点検から戻ると、フィーネが執務室の前で待っていた。
「レイドさん、お手紙が届いていますよ」
「手紙?」
「王都からです。差出人は——宮廷魔術師団、と」
レイドの足が止まった。
封を切ると、見覚えのある筆跡が目に飛び込んできた。かつての後輩、エリク・ヴェルナーのものだ。
『レイド先輩。ご無沙汰しております。辺境での先輩のご活躍、こちらにも届いております。信じられないような話ばかりですが——先輩らしいとも思います。お伝えしたいことがあります。王都でのあなたの評判が、変わり始めています。「あの追放は間違いだったのでは」と口にする者が、少しずつ増えているのです。もちろん、宰相閣下の前では誰も言えませんが。どうかお気をつけて。そして——応援しています。いつか必ず、また』
「……エリクか」
レイドは手紙を折り畳み、胸ポケットに仕舞った。思わず、小さく笑みがこぼれた。
「いい知らせですか?」フィーネが首を傾げた。
「ああ。王都にも、まだまともな奴がいたってことだ」
フィーネは何も聞かなかった。ただ、穏やかに微笑んだ。
その静かな時間を破ったのは、城壁からの報告だった。
「レイド様! 南門の方角に——大規模な隊列が接近中です!」
レイドとフィーネが城壁に駆け上がると、ガルムとリリアーナがすでにそこにいた。ミーシャも空中に浮かんで、遠方を見つめている。
「あれは……」リリアーナが目を凝らした。
砂塵の中から姿を現したのは、重厚な鎧をまとった騎馬隊だった。ずんぐりとした体躯、長い顎髭、磨き抜かれた鋼の甲冑——ドワーフだ。
隊列の中央に、豪奢な幌馬車が一台。その側面には、ドゥルガン王国の紋章——交差するハンマーと歯車が刻まれていた。
「ドワーフの重装騎馬隊ですわ……!」リリアーナの声が震えた。「正式な外交使節団の編成ですの!」
「早いな」ガルムが唸った。「まだ使者を送って数日だぞ」
「きっと、こちらの使者が着く前から準備していたのでしょう」リリアーナが早口で分析した。「魔獣襲撃の勝利を別ルートで知り、先手を打ってきた——さすがドワーフの商人ギルドですわ」
幌馬車から降り立ったのは、白い髭を三つ編みにした壮年のドワーフだった。儀礼用の外套を纏い、堂々とした足取りで城門に近づく。
レイドは城壁から降り、正門で使節を迎えた。
ドワーフの外交官は、レイドの顔を見上げ——深く一礼した。
「ノヴァ・アルカディアの長、レイド・アシュフォード殿とお見受けする。ドゥルガン王国外交官、ボルド・アイゼンハルトと申す」
そして、一拍の間を置いて、明瞭な声で告げた。
「貴殿の都市と、我がドゥルガン王国との間に——正式な同盟を結びたい」
風が、荒野を吹き抜けた。
レイドの背後では、リリアーナが拳を握りしめている。ガルムの目が鋭く光っている。フィーネが、そっと胸に手を当てている。
交易相手から、同盟国へ。
その一言が意味する重みを、この場にいる全員が理解していた。
辺境の小さな都市が、大陸の政治地図を書き換え始めようとしている。




