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都市の名前

 魔獣撃退から二日が経った。


 ブランフェルトの空は、まるであの戦いを忘れたかのように澄んでいた。だが大地には爪痕が残っている。外壁の東側には亀裂が走り、防壁の魔術陣はいくつかが焼き切れたまま黒く焦げていた。


 それでも、都市は動いていた。


「……東区画の修復、午前中に完了。南門の補強は昼過ぎに終わる見込みだ」


 ガルムの声が、医務室のベッドから響いた。上半身に巻かれた包帯の隙間から、虎の毛皮に刻まれた新しい傷跡が覗いている。右腕は吊られたままだったが、左手で広げた防衛配置図には、すでに新たな哨戒ルートが赤く書き込まれていた。


「ガルムさん、安静にって言ったでしょう!」


 フィーネが医務室の扉を開けて入ってきた。その手には薬草の束を抱えている。碧い瞳に怒りの色を浮かべているが、よく見ればその目の下には隈が刻まれていた。


「俺は寝ていても頭は動く。問題ない」


「問題大ありです! 傷口が開いたらどうするんですか!」


「……お前こそ、二日まともに寝てないだろう」


 ガルムの指摘に、フィーネは言葉を詰まらせた。魔獣との戦いの後、負傷者の治療に走り回り、薬の調合に没頭し、住民の不安を聞いて回り——気がつけば四十八時間が経過していた。


「私は大丈夫です。まだやることが——」


 その瞬間、フィーネの膝が折れた。


 薬草の束が宙に散る。床に崩れ落ちる寸前、複数の手が彼女を支えた。


「先生!」


「フィーネ先生、もう休んでください!」


 駆け寄ったのは、三人の住民の女性たちだった。獣人の若い母親、人間の元農婦、そしてハーフエルフの少女。フィーネがこの数ヶ月で一から育てた看護チームの面々だ。


「今度は私たちが先生を守る番です」


 獣人の母親——タニアが、フィーネの肩をしっかりと抱きながら言った。


「軽症の処置と薬の調合は、もう私たちでできます。先生が倒れたら、この都市の医療が止まるんですよ?」


「でも……」


「フィーネ先生が教えてくれたんじゃないですか」


 ハーフエルフの少女が、真っ直ぐな目で言った。


「『一人で抱え込むな。仲間を頼れ』って」


 フィーネは目を見開き、そしてゆっくりと微笑んだ。長い耳がわずかに垂れる。それは彼女が安心した時の癖だった。


「……ずるいですね、自分の言葉で返されるなんて」


 タニアたちに支えられながら、フィーネは隣のベッドに横たえられた。ガルムが無言で毛布を片手で引き寄せ、フィーネの方へ放り投げた。


「団長には俺から伝えておく。寝ろ」


「……はい」


 フィーネが目を閉じると、数秒で寝息が聞こえ始めた。ガルムは小さく鼻を鳴らし、再び防衛配置図に視線を落とした。



  ◇



 同じ頃、レイドは都市の中央広場に立っていた。


 目の前には、地面に描かれた巨大な魔術陣。自動迎撃結界の制御核だ。先の戦いで全力稼働した結界は、今なお淡い光を放ち続けている。


「……消費マナ量、毎時二百四十。このまま全力稼働を続ければ、コア・クリスタルの蓄積マナは三ヶ月で枯渇する」


 レイドは研究ノートにペンを走らせながら呟いた。万象構築魔術の本領は、こうした「仕組みを設計する」作業にこそある。


「つまりですね、ご主人様。平時は出力を十分の一に落として、脅威を感知した瞬間だけフル展開すればいいのです!」


 ミーシャが魔術陣の上を飛び回りながら、虹色の瞳を輝かせた。


「ああ、その通りだ。スリープモードを組み込む」


 レイドの指先が魔術陣の一角に触れた。万象構築魔術の光が走り、結界の術式が書き換えられていく。複雑な条件分岐——脅威の規模に応じて出力を段階的に引き上げるロジック。平時は最低限の探知網だけを維持し、起動コマンド一つで即座にフル展開可能な設計。


「これで有事には一秒以内に全力展開できる。平時のマナ消費は毎時二十以下だ」


「さすがご主人様なのです! 古代アルカディアの技術者たちも同じ発想でしたけど、ここまでスマートな実装は見たことないですよぅ」


「褒めすぎだ。それと、ご主人様はやめろ」


「えー」


 ミーシャが頬を膨らませたが、レイドはすでに次の術式に集中していた。



  ◇



「さて、問題はこの勝利をどう使うか、ですわね」


 リリアーナは執務室で羽ペンを走らせていた。机の上には三通の書簡の下書きが並んでいる。ドワーフ王国、獣人連合、エルフ国家——レイドが宣言した三カ国同時外交の準備だ。


 だが彼女の頭は、もう一歩先を考えていた。


「魔獣三千体を退けた辺境都市。この情報は、遅かれ早かれ大陸中に広まりますわ。問題は、私たちが『どういう存在として』認知されるか」


 無名の辺境集落か。それとも、大陸の新たな勢力か。


 第一印象が、今後の外交の全てを決める。


「そもそも——」


 リリアーナはふと筆を止めた。


「この都市、正式な名前がありませんわよね?」


 書簡の宛先に書くべき都市名がない。「ブランフェルトの辺境都市」では、交渉の場で舐められる。名前は、アイデンティティだ。


 リリアーナは椅子から立ち上がり、レイドの元へ向かった。



  ◇



「命名?」


「ええ。都市の正式名称ですわ」


 中央広場で結界の調整を終えたレイドに、リリアーナは提案した。


「三カ国への書簡に、無名の集落からの手紙では格好がつきませんでしょう? それに、住民たちにとっても——自分たちの街に名前があるということは、ここが本当の故郷になるということですわ」


 レイドは研究ノートを閉じ、少し考え込んだ。


「……確かにそうだな。だが、俺が勝手に決めるものじゃないだろう」


「では住民投票ですわね。この都市らしいやり方で」


 翌日、広場に住民が集まった。


 候補はいくつも出た。「フロンティア」「ニューホープ」「レイドシティ」——最後の案にはレイドが全力で首を横に振った。


 最終的に票を集めたのは、ドワーフの鍛冶師が提案した名だった。


「ノヴァ・アルカディア」


 新しきアルカディア。この地の底に眠る古代文明の名を受け継ぎ、しかし「新しい」という言葉を冠する。過去の遺産を継承しつつ、未来を切り拓く意志の表明。


 レイドの万象構築魔術が古代アルカディアの継承であること。この都市が古代遺跡の上に築かれていること。そして何より、かつての文明が果たせなかった多種族の共存を、この場所で実現しようとしていること。


 全てが、その名前に込められていた。


「大げさだな」


 レイドは苦笑した。だが広場を見渡せば、獣人も人間もエルフもドワーフも——全員が同じ誇りを瞳に宿していた。追放された者、差別された者、居場所を失った者たちが、ようやく手にした自分たちの街。


 その街に、名前がついた。


「……ノヴァ・アルカディア、か」


 レイドは静かに繰り返した。頷く。


「いい名だ」


 歓声が、荒野に響き渡った。



  ◇



 その歓声が遠い王都に届くことはない。


 だが、情報は届く。


「——申し上げます」


 王都クレスティアの宰相執務室。薄暗い燭台の光の中で、密偵が跪いていた。


「辺境都市の状況、確認が取れました」


 ヴァルターは書類から目を上げなかった。羽ペンが紙の上を滑る音だけが、室内に響く。


「申せ」


「魔獣三千体……全滅。工作員は全員が捕縛、あるいは離反。辺境都市は——」


 密偵が唾を飲んだ。


「——無傷です」


 羽ペンが止まった。


 静寂が、重く垂れ込めた。


 ヴァルターは報告書を手に取り、一読した。そして——握り潰した。


「あの男、古代兵器まで掘り起こしたか」


 くしゃくしゃになった報告書が床に落ちる。ヴァルターは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。その目には、怒りではなく、冷え切った計算があった。


「よかろう。小細工は終わりだ」


 立ち上がる。窓の外には、王都の夜景が広がっていた。


「ならば次は——本気で潰す」


 その言葉が意味するものを、まだ誰も知らない。


 辺境に生まれた新しき都市、ノヴァ・アルカディア。


 その名が大陸に響き渡る時、それは希望の鐘となるか。


 あるいは——嵐を呼ぶ雷鳴となるか。

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