鋼の咆哮、命の代償
南の闘が、崩れた。
第二防衛線を突破した魔獣の群れが、黒い奔流となって市街地へと押し寄せてくる。地を這う四足の下級魔獣、空を覆う翼竜種、そしてその中心に聳える巨躯——指揮官級の大型魔獣が、赤黒い双眸で都市の門を睨んでいた。
「最終防衛線、全隊配置完了!」
ガルムの声が戦場を貫く。虎族の戦士としての咆哮は、味方を奮い立たせ、敵を怯ませる力を持つ。
「獣人近接部隊、前衛。ドワーフ重装歩兵、門の左右に展開。エルフ狙撃隊、城壁上。人間魔術師団、後方支援。——聞こえたか!」
四つの種族が、一斉に応えた。
怒号。雄叫び。詠唱。弓弦の軋み。
かつてこの大陸で、これほど多くの種族が肩を並べて戦ったことがあっただろうか。獣人が前に立ち、ドワーフが盾を構え、エルフが矢を番え、人間が魔術式を展開する。誰一人として、隣に立つ者の種族を気にしてはいなかった。
ここはアルカディア・ノヴァ。種族の壁を超えた都市。
その理想を、今この瞬間、彼らは血と鋼で証明しようとしている。
「来るぞ!」
ガルムが大剣を構えた瞬間、魔獣の第一陣が防衛線に激突した。
◇
「負傷者、こっちに運んで! 止血は私がやります!」
フィーネは最終防衛線の直後——わずか五十歩の位置に医療拠点を移していた。前線との距離を極限まで縮めることで、負傷から治療、そして前線復帰までの時間を最小にする。危険な判断だった。だが今は、一秒が命を分ける。
「フィーネ殿、左腕をやられた!」
ドワーフの重装歩兵が担ぎ込まれてくる。鎧ごと引き裂かれた左腕から、鮮血が噴き出していた。
「大丈夫、すぐ塞ぎます——《癒しの蔦》」
緑色の光が傷口を覆い、植物の蔦のように絡みつきながら組織を修復していく。フィーネの額には大粒の汗が浮かんでいた。
もう三十人以上を治療した。魔力は底を突きかけている。
「……次の方、来てください」
声が震えた。手が震えた。だが、止まるわけにはいかない。
魔力が足りないなら——別のものを使えばいい。
フィーネは歯を食いしばり、自らの生命力を魔術回路に流し込んだ。体の奥底から、何か大切なものが削り取られていく感覚。視界の端が暗くなる。それでも、両手に宿る翠の光は消えなかった。
「フィーネさん、顔色が——」
「平気です。まだ、動けます」
嘘だった。足はとうに震えが止まらず、立っているだけで精一杯だった。だが前線で血を流している者たちに比べれば、こんなものは痛みのうちにも入らない。
◇
「東側の物資が切れます! 矢の予備を第三倉庫から回して!」
後方司令部で、リリアーナの声が飛ぶ。魔導通信器を三つ同時に操りながら、彼女は戦場全体の動線を管理していた。
「西門の負傷者搬送ルートが魔獣に塞がれてますわ。迂回路を——北側の路地を使いなさい。住民は既に避難済みよ」
戦闘の才能はない。剣も振れなければ、魔術も使えない。だが、リリアーナには全体を俯瞰する目と、瞬時に最適解を導き出す商人の頭脳があった。
「ガルム隊長、南西の陣形が薄くなっていますわ。ドワーフ第二小隊を回せますか?」
『了解だ。——おい、バルドの隊を南西に回せ!』
魔導通信越しのガルムの声は、既に幾つもの傷を負っていることを窺わせた。荒い呼吸。途切れがちな言葉。それでも指揮は揺るがない。
リリアーナは地図に新たな印を書き加えながら、唇を引き結んだ。この戦いは、あと何分持つのか。レイドからの連絡は、まだない。
◇
前線は地獄だった。
倒しても倒しても、魔獣は次から次へと押し寄せてくる。地面は血と泥に染まり、防壁の石材は爪痕で抉られ、空気は獣臭と焦げた魔力の匂いで満ちていた。
「左翼、押し込まれてる! エルフ隊、集中射撃で援護しろ!」
ガルムが叫ぶ。その直後、彼の横を巨大な影が掠めた。
地響き。
指揮官級の大型魔獣が、防衛線の中央を突き破ろうと突進してきたのだ。
体長は十メートルを超える。六本の脚と甲殻に覆われた体躯。額に埋め込まれた赤黒い結晶が、禍々しく脈動している。人為的に強化された証だ。
通常の兵士では、一撃で弾き飛ばされる。
「全員下がれ。——こいつは俺がやる」
ガルムが前に出た。大剣を両手で握り直し、虎族特有の琥珀色の瞳が鋭く細められる。
大型魔獣が咆哮した。空気が震え、周囲の兵士たちが思わず膝をつく。だがガルムは微動だにしない。
「傭兵時代に、お前よりでかいのを斬ったことがある」
低い呟き。次の瞬間、ガルムは地を蹴った。
獣人の脚力が生み出す爆発的な加速。大型魔獣の突進を紙一重でかわしながら、大剣を脇腹の甲殻の隙間に叩き込む。
硬い。刃が甲殻を割り切れず、火花が散る。
反撃。魔獣の前脚がガルムの胴体を薙ぐ。咄嗟に大剣で受けたが、衝撃で五メートル以上吹き飛ばされた。
「ガルム隊長!」
「来るな! 隊列を崩すな!」
血を吐きながら立ち上がる。肋骨が折れている。左腕の感覚がない。それでも、大剣を握る手は離さなかった。
獣人の戦士にとって、武器を手放すことは死を意味する。まだ死ぬわけにはいかない。
守るべき者がいる。この都市が。仲間が。——かつて迫害を受け、行き場を失った家族を受け入れてくれた、この場所が。
「悪いが——」
ガルムは残った右腕に全ての力を集中させた。獣人特有の闘気が刃に纏わりつき、赤銅色の光を帯びる。傭兵時代に磨き上げた最後の切り札。全身の筋繊維を限界以上に酷使する、文字通り捨て身の一撃。
「ここは——通さん」
大型魔獣が再び突進する。ガルムは避けなかった。真正面から受け止め、甲殻の隙間——喉元の一点に、渾身の斬撃を叩き込んだ。
鋼が肉を裂く音。結晶が砕ける音。
大型魔獣の巨体が、ゆっくりと傾いだ。赤黒い双眸の光が消え、山のような体躯が地面に崩れ落ちる。
歓声が上がった——が、ガルムの体もまた、崩れ落ちていた。
「隊長!」
「……副官、指揮を引き継げ」
血だまりの中でガルムが呟く。右腕はもう動かない。全身が傷だらけで、意識を保っているのが奇跡だった。
「ここからは、お前の戦いだ。——頼んだぞ」
副官の獣人が拳を胸に当て、一度だけ頷いた。そして振り返り、前線に向かって駆け出していく。
◇
「ガルムさん! 動かないで!」
フィーネが駆けつけたとき、ガルムの傷は致命的な域に達していた。肋骨の複数箇所が折れ、内臓への圧迫が見て取れる。出血も止まっていない。
「……すまんな、薬師殿。少し派手にやりすぎた」
「黙ってください。喋ると傷が開きます」
フィーネは震える手を傷口にかざした。もう魔力は残っていない。使えるのは、自分の生命力だけ。
視界が霞む。指先が冷たい。心臓が不規則に脈打っている。
それでも——。
「《癒しの蔦》——」
翠の光が、ガルムの傷を覆っていく。一つ、また一つと、裂けた肉が繋がり、砕けた骨が接合されていく。
代償に、フィーネの顔色は紙のように白くなっていった。
その時だった。
地鳴りが響いた。
南の闇の中から、新たな魔獣の群れが姿を現す。第二波。先ほどの本隊に匹敵する——いや、それ以上の規模。
「嘘でしょ……」
フィーネの呟きが震える。
防衛線の左翼が、新たな衝撃に耐えきれず崩れ始めた。兵士たちの悲鳴と、魔獣の咆哮が混ざり合う。
もう限界だった。兵力も、物資も、そしてフィーネ自身の体も。
——ピィィン。
魔導通信器が鳴った。
ノイズ混じりの声。だが、聞き間違えるはずがない。
『——聞こえるか。最後の端末、設置完了した。古代防衛機構、全系統接続。——起動するぞ』
レイドの声だった。




