六つの楔
地上に戻ったレイドを迎えたのは、夜明け前の冷たい風だった。
遺跡の入り口から這い出るようにして立ち上がる。膝が笑い、視界が明滅する。魔力の枯渇は肉体にも容赦なく響いていた。
「レイドさん!」
フィーネが駆け寄り、その体を支えた。手には琥珀色の小瓶が握られている。
「これ、飲んでください。ルミナス・ヘルブの濃縮液です」
ルミナス・ヘルブ——フィーネが促成栽培に成功した希少薬草だ。本来なら三年かかる成長を植物魔法で三週間に縮めたもので、マナの親和性が極めて高い。
レイドは一息で飲み干した。喉を焼くような刺激の直後、枯れ果てたはずの魔力回路に温かい流れが戻ってくる。
「……すごいな、これは。枯渇寸前の回路が動き出した」
「完全回復じゃないですよ。でも、六カ所分くらいはもつはずです」
フィーネの碧い瞳に、不安と決意が混じっていた。レイドは頷き、仲間たちを見渡した。
ガルムが精鋭部隊を率いて待機している。リリアーナは伝令役の兵士に指示を飛ばし終えたところだった。ミーシャはレイドの肩に浮かび、虹色の瞳を地図に落としている。
「避難は完了ですわ」リリアーナが報告した。「非戦闘員は全員、第三防衛線の内側に収容しましたの。食料と水の備蓄も三日分は確保済みです」
「さすがだ、リリアーナ」
「褒めるのは全部終わってからにしてくださいまし」
ミーシャが空中に六つの光点を投影した。都市の東西南北に四カ所、地下遺跡内に二カ所。それが制御端末の設置ポイントだ。
「効率を考えると、地下二カ所を先に済ませるのが最適なのです。地上の四カ所は東→北→西→南の順がマナ流の方向と合致しますよぅ」
「了解した。ガルム、各ポイントに護衛を」
「もう配置済みだ」
ガルムの返答は短く、そして確実だった。
◇
最初の設置ポイントは地下遺跡の第二層。コア・クリスタルに最も近い場所だ。
レイドは研究ノートを広げ、万象構築魔術を起動した。空中に蒼白い魔術式が展開される。幾何学的な紋様が回転し、重なり、一つの構造体を形成していく。
「制御端末ってのは、要するに何だ」ガルムが護衛の間に尋ねた。
「コア・クリスタルの出力を地上に中継するアンテナだ。六つ揃えば、古代の自動迎撃結界が都市全域を覆う」
「一つでも欠ければ?」
「穴が開く。そこから魔獣が雪崩れ込む」
ガルムは無言で頷いた。言葉は不要だった。一つも失敗は許されない。
三十分かけて最初の端末が完成した。透明な結晶柱が青い光を放ち、地下にかすかな振動が走る。コア・クリスタルとの接続を示す共鳴だ。
「一つ目、起動確認。残り五つなのです」
ミーシャの声に安堵はなかった。時間との戦いは始まったばかりだ。
◇
地下二カ所を片付け、地上に出た。東の設置ポイントは城壁の見張り塔の基部。ここは比較的安全で、作業は順調に進んだ。三つ目の端末が蒼光を放ったとき、レイドの額には大粒の汗が浮かんでいた。
「次は北だ」
北の設置ポイントに向かう途中、ガルムが足を止めた。虎の耳がぴくりと動く。
「……匂いがする。火薬だ」
その言葉が終わるより早く、北の設置ポイントから爆発音が響いた——いや、響きかけた。
轟音は途中で途切れ、代わりに怒号と打撃音が聞こえてくる。
駆けつけたレイドたちが見たのは、灰色の外套を着た工作員を地面に組み伏せている一人の兵士だった。右腕が焼けただれ、鎧の胸当てが砕けている。それでも工作員の首筋に短剣を突きつけたまま、微動だにしない。
「……ボルス」
ガルムの声が、珍しく震えた。
ボルス。ガルムの古参部下であり、数日前から所在不明になっていた男だ。裏切りを疑う声もあった。だが真実は違った。
「団長……申し訳ありません。独断で動きました」
ボルスは顔を上げた。血と煤にまみれた顔で、しかし瞳は澄んでいる。
「こいつらの動きが怪しかったんで……追跡してました。爆弾は——五つ仕掛けてやがった。四つは俺が処理しましたが、最後の一つが」
彼の焼けた右腕が、その代償を物語っていた。最後の爆弾を素手で止めたのだ。
「馬鹿が」ガルムは低く言った。だがその声には、怒りではなく深い安堵が滲んでいる。「報告くらいしろ」
「報告したら、団長は俺を止めたでしょう」
「……当たり前だ」
ガルムはボルスの肩を掴んだ。それ以上の言葉は交わされなかった。獣人の戦士にとって、行動こそが最大の言語だった。
フィーネがすぐにボルスの治療に取りかかる。レイドは北の端末設置に集中した。四つ目。残り二つ。
◇
西の設置ポイントで五つ目の端末を構築している最中、レイドの手が止まった。
魔術式が揺らぐ。指先から光が消えかける。
「——限界か」
フィーネの薬で回復した分の魔力を、四つの端末でほぼ使い切った。体の奥に残っているのは、生命維持に必要な最低限のマナだけだ。これ以上絞り出せば、命に関わる。
「レイドさん、もう一本あります。でも——」
「でも?」
「これ以上は心臓に負担がかかります。最悪、魔力回路が焼き切れる」
レイドは薬瓶を受け取った。だが蓋を開ける前に、背後から声が聞こえた。
「術師殿!」
振り返ると、ドワーフの鍛冶師ダリンが何かを抱えて走ってきた。金属と水晶を組み合わせた、拳大の装置だ。
「これを使ってくれ! マナ増幅装置だ。即興だから精度は荒いが——住民の微量なマナを集めて、一点に注げる」
「そんなものをいつの間に……」
「さっき作った」ダリンは胸を張った。「ドワーフの鍛冶を舐めるなよ。素材はそこらに転がっとったからな」
装置の周囲に、住民たちが集まり始めていた。人間、獣人、エルフの混血——種族はばらばらだ。一人一人のマナは微々たるものだが、数十人、数百人と増えていく。
ダリンが装置を起動した。住民たちの手から淡い光が立ち昇り、増幅装置に吸い込まれ、一筋の奔流となってレイドの掌に注がれる。
「——温かいな」
レイドは目を瞠った。これは単なるマナの供給ではない。そこには意思がある。この都市を守りたいという、何百もの想いが凝縮されている。
まるで都市そのものが、一つの巨大な魔術装置として脈動しているかのようだった。
「ミーシャ、これは——」
「すごいのです」ミーシャの虹色の瞳が大きく見開かれている。「古代アルカディアの記録にも、こんな現象は……個々のマナが共鳴して増幅している。理論上はあり得るはずなのに、実例は……」
五つ目の端末が完成した。残り一つ。
レイドが最後の設置ポイント——南の城壁——に向かおうとした、その時だった。
南の空が、赤黒く染まった。
地平線を覆う黒い波。数え切れない魔獣の群れが、予想より遥かに早く到達していた。轟くような咆哮が大気を震わせ、第一防衛線の結界が悲鳴を上げる。
「第一防衛線、突破されました!」伝令の兵士が叫んだ。「魔獣本隊、推定三千以上! 先遣隊の三倍の規模です!」
ガルムが剣を抜いた。その刃が、赤黒い空を映して鈍く光る。
「全軍に告ぐ——最終防衛線に集結。ここが最後の砦だ」
虎族の戦士の咆哮が、都市に響き渡った。
残り一つ。たった一つの端末が、まだ設置されていない。
レイドは南の空を見据えた。赤黒い嵐の向こうに、数千の殺意がうごめいている。
「——時間を稼いでくれ、ガルム」
「何分だ」
「三十分。それで終わらせる」
ガルムは答えなかった。ただ一度だけ振り返り、不敵に笑った。
「三十分か。——短いな」
鋼と咆哮が南の闇に向かって突き進んでいく。その背中を見送る暇もなく、レイドは最後の設置ポイントへ走り出した。




