鉄の牙、銀の盾
レイドは瘴気の靄を切り裂くように駆け出した。
フィーネが背後で「待ってください!」と叫ぶ声が聞こえたが、足を止める選択肢はなかった。子供の泣き声が、確かにあの方角から聞こえている。
瘴気溜まりの中心に近づくにつれ、空気が重くなる。肌がぴりぴりと痺れるような感覚。だが、同時に別のものも感じ取っていた。
戦闘の気配だ。
誰かが——戦っている。
丘を越えた瞬間、その光景が目に飛び込んできた。
岩だらけの窪地に、四体の大型魔獣が蠢いていた。いずれも体長三メートルを超す瘴気蜥蜴——瘴気に適応して巨大化した爬虫類型の魔獣だ。硬い鱗に覆われた体を低く沈め、獲物を囲い込むように動いている。
その包囲の中心に、巨躯の男が立っていた。
虎の耳と尾。全身に刻まれた無数の傷跡。片手に大剣を握り、もう一方の腕で背後の何かを庇っている。
庇われていたのは、小さな女性と二人の幼子だった。女性は腕から血を流しながらも、必死に子供たちを抱きしめている。双子だろうか、同じ虎耳を持つ子供たちが、母親の胸に顔を埋めて泣いていた。
「——下がってろ、ナーシャ」
男が低く唸った。声には疲労の色が滲んでいたが、大剣を構える腕に揺らぎはない。
瘴気蜥蜴の一体が突進した。男は横に踏み込み、大剣の一閃で顎を打ち上げる。見事な体さばきだった。巨体を活かした力任せの一撃ではない。踏み込みの角度、体重の乗せ方、反撃への備え——全てが計算されている。
だが、残る三体が同時に動いた。
一体を弾いた直後の隙を、魔獣たちは見逃さなかった。左右から挟み込む動き。明らかに知性がある連携だ。
男の表情が歪んだ。庇うべき家族がいる以上、後ろには下がれない。
「面倒な——」
男が歯を食いしばった、その瞬間。
「——万象構築」
レイドが呟いた。
魔術式が展開される。地面に刻まれた不可視の方程式が、大地そのものに命令を下す。
轟音と共に、窪地の地形が変わった。
瘴気蜥蜴たちの足元から岩壁がせり上がり、四体を一体ずつ分断する。高さ三メートルの石の壁が、瞬時に魔獣たちの連携を断ち切った。
孤立した魔獣が壁に体当たりするが、びくともしない。岩盤の構造を最適化して耐久性を引き上げてある。しばらくは持つはずだ。
「今のうちに移動しよう」
レイドは窪地に降り、男たちの方へ歩み寄った。
男——獣人の戦士は、大剣を下ろさなかった。レイドを睨む金色の瞳には、感謝よりも警戒が色濃く浮かんでいる。
「……何者だ」
「通りすがりの魔術師だよ。見ての通り、こっちは丸腰に近い」
レイドは両手を軽く上げて見せた。敵意がないことを示すためだ。
だが獣人の戦士は表情を緩めない。その反応に、レイドは胸の奥が軋むのを感じた。この警戒は、一度や二度の裏切りで身につくものではない。
「……人間か」
「そうだな」
「俺たちが獣人だと分かっていて、助けたのか」
「ああ」
短い沈黙が流れた。岩壁の向こうで瘴気蜥蜴が怒りの咆哮を上げている。時間は、あまりない。
「ガルム」
背後から女性の声がした。ナーシャと呼ばれた女性が、痛みを堪えながら男の袖を引いている。
「この人たちは……大丈夫よ」
「根拠はあるのか」
「子供たちが泣き止んだわ」
言われて見れば、双子の子供たちは泣き止み、丘の上からこちらに駆け寄ってくるフィーネの姿をじっと見つめていた。
フィーネが息を切らせながら到着した。
「すみません、遅れました——あ、怪我をされてますね。見せてください」
ナーシャの腕の傷に目を留めたフィーネは、すぐに腰の鞄から薬草を取り出した。手際よく葉を揉み、傷口に当てる。淡い緑の光が傷を包んだ。
「痛みますか?」
「いえ……楽になってきました。ありがとうございます」
ナーシャが驚いたように目を瞠る。フィーネの耳を覆う髪が風で揺れ、僅かに長い耳が覗いた。
「あなた、もしかして——」
「ハーフエルフです」フィーネは微笑んだ。「お互い、色々ありますよね」
その言葉に、ナーシャの目に涙が滲んだ。
双子の一人がフィーネの膝に手を伸ばした。
「おねえちゃん、みみ、おんなじ?」
「似てるけど、ちょっと違うかな」
フィーネが屈んで子供と目線を合わせると、もう一人の子供も寄ってきて、競うようにフィーネの手を握った。
「……ミラ、ルカ。知らない人に迷惑をかけるな」
ガルムが低い声で子供たちを窘めたが、その声色から棘が抜けていた。
レイドはガルムに向き直った。
「改めて——俺はレイド・アシュフォード。元宮廷魔術師。今はただの放浪者だ」
「元宮廷魔術師だと?」ガルムの目が僅かに細まった。「追放されたのか」
「よく分かるな」
「宮廷にいた人間がこんな荒野にいる理由なんて、それくらいしかないだろう」
レイドは苦笑した。
「まあ、その通りだ。——それより」
レイドは真っ直ぐにガルムを見た。
「種族がどうとか、正直どうでもいい。それより君の戦い方を見ていたが、あの体さばきは見事だった。四体を同時に相手取りながら、常に家族との距離を一定に保っていただろう。退路の確保、各個撃破の優先順位——あれは独学じゃできない」
ガルムの表情が変わった。警戒でも敵意でもない。純粋な驚きだった。
「……傭兵団にいた。鉄爪団という」
「鉄爪団? 北部戦線で名を馳せた精鋭部隊じゃないか」
「知っているのか」
「宮廷にいた頃、戦術資料で読んだことがある。獣人と人間の混成部隊で、練度の高さは王国随一だと」
ガルムは一瞬だけ目を伏せた。
「昔の話だ。獣人排斥の流れで、俺たちは追い出された。人間の団員すら、庇えば自分も追われると知って黙った」
言葉の端に、深い疲労が滲んでいた。怒りではなく、諦めに近い感情。何度も期待し、何度も裏切られた者だけが持つ、乾いた声だった。
「それで荒野に?」
「行き場がなかった。ファングランドに戻る手もあったが——」ガルムはナーシャを見た。「ナーシャは人間だ。獣人連合で暮らせば、今度はナーシャが差別される」
レイドは黙って頷いた。言葉ではなく、理解を示すために。
フィーネがナーシャの治療を終え、立ち上がった。
「応急処置は済みました。でも、深い傷がもう一箇所ありますね。ちゃんとした薬を煎じないと」
「拠点はあるのか」とガルムが訊いた。
「これから作るところだ」レイドは荒野の西を指さした。「あの丘の先に、古代遺跡の入り口がある。まずはそこを調査して、足場を固めるつもりだ」
「遺跡? この荒野の地下にか」
「ああ。千年前のアルカディア文明の遺構だ。マナの湧出量は大陸随一——だからこそ、こんな荒野にも魔獣が集まる」
ガルムの目が鋭くなった。
「魔獣か。——最近、妙に数が増えている。この荒野に来て二週間になるが、日を追うごとに凶暴化している感じがする。以前はこの辺りまで出てこなかった種類の魔獣も見かけた」
「凶暴化?」レイドが眉を上げた。
「地中からマナが噴き出す場所が増えているんだ。それに引き寄せられるように、奥地の魔獣がこちらに流れてきている」
レイドは顎に手を当てた。マナの湧出パターンが変化しているとすれば、地下遺跡で何かが起きている可能性がある。調査の優先度を上げるべきかもしれない。
「貴重な情報だ、ありがとう」
「……礼を言われることじゃない。自分の身を守るために観察していただけだ」
岩壁の向こうで、魔獣の咆哮が遠ざかり始めた。封じ込めから逃れるのを諦め、別の方角へ去っていくようだ。
レイドは岩壁を解除した。大地が元の形に戻っていく。
「ガルム。もし行く宛がないなら、俺たちと来ないか」
ガルムは答えなかった。ただ、ナーシャと目を合わせた。
ナーシャが小さく頷いた。双子のミラとルカは、すでにフィーネの両手にぶら下がって笑っている。
「……一つ訊く」
「何だ?」
「俺たちが獣人だから、戦力として利用するつもりか」
レイドは首を傾げた。
「戦力として頼りにはしたい。だがそれは、君が獣人だからじゃない。さっきの戦いを見たからだ。——種族で人を測るほど、俺は器用じゃないよ」
ガルムは長い沈黙の後、初めて口元を緩めた。笑みというには硬い。だが、氷が一枚だけ剥がれたような変化だった。
「ガルム・ドラグハート。元鉄爪団の副団長だ。——しばらく、世話になる」
「ああ、よろしく」
レイドが手を差し出すと、ガルムは一瞬だけ逡巡してから、その手を握り返した。
日が傾き始めた荒野を、五人と二人の子供が歩き出す。フィーネが子供たちの相手をしながら先を行き、ナーシャがそれに続く。
ガルムがレイドの隣を歩きながら、ぽつりと言った。
「一つ、伝えておくことがある」
「何だ?」
「俺たちだけじゃない。この荒野の東に、もっと大勢——行き場を失った奴らが集まっている」
レイドは足を止めた。
「……どれくらいだ」
「百は下らない。獣人、ハーフエルフ、人間の流民——王国に居場所を失くした連中が、身を寄せ合って生きている。だが食料も水も限界が近い。このままじゃ、冬を越せるかも怪しい」
荒野を渡る風が、砂塵を巻き上げた。
レイドは西の空を見上げた。沈みゆく太陽が、荒野を深い橙に染めている。その光の中に、まだ見ぬ遺跡の影が浮かんでいた。
「——行こう」
レイドは静かに言った。
「まず遺跡を調べる。水と住処を確保できる見込みが立ったら、その人たちを迎えに行く」
ガルムが初めて、驚きとは違う目でレイドを見た。
「……本気か。百人だぞ」
「百人分の水路を引くのと、一人分を引くのと、魔術式の手間は大して変わらないんだ」
レイドは研究ノートを取り出し、歩きながら何かを書き始めた。
「規模の問題じゃない。設計の問題だ。——つまりこの地形のマナ流を利用すれば、浄水と灌漑を同時に……いや待て、まず地下のマナ湧出パターンを確認しないと——」
ガルムは、独り言を呟きながら歩く魔術師の背中を見つめた。
この男は、変わっている。獣人を見ても怯えない。百人の難民を聞いても怯まない。ただ純粋に——目の前の問題を、解くべき課題として捉えている。
それが信頼に値するかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも——ここにいる価値はある、とガルムは思った。




