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崩れゆく防壁と、それでも立つ者たち

 結界が悲鳴を上げていた。


 第一防衛線を突破した魔獣の群れが、弱体化した第二防衛線へ殺到する。蒼白い光の壁が激しく明滅し、亀裂が走るたびに瘴気を纏った獣たちが隙間から滑り込んでくる。


「左翼、三体突破! 槍衾で受け止めろ!」


 ガルムの咆哮が戦場に響き渡った。


 虎族の巨躯が前線に立ち、大剣を横薙ぎに振るう。変異した大狼の突進を正面から受け止め、そのまま叩き伏せた。返り血が顔にかかるのも構わず、次の獲物を見据える。


「結界の穴を塞げ! 予備の魔石を右翼の柱に叩き込め!」


 指揮と白兵を同時にこなす。本来ならば不可能な芸当だが、ガルムの眼は戦場全体を捉えていた。傭兵時代に百を超える戦場を生き延びた経験が、今この瞬間に活きている。


 獣人兵士たちが盾を構えて壁を作り、突破してきた魔獣を食い止める。その頭上を越えて、エルフの弓手たちが矢を放った。


「風よ、導け——」


 精密射撃。一射一殺。魔力を纏った矢が魔獣の急所を正確に貫く。


 だが、数が多すぎた。


「ガルム隊長、中央の結界柱が限界です!」


 兵士の報告に舌打ちする。


「分かっている。第三小隊を中央に回せ。左翼は第五小隊が——」


 その時、結界の一角が音を立てて砕けた。光の破片が散り、五体の魔獣が一斉に雪崩れ込む。


「くそっ!」


 ガルムが駆ける。一体目を斬り伏せ、二体目の牙を盾で受け、三体目を蹴り飛ばす。だが四体目の爪が、味方の兵士の肩を抉った。


「がっ——!」


 若い獣人の兵士が膝をつく。血が地面に広がった。


 犠牲者が出始めていた。



    *



「医療班、前進します!」


 フィーネの声は、震えてなどいなかった。


「フィーネ殿、前線の二百メートル後方まで出るのは危険すぎます!」


 医療班の副長が制止する。当然の判断だ。通常、野戦医療班は後方に構えるものだ。負傷者は担架で運ばれてくるのを待つ。


 だが、フィーネは首を横に振った。


「担架で後方に運ぶ間に、何人が失血で動けなくなると思いますか」


 碧い瞳に迷いはない。


「前線の近くで即座に治療すれば、軽傷者はすぐに復帰できます。兵力の損耗を最小限に抑えるには、これしかない」


「しかし——」


「私の植物魔法なら、治療しながら防壁も張れます。大丈夫、ちゃんと考えてますから」


 柔らかく、しかし有無を言わさぬ口調だった。


 フィーネは医療班を率いて前進した。前線から二百メートル。矢が飛び交い、魔獣の咆哮が空気を震わせる距離だ。


「『翠緑の繭』——」


 植物魔法が展開される。地面から蔦が伸び、医療班を包む半球状の防壁を形成した。その内側で、運び込まれる負傷兵を次々と治療していく。


「止血と縫合、同時にやりますよ。じっとしてて」


「す、すまねえ——」


「謝らなくていいです。はい、もう動けますよ。戻れますか?」


「あ、ああ。痛みがもう——」


「植物エキスの鎮痛効果です。二時間は持ちますから、無理はしないで」


 負傷から復帰までの時間が劇的に短縮された。後方に搬送すれば三十分かかるところが、五分で前線に戻れる。実質的な兵力が二割近く増えたのと同じ効果だった。


 ガルムが通信魔具越しに呟いた。


「……あの薬師、度胸があるな」



    *



 一方、リリアーナは戦場から離れた場所で、別の戦いを繰り広げていた。


「結界の弱体化——内部からの工作。管理権限を持つ者は七名。レイド様とミーシャを除けば五名ですわ」


 彼女の前には、結界管理の記録台帳が広げられている。


「結界の魔術式を書き換えるには、古代アルカディア式の制御構文を理解している必要がある。この都市の住民で、そんな専門知識を持つ人間は——」


 指が記録の一点で止まった。


「三週間前に受け入れた技術者、トマス・ヘルト。元王国結界技師の資格を持つ……ですの」


 すぐにガルムへ通信を飛ばした。


「ガルムさん、南区の宿舎棟に技術者トマス・ヘルトがいるはずですわ。拘束をお願いしますの」


「今は手が離せん。第七小隊を向かわせる」


「十分ですわ。ただし、抵抗する可能性があります。彼は元王国の結界技師——つまり、魔術の心得がある」


 第七小隊が宿舎に踏み込んだとき、トマスは既に荷物をまとめかけていた。


「何のつもりだ! 私は——」


「大人しくしてもらおうか」


 獣人兵士に取り囲まれ、トマスの顔が蒼白になる。逃走用の転移符を起動しようとしたが、兵士の一人が素早くその手を押さえた。


「王国の結界技師が、なぜこの都市にいるのかしら?」


 リリアーナが静かに問いかける。


「……ただの流れの技術者だ。迫害を逃れて——」


「嘘はおやめなさいな。あなたの経歴を確認しましたわ。半年前まで王都の結界管理局に所属。宰相直轄の特務部隊に配属された記録がある」


 トマスの目が泳いだ。それが全ての答えだった。



    *



「団長、工作員の一人を拘束した。結界の書き換えもこいつの仕業で間違いない」


 ガルムの報告が、地下遺跡で掘削を続けるレイドの耳に届いた。


「よくやってくれた、ガルム。結界の修復状況は?」


「応急処置で五割まで回復したが、本格的な修復は——」


「俺が直接やらないと駄目だな」


 分かっている。ミーシャの遠隔指示だけでは、書き換えられた古代魔術式の完全復元は不可能だ。レイド自身が結界柱に触れ、万象構築魔術で一から再構築する必要がある。


 だが、地下の掘削もあと少しだった。


「ミーシャ、古代防衛機構までの距離は?」


「推定あと三十メートルなのです。でもご主人様、地上の結界が——」


「分かっている」


 板挟みだった。地上に戻れば結界を完全修復できる。だが掘削を中断すれば、古代防衛機構の復元が遅れる。そして大群の本隊が到着するまでの猶予は、もう数時間しかない。


「……掘削を続ける。ミーシャ、結界の応急修復手順を地上のチームに伝えてくれ。俺が書いた簡易版の再構築式を使えば、七割までは戻せるはずだ」


「了解なのです。でも、七割では第三波に——」


「間に合わせる。古代防衛機構さえ起動できれば、結界の修復も一瞬で終わる」


 賭けだった。だが、レイドは信じていた。地上で戦う仲間たちの力を。



    *



 前線では、戦闘が膠着状態に入っていた。


 フィーネの前線医療が功を奏し、兵力の損耗は最小限に抑えられている。エルフの弓手と獣人の歩兵の連携も、回を重ねるごとに噛み合ってきた。


 だが、ガルムの目は一つの異変を捉えていた。


 古参の獣人兵士——ヴォルフが、前線を離脱していく。


 戦闘の混乱に紛れて、ではない。明らかに意図を持った動きだった。南東の方角へ、単独で駆けている。


「ヴォルフ……!」


 ガルムの拳が握り締められた。


 ヴォルフは入植初期からの仲間だ。信頼できる男だと、ガルムは思っていた。


 追うべきか。


 だが今、前線の指揮を離れれば——。


「ガルム隊長、右翼に新手です! 数は約三十!」


 兵士の悲鳴じみた報告。


 ガルムは奥歯を噛み締め、ヴォルフが消えた方角から目を逸らした。


「——全員、持ち場を守れ」


 大剣を構え直す。


「俺は、ここを動かん」


 信じると決めた。あの男には、あの男の理由があるはずだと。


 ヴォルフの影が夜闇に溶けていく。その先に何があるのか、今のガルムには知る術もなかった。


 第三波の咆哮が、遠くから近づいてくる。

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