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疑念の毒、信頼の盾

 報告を受けたとき、レイドは遺跡深層の制御室にいた。


 リリアーナの声は、通信魔具越しでも硬いと分かった。


「——最も信頼している人間の中に、内通者がいる。捕らえた工作員はそう言いました」


 沈黙が、数秒。


「……そうか」


 レイドは手元の研究ノートを閉じた。古代防衛機構の復元作業は佳境だった。だが、この報告は無視できない。


「そいつの言葉、信憑性はどう見る?」


「五分五分ですわ。ただ——」


 リリアーナは一度言葉を切った。


「事実かどうかより、この情報が流れること自体が武器になります。疑心暗鬼は、剣より鋭く共同体を切り裂きますから」


 レイドは目を閉じた。三百人を超える住民。人間、獣人、エルフ、ドワーフ。種族の壁を越えて築き上げた街。その土台に、亀裂を入れようとしている。


「主要メンバーには共有する。だが、住民には伏せろ」


「承知しましたわ」


 通信が切れた後も、レイドはしばらく動かなかった。


 ——最も信頼している人間。


 その言葉が、棘のように胸に刺さったままだった。



        ◆



 噂は、水のように広がった。


 主要メンバーだけに留めたはずの情報が、翌朝には防衛隊の末端にまで届いていた。誰が漏らしたのかは分からない。だが結果として、都市の空気は一変した。


「おい、お前ら。昨日の夜、第三区画の倉庫をうろついてたのは誰だ」


 防壁の補修現場で、獣人の兵士が人間の住民に詰め寄っていた。虎族の若い兵士だ。ガルムの部下の中でも腕の立つ男で、普段は温厚だった。


「た、ただ荷物を取りに——」


「夜中にか? 怪しいだろうが」


「やめろ、ラグナ」


 低い声が割って入った。ガルムだ。


 巨躯を二人の間に滑り込ませ、ラグナを見下ろす。


「根拠のない追及は、敵の思う壺だ」


「しかし団長! 内通者がいるんですよ。最近合流した連中の中に——」


「だからどうした」


 ガルムの声に温度はなかった。


「疑いだけで人を裁くなら、俺たちは王国の差別主義者と何も変わらん」


 ラグナが唇を噛んで黙った。周囲の兵士たちも、気まずそうに視線を逸らす。


 ガルムは背を向けた。だが、その表情は決して穏やかではなかった。


 ——偉そうなことを言ったが。


 古参の部下、ドルクの顔が脳裏をよぎる。三日前から不審な行動が目につく。夜間の単独外出。通信魔具の使用記録の不自然な空白。任務報告の些細な齟齬。


 どれも、気にしなければ見過ごす程度のことだ。


 だが、ガルムは戦場で生きてきた男だった。些細な違和感を無視した者から死んでいく——それが傭兵の鉄則だ。


 疑うなと部下に言った舌の根も乾かぬうちに、自分は密かに監視を続けている。その矛盾に、ガルムは苦い笑みを浮かべた。



        ◆



 医療拠点は、都市で唯一、空気が変わらない場所だった。


「はい、もう大丈夫ですよ。明日にはかさぶたも取れますからね」


 フィーネは人間の少年の膝小僧に薬草の湿布を貼りながら、柔らかく微笑んだ。少年は最近辺境に流れ着いた難民の子で、防壁の資材に躓いて転んだらしい。


「ありがとう、フィーネせんせい!」


 少年が駆けていく。その背中を、隣のベッドから獣人の老兵が眺めていた。


「元気なもんだな、ガキってのは」


「ヴォルフさんも負けてられませんよ。傷が塞がるまであと二日、安静にしてくださいね」


「へいへい」


 老兵は苦笑して寝返りを打った。その背中の包帯を、エルフの若い薬師が手際よく取り替える。フィーネが育てた弟子の一人だった。


 医療拠点の中では、種族は意味を持たなかった。


 痛みに人間も獣人もない。病に貴賤はない。フィーネがここに作り上げたのは、そういう場所だった。


 ——でも。


 フィーネは薬草を整理しながら、窓の外に目をやった。防壁の向こうで、獣人の兵士と人間の住民が言い争う声が微かに聞こえる。


 胸が痛んだ。


 半エルフとして、人間からもエルフからも拒絶された過去がある。「お前はどちらでもない」と言われ続けた日々。だからこそ、レイドが作ろうとしている街が——種族を問わず受け入れるこの場所が、どれほど尊いか知っている。


「フィーネ先生」


 声をかけてきたのは、獣人の母親だった。腕の中に、人間の幼子を抱いている。


「この子、さっき一人で泣いてて。お母さんが防壁の補修に駆り出されてるみたいで」


「まあ——ありがとうございます。預かりますね」


 フィーネが幼子を受け取ると、獣人の母親は照れくさそうに耳を伏せた。


「別に、大したことじゃないよ。泣いてる子を放っておけないだけさ」


 その光景を、フィーネは目に焼き付けた。


 これが、この街の本当の姿だ。疑念の毒がどれほど撒かれようと、ここで暮らす人々の根っこは、そう簡単には腐らない。



        ◆



 夕刻、レイドの執務室に主要メンバーが集まった。


 重苦しい空気の中、最初に口を開いたのはリリアーナだった。


「状況を整理しますわ」


 彼女は机上に広げた地図を指で叩いた。


「内通者の存在は、事実である可能性があります。ですが、捕らえた工作員があの場面で自ら情報を明かした——これは不自然ですわ」


「どういうことだ?」レイドが問う。


「本当に内通者がいるなら、その存在は最大の秘密のはず。それをわざわざ暴露する理由は一つ。わたくしたちの結束を内側から崩すため——つまり、疑心暗鬼こそが敵の本命ですわ」


「同感だ」


 ガルムが短く言った。


「現に、今日だけで防衛隊内で三件の衝突未遂があった。このまま放置すれば、魔獣の大群が来る前に俺たちは自壊する」


 レイドは腕を組んだ。


「……つまり、内通者がいてもいなくても、やるべきことは変わらないってことだな」


「その通りですわ」リリアーナが頷く。「防衛に集中する。内通者の調査は最小限の人員で、秘密裏に行う。住民の前では一切の動揺を見せない」


「ミーシャはどう思う?」


 レイドが問うと、人工精霊は小首を傾げた。


「ミーシャの監視網は都市全域をカバーしているのです。不審な魔力反応があれば検知できますけど、人の心までは読めないのですよぅ」


「それでいい。魔力面の監視を強化してくれ」


「了解なのです!」


 方針は決まった。疑念に飲まれるのではなく、やるべきことをやる。それが、レイドたちの出した答えだった。


 会議が終わり、メンバーが散っていく。ガルムだけが残った。


「団長」


「何だ」


「一つだけ報告がある。俺の部下の一人——ドルクの動きが、ここ数日おかしい」


 レイドの目が鋭くなった。


「確証は?」


「ない。だから今は監視に留めている。ただ、知っておいてほしかった」


「……分かった。引き続き頼む。だが、くれぐれも——」


「分かっている。確証なく動くつもりはない」


 ガルムは静かに退室した。



        ◆



 その夜、レイドは防壁の上に立っていた。


 荒野の闇を見つめながら、研究ノートを胸に抱く。


 足音がして、フィーネが隣に立った。


「眠れないんですか?」


「ああ。少し考え事をな」


「……内通者のこと?」


 レイドは苦笑した。


「それもある。だが、それ以上に——この街を守れるかどうかを考えてた」


「守れますよ」


 フィーネの声は、迷いなく響いた。


「今日、医療拠点で見たんです。獣人のお母さんが、人間の子供を抱き上げて連れてきてくれて。エルフの薬師が、獣人の老兵の傷を手当てして。誰に言われたわけでもなく、自然に」


 レイドは黙って聞いていた。


「レイドさんが作ったこの街の理念は、もうあなただけのものじゃないです。住民一人一人の中に根づいてる。だから——疑念の毒くらいじゃ、枯れません」


「——ありがとう、フィーネ」


 レイドは静かに笑った。それは、ここ数日で初めて見せた穏やかな表情だった。


 だが、その穏やかさは長くは続かなかった。


 荒野の闇の中で、地面が震えた。


 微かに、だが確実に。


「——来たか」


 レイドの表情が一瞬で切り替わった。


 防壁の監視塔から、鋭い警報の角笛が鳴り響く。


「第二波確認! 数——五百以上! 先頭に大型個体!」


 ガルムが猛然と駆けつけてきた。


「団長! 規模が違う。前回の倍以上だ。しかも先頭の奴はデカい——あれは指揮官級だ」


 レイドは目を凝らした。暗闇の中、蠢く無数の影。その中央に、他を圧する巨大な輪郭が見えた。赤い双眸が闇を裂いて光っている。


「全防衛隊、第一防衛線に展開! ミーシャ、結界の出力を最大に——」


「ご主人様!」


 ミーシャの声が、悲鳴に近い鋭さで通信魔具から響いた。


「大変なのです! 第二防衛線の結界——魔術式の一部が書き換えられているのです! 出力が三割まで低下しています!」


 レイドの血が凍った。


「書き換えられた? 外部からのハッキングか?」


「違うのです。内側から——この都市の結界管理権限を持つ誰かが、直接触ったのです!」


 結界管理権限を持つ者は、数えるほどしかいない。


 レイドと、ミーシャと、そして——。


 五百を超える魔獣の群れが、第一防衛線に激突した。大地が悲鳴を上げる。


 そしてレイドは知った。敵は外だけではない。確かにこの都市の内側にも、牙を研いでいる者がいる。

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