灰色の手
レイドが古代遺跡の深層に潜っているその夜、地上ではリリアーナが静かに牙を研いでいた。
執務室の机に広げられた紙の束。そこには過去二週間の不審な人物の移動記録、物資の搬入出の帳簿、住民からの些細な報告が整然と並んでいる。
「やはり、次はここですわね」
リリアーナの細い指が、地図上の一点を叩いた。穀物倉庫。アルカディア・ノヴァの食糧備蓄の要だ。
傍らに立つガルムが、低く唸る。
「根拠は」
「三つありますわ」
リリアーナは帳簿の一枚を持ち上げた。
「まず、工作員と思われる人物が二日前に穀物倉庫の周辺を下見しています。住民が『見慣れない男がうろついていた』と報告してくれましたの。次に、水源への毒物投入が失敗した以上、彼らが狙うのは食糧——都市の生命線ですわ」
「三つ目は?」
「彼らの行動パターンですの。工作員は必ず新月の夜に動いている。そして今夜が——」
「新月か」
ガルムの琥珀色の瞳が鋭く光った。
「待ち伏せるぞ」
「ええ。でも、ただ待つだけでは芸がありませんわ」
リリアーナは薄く笑った。商人の顔だ。交渉の場で相手を追い詰める時の、あの切れ味のある笑み。
「ガルムさん、部下の中で変装が得意な方はいらっしゃいます?」
「タルクとベンゼルなら、傭兵時代に潜入任務の経験がある」
「では、お二人を含めた四名を倉庫の警備員に偽装してくださいまし。通常の警備は薄く見せかけて、本命は倉庫の中に隠しますの」
ガルムが低く笑った。珍しいことだった。
「罠を張るのは得意か」
「商人ですもの。相手に『勝てる』と思わせてから刈り取る——交渉の基本ですわ」
※
深夜。月のない空の下、穀物倉庫は静まり返っていた。
倉庫の外には、わざと居眠りをしているふりをした見張りが一人。中には麻袋の山に紛れて、ガルムの精鋭が息を潜めている。
リリアーナは隣接する建物の二階から、暗視の魔道具越しに倉庫を監視していた。
待つこと二刻。
三つの影が、音もなく倉庫の裏手に回った。
一人目が壁の錠前に手をかける。特殊な道具で、驚くほど手際よく解錠した。訓練された動きだ。ただの盗賊ではない。
三人が倉庫内に滑り込む。
リリアーナは手元の信号灯を二度明滅させた。合図だ。
倉庫の中で、微かな物音。
工作員たちが麻袋の一つを開き、小瓶を取り出した瞬間——
「動くな」
ガルムの声が闇を裂いた。
四方から松明が灯る。麻袋の陰から飛び出した獣人兵士たちが、三人の工作員を瞬く間に取り囲んだ。
工作員のリーダーらしき男が舌打ちし、腰の短剣に手を伸ばす。だがその手が柄に届くより速く、ガルムの巨大な掌が男の手首を掴んでいた。
「抵抗するなら、折る」
骨が軋む音。男が苦悶の声を漏らし、短剣が床に落ちた。
残る二人も即座に制圧された。抵抗する暇すら与えない、見事な連携だった。
リリアーナが倉庫に入ると、床に転がった小瓶を拾い上げた。
「これは?」
「……ただの水だ」
工作員のリーダーが吐き捨てる。だがリリアーナは瓶の蓋を開け、慎重に匂いを嗅いだ。
「無臭。無色。でも穀物に染み込めば、数日後には腐敗が始まる遅効性の毒ですわね。わたくし、こういった品物の相場には詳しいんですの」
男の目が僅かに見開かれた。
※
尋問は、ガルムの詰所で行われた。
リリアーナは工作員のリーダーの前に腰を下ろした。男は屈強な体格で、顔には古い刀傷がある。目つきは冷たく、訓練された兵士のそれだった。
「お名前を伺ってもよろしいかしら」
「……知ってどうする」
「交渉の第一歩は名前を呼び合うことですわ。わたくしはリリアーナ。あなたは?」
沈黙。
リリアーナは懐から一枚の紙を取り出した。男の所持品から見つけた文書だ。
「この文書の暗号、解読させていただきましたの。王国特務機関『灰色の手』——聞き覚えがありますわ。没落する前の我が家にも、その噂は届いていましたもの」
男の表情が初めて動いた。
「あなたは隊長クラスでしょう? 末端にこれほどの文書は渡さない。そして指令の発信元は——宰相ヴァルター・ゼーリヒ」
「…………」
「黙秘も結構ですわ。でもこの文書だけで十分。『魔獣襲撃に合わせて都市機能を麻痺させ、混乱に乗じて主要人物を暗殺せよ』——ずいぶんと丁寧な指令書ですこと」
ガルムが壁際から低く唸った。
「暗殺対象は誰だ」
リリアーナが文書を読み上げる。
「レイド・アシュフォード。ガルム・ドラグハート。そして——わたくし、リリアーナ・フォン・クレスティア」
一瞬の沈黙。ガルムの拳が軋んだ。
「お前たちは全部で何人だ」
男は答えない。だがリリアーナは穏やかに続けた。
「七名ですわね。うち三名がここに。残り四名は今も都市のどこかに」
今度こそ、男の顔色が変わった。
「わたくしたち商人は、帳簿の数字が合わないと気持ちが悪いんですの。あなた方の出入りの痕跡、宿泊記録、食糧の消費量——全て照合しましたわ」
リリアーナが微笑む。だが目は笑っていない。
「協力していただければ、悪いようにはしませんわ。でも黙秘を続けるなら——この都市には、古代遺跡の奥に何があるかわからない場所がたくさんありますの」
脅しが効いたわけではないだろう。だが男は長い沈黙の後、ぽつりと口を開いた。
「……魔獣を誘導している道具がある。『古代の角笛』だ。ヴァルターが闇市場で手に入れた代物で、特定の周波数のマナを発して魔獣を引き寄せる」
やはり。リリアーナは内心で確信を深めた。魔獣の大群が不自然に都市へ向かっている理由。それは偶然ではなく、意図的な誘導だったのだ。
「角笛の所在は?」
「知らん。俺たちは陽動と破壊工作が任務だ。角笛を持つのは別の部隊——」
そこで男が口を噤んだ。
※
翌朝、リリアーナは住民への説明を手短に済ませた。
「昨夜、穀物倉庫に侵入した盗賊を三名捕縛しました。被害はありません。引き続き警備を強化しますので、ご安心くださいまし」
パニックは起きなかった。リリアーナの冷静な説明と、ガルムの部下たちの頼もしい姿が、住民の不安を最小限に抑えた。
だが執務室に戻ったリリアーナの表情は硬い。
七名中三名の捕縛。残り四名が潜伏中。そして暗殺対象にはレイドの名。彼は今、遺跡の深層にいて連絡が取れない。
「ガルムさん。レイドさんの護衛を増やしてくださいまし」
「もうやった。遺跡の入口に二名追加した」
「……さすがですわね」
リリアーナは押収した文書をもう一度読み返す。暗号の隙間に、一つだけ引っかかる記述があった。角笛の存在を裏付ける記述の傍らに、走り書きのような符号。
まだ何かある。まだ全容が見えていない。
その時、詰所から伝令が駆け込んできた。
「リリアーナ様! 捕縛した工作員のリーダーが、もう一つだけ話したいことがあると」
リリアーナとガルムは顔を見合わせ、再び詰所へ向かった。
男は壁に背を預け、薄く笑っていた。追い詰められた者の笑みではない。何かを楽しんでいるかのような——。
「一つだけ教えてやろう」
男の声は低く、しかし妙にはっきりとしていた。
「まだ遅くはない。本当の切り札はまだ動いていない」
「何ですって?」
「あの方が用意した最後の駒は——お前たちが最も信頼している人間の中にいる」
空気が凍った。
リリアーナの脳裏を、仲間たちの顔が駆け巡る。レイド。フィーネ。ガルム。ミーシャ。日々を共にし、命を預け合ってきた人々。
その中に、裏切り者がいる?
男の笑みが深くなった。
「嘘かもしれんし、真実かもしれん。どちらにせよ——お前たちはもう、互いを同じ目では見られない」
リリアーナの手が、僅かに震えた。
それは恐怖ではなかった。疑念という毒が、確かに胸の内に一滴、落ちた音だった。




