忍び寄る影
二つの光点が地図上で静かに明滅していた。
北東から迫る魔獣の群れ。南西から進軍する武装集団。レイドは執務室の机に両手をつき、ミーシャが投影した光の地図を凝視した。
「ミーシャ、南西の集団の動きをもう一度」
「はいですぅ。えっと——速度が落ちてるのです。街道沿いに野営の兆候がありますぅ」
進軍が止まった。即座に攻め込む構えではない。ならば正規軍の威力偵察か、あるいは圧力をかけるための示威行動か。
「北東の魔獣は」
「相変わらず移動中ですけど、都市到達まで早くて三日ですぅ」
三日。猶予はある。だが楽観はできなかった。
「ガルム」
壁際に腕を組んで立っていた虎族の巨漢が、低く応じた。
「聞いている」
「偵察隊を出してくれ。北東の群れの規模と構成を正確に把握したい。ただし深追いは厳禁だ」
「承知した。夜明け前に精鋭を五名出す」
ガルムは短く頷くと、音もなく部屋を出て行った。あの巨体でどうしてあれほど静かに動けるのか、いまだにレイドには不思議だった。
「——さて」
レイドは研究ノートを手に取った。南西の軍勢は動きが止まっている以上、まず対処すべきは北東の魔獣だ。
「ミーシャ、昨日言っていた遺跡の未探索区画だが」
「あっ、そうなのです! ご主人様に見てほしいものがあるのですよぅ」
ミーシャの虹色の瞳がぱっと輝いた。銀髪の人工精霊は宙に浮いたまま、ぱたぱたと手を振って地下への階段を指差す。
「古代の防衛記録。ずっと解読してたんですけど、やっと読めたのです」
地下遺跡の第三層。アルカディア・ノヴァの真下に眠る古代魔導文明の残滓は、いまだにその全容を明かしていない。レイドとミーシャは魔力灯の淡い光を頼りに、石造りの回廊を進んだ。
壁面に刻まれた古代文字が、ミーシャの魔力に反応してほのかに発光する。
「ここですぅ」
ミーシャが指し示した壁面には、びっしりと文字と図形が刻まれていた。レイドの目には判読できない古代語だが、ミーシャには母語のようなものだ。
「読み上げてくれ」
「えっとですね——『マナ潮流の大規模攪乱が発生した場合、地脈に接続された魔獣の活性化は避けられない。過去の記録では、攪乱発生から七日以内に周辺の魔獣個体数が通常の十倍以上に膨れ上がった事例がある』——だそうですぅ」
レイドの手が止まった。
「大規模マナ攪乱……」
「心当たり、ありますぅ?」
「大地の心臓だ」
都市の動力源として利用している古代のマナ源。あれを起動して以来、周辺のマナ濃度は確実に上昇している。それが地脈を通じて広範囲に影響を及ぼしているとしたら——。
「俺たちが原因か」
苦い認識だった。都市を発展させるために使った力が、魔獣を呼び寄せている。
「でもでも、ご主人様。続きがあるのです」
ミーシャは壁面の下部を指差した。そこには図形——明らかに魔法陣の設計図が刻まれている。
「『アルカディアの迎撃結界——都市防衛の最終手段として、自動迎撃結界システムを構築す。本結界は地脈のマナを直接変換し、侵入する魔獣に対して自律的に迎撃魔術を展開する』——ここから先は損傷がひどくて読めないですぅ」
「自動迎撃結界……」
レイドは壁面に手を触れた。万象構築魔術の感覚を研ぎ澄ませると、石の奥にかすかな魔力の残滓を感じる。千年の時を経てなお、完全には消えていない。
「設計思想の痕跡は残っている。解読には時間がかかるが——これは使えるかもしれない」
ノートに図形を写し取りながら、レイドの頭は既に計算を始めていた。既存の防衛結界を古代の設計思想で強化できれば、魔獣の大群にも対抗できる。
「ミーシャ、この区画の記録を全て書き写してくれ。優先度は最高だ」
「了解なのです! ミーシャ、がんばりますぅ!」
地上に戻ると、昼を過ぎていた。
広場では子供たちが駆け回り、市場には威勢のいい声が飛び交っている。人口三百を超えたアルカディア・ノヴァは、もはや開拓地ではなく一つの都市としての活気を帯びていた。
「レイドさん、お昼まだでしょう?」
フィーネが籠を抱えて歩いてきた。金髪の隙間からわずかに覗く長い耳。以前は必死に隠していたそれを、この都市では気にしなくなっている。
「ああ、すまない。遺跡に潜ったら時間を忘れていた」
「もう、いつものことですけど。はい、サンドイッチ。新しく入植してきたドワーフのパン職人さんが焼いたパンなんですよ。すっごく美味しいんです」
差し出された包みを受け取りながら、レイドはこの平穏な光景を守らなければならないと改めて思った。
「フィーネ、薬草の備蓄はどうなっている」
「先週まとめて精製したので、治癒薬は百本以上ありますよ。……何かあるんですか?」
鋭い。レイドは少し迷ってから、正直に話すことにした。
「魔獣の動きが不穏だ。念のため、救護の準備を進めておいてほしい」
フィーネの碧眼が一瞬揺れた。だがすぐに表情を引き締め、力強く頷く。
「わかりました。包帯と解毒剤も追加で作っておきますね」
「頼む」
日が傾き始めた頃、南門から角笛の音が響いた。交易隊の到着を告げる合図だ。
リリアーナが真っ先に南門へ向かった。赤毛をハーフアップにまとめた少女は、もはや借金に追われる没落貴族ではない。アルカディア・ノヴァの商務を一手に引き受ける、やり手の参謀だ。
「ようこそアルカディア・ノヴァへ。わたくしが商務担当のリリアーナですわ」
馬車五台を連ねた交易商の一団。ドゥルガンとの交易路を通じて、最近は外部からの商人が増えている。リリアーナにとっては嬉しい悲鳴だった。
「お噂はかねがね。辺境にこれほどの都市があるとは、驚きましたよ」
一団の長と名乗る髭面の商人が愛想よく笑う。荷を検めると、鉄鉱石、香辛料、織物——いずれも品質は上々だった。
「なかなかの品揃えですわね。特にこの織物、シルヴァリア産でしょう? 良い仕入れルートをお持ちですこと」
「へへ、お目が高い」
交渉はリリアーナの独壇場だった。適正価格を即座に見抜き、相手に不満を残さない落としどころを探る。商業ギルドに阻まれていた才能が、この都市でようやく花開いている。
だが——。
荷下ろしの喧騒の中、リリアーナの視線が一人の男に止まった。
商人にしては体つきが良すぎる。荷物を運ぶ手つきも、どこかぎこちない。そして何より——視線の向かう先が、商品ではなく城壁だった。
結界の刻まれた門柱。城壁に等間隔で設置された魔力灯。見張り台の配置。男の目は、商人が絶対に興味を持たないものばかりを追っている。
リリアーナは笑顔を崩さないまま、近くにいた衛兵にそっと耳打ちした。
「あの荷運びの男——それとなく見張っておいて。怪しい動きがあればすぐにガルムさんへ報告を」
独自交易路の開拓は都市の生命線だ。しかし人が入りやすくなるということは、招かれざる客も入り込めるということ。その可能性を、リリアーナは最初から計算に入れていた。
「油断は禁物ですわ」
小さくつぶやいた声は、市場の喧騒にかき消された。
夜。レイドは既存の結界に追加の強化術式を刻み終え、執務室に戻った。疲労で重い体を椅子に沈める。机の上にはミーシャが書き写した古代遺跡の記録が山積みになっていた。
自動迎撃結界の設計図。断片的だが、万象構築魔術で補完できる部分もある。あと数日あれば——。
扉が乱暴に開いた。
ガルムだった。夜明け前に出した偵察隊を率い、自らも前線の監視塔まで足を運んでいたはずだ。その巨躯が、珍しく息を切らしている。
「団長」
ガルムの声は低く、しかし明確な緊迫を帯びていた。
「数が異常だ。百や二百じゃない」
虎族の金色の瞳が、かつてない深刻さでレイドを射抜いた。
「千を超える魔獣が——こちらに向かっている」




