誓いと、迫りくる影
アルカディア・ノヴァに、穏やかな風が吹いていた。
レイドは都市の外縁部に立ち、防衛結界の最終調整を行っていた。指先から淡い光の糸が伸び、結界の魔術式に触れるたびに、空気が微かに震える。
「……ここの魔力流路、まだ微妙にずれてるな」
呟きながら、レイドは研究ノートを繰った。大地の心臓から汲み上げたマナを結界全域に均等配分する——言葉にすれば単純だが、都市の拡大に伴い、調整すべきパラメータは指数関数的に増えている。
「ご主人様、そこのノード、古代アルカディア期の規格だと位相が三度ずれてるのです」
ミーシャが宙に浮かびながら、虹色の瞳でじっと結界を見つめていた。
「三度か。よく気づいたな」
「えへへ、ミーシャは優秀なのですよぅ」
得意げに胸を張る人工精霊の助言に従い、魔術式を修正する。途端に、結界を流れるマナの脈動が安定した。
「これで外縁部の探知精度は二割増しだ。万が一に備えて、やれることはやっておかないとな」
レイドは結界の向こうに広がる荒野を眺めた。かつては不毛の大地だったそこに、今は緑が芽吹き始めている。三百人を超える住民が暮らす都市。その全てを、この結界が守っている。
——守り切れるのか、という問いが、頭の隅をよぎった。
夕暮れ時。レイドは中央塔の展望台に足を運んだ。
一日の作業を終え、少しだけ頭を休めたかった。階段を上り切ると、先客がいた。
「あ、レイドさん」
フィーネが欄干に肘をつき、茜色に染まる空を見上げていた。金髪が夕陽を受けて、淡く輝いている。長い耳を隠すように垂らした髪が、風にそっと揺れた。
「邪魔だったか?」
「いえ、全然。むしろちょうどよかったです」
フィーネは微笑んだが、その目にはどこか翳りがあった。レイドは隣に立ち、同じ景色を眺めた。眼下にはアルカディア・ノヴァの街並みが広がっている。獣人の子供たちが広場で走り回り、ドワーフの鍛冶師が工房の火を落とし、人間の農夫が畑から戻ってくる。種族の異なる者たちが、同じ夕暮れの中で暮らしている。
「……きれいですね、この景色」
「ああ。半年前には想像もしなかった光景だ」
「私、ずっと思ってたんです」
フィーネの声が、少しだけ震えた。
「こんな場所が、本当にあるんだって」
レイドは黙って聞いた。
「私の母は人間で、父はエルフでした。母の村では『尖り耳の子』と石を投げられて、父の里では『穢れた血』と言われました」
フィーネは欄干を握る手に力を込めた。
「エルフの里——シルヴァリアの外れの小さな集落でした。父が亡くなった後、長老会が決めたんです。『混血の子は里の純潔を乱す』って。十二の冬に、門の外に荷物を置かれていました。追放の言葉すらなかった」
「……フィーネ」
「母の村にも戻れませんでした。母はもう病で亡くなっていて、親戚は誰も引き取ってくれなくて。それから十年、どこにも属せないまま流れ歩いて——」
声が詰まった。フィーネは袖で目元を拭い、無理に笑おうとした。
「すみません、急にこんな話」
「謝るな。聞かせてくれて——ありがとう」
レイドの言葉に、フィーネの表情が崩れた。
「ここは……ここだけは違ったんです。誰も耳の形を気にしない。血の濃さを問わない。レイドさんが最初に言ってくれたこと、覚えてますか。『種族なんか関係ない。力を貸してくれるなら、それだけで十分だ』って」
「覚えてるよ。今でもそう思ってる」
「だから——」
フィーネは真っ直ぐにレイドを見た。碧い瞳に、涙と夕陽が混じっていた。
「この場所を守りたいんです。私にとって初めての——居場所だから」
胸の奥に、熱い何かが込み上げた。レイドは夕陽に目を細め、静かに、しかし揺るぎない声で言った。
「必ず守る。この街も、お前たちも。——俺の魔術の全てを懸けて」
フィーネが小さく頷いた。その頬を、涙が一筋伝った。
翌朝。レイドが研究室で結界データの解析をしていると、リリアーナが慌ただしく駆け込んできた。
「レイド様、お時間をいただけますか。至急ですわ」
普段は優雅さを崩さない彼女の表情が、明らかに硬い。レイドはすぐに手を止め、ガルムを呼んだ。
作戦室に四人が集まった。リリアーナが地図を広げ、数枚の手紙を並べる。
「ドワーフ商人のグリムバール氏経由で、王都に潜り込ませていた情報網から報告が入りましたの」
「それで?」
「宰相ヴァルターが——討伐軍の編成を進めています」
空気が張り詰めた。ガルムの目が鋭くなる。
「規模は」
「未確認ですが、複数の騎士団に動員命令が出ている模様ですわ。正規軍です。山賊討伐の名目ですが、進軍路はここ——ブランフェルト方面」
リリアーナの細い指が、地図上の王都からアルカディア・ノヴァへの経路をなぞった。
「来るなら迎え撃つまでだ」
ガルムが腕を組み、不敵に笑った。しかしリリアーナは首を横に振る。
「軍事だけでは解決しませんわ、ガルム殿。仮に撃退できたとしても、王国に弓を引いた反乱勢力の烙印を押されます。そうなれば——」
「周辺国も敵に回る、か」
レイドが静かに引き取った。リリアーナが頷く。
「外交的な盾が必要ですの。ドゥルガンとの交易はすでに実績がありますわ。ファングランド、あるいはシルヴァリアとも——正式な外交関係を結べれば、ヴァルターも迂闘には踏み切れません」
「シルヴァリア……」
レイドはフィーネの涙を思い出した。彼女を追い出したエルフの国。だが感情と戦略は別だ。
「まずはドゥルガンとの同盟を固める。その上で、他国へのアプローチを段階的に進めよう。リリアーナ、外交戦略の素案を頼めるか」
「もちろんですわ。腕の見せどころですもの」
リリアーナの目に、商人としての鋭い光が宿った。
その日の夕方、レイドは都市の中央広場に住民を集めた。
人間、獣人、ドワーフ、ハーフエルフ——三百を超える住民が、彼の前に立っていた。レイドは全員の顔を見回してから、口を開いた。
「皆に伝えておきたいことがある。王都が動いている。おそらく近いうちに、この都市に対して軍事行動を起こす可能性が高い」
ざわめきが広がる。子供を抱きしめる母親。拳を握る獣人の若者。不安と怒りが入り混じった空気の中、レイドは声を上げた。
「だが——恐れるな」
広場が静まった。
「俺たちはもう、ただの難民の集まりじゃない。一つの都市だ。種族も出自も関係なく、この地で共に生き、共に築いてきた。だから——」
レイドは真っ直ぐ前を見た。
「都市として。この地で生きる全員の意志として——何者にも、屈しない」
沈黙。そして、ガルムが最初に拳を掲げた。
「団長の言う通りだ。守りてぇもんがある奴は、立て」
獣人の戦士たちが次々と立ち上がる。ドワーフの鍛冶師が槌を掲げた。人間の農夫が鍬を握りしめた。フィーネが杖を胸に抱え、静かに、しかし確かに頷いた。
広場が、決意の熱で満たされた。
だが——試練は、待ってはくれなかった。
深夜。レイドが作戦室で防衛計画を練っていると、ミーシャが突然、目を見開いた。
「ご主人様っ!」
虹色の瞳が激しく明滅する。レイドは即座にペンを置いた。
「どうした」
「結界の探知網に反応が——二つ、なのです」
「二つ?」
ミーシャの声が震えていた。
「北東方面。多数の魔力反応が高速で接近しています。形状と魔力パターンから推定すると——魔獣の群れ。それも、数百規模」
レイドの背筋に冷たいものが走った。第二十九話でミーシャが捉えた大量の足音——それがついに、正体を現したのだ。
「もう一つは」
「南西——王都方面ですぅ」
ミーシャが地図の上に魔力で光点を投影した。北東から迫る赤い光の群れ。そして南西から、整然と進軍する青い光の集団。
「数百の武装した人間の集団。進軍速度と隊列から見て——正規軍、なのです」
二つの脅威が、同時に。
レイドは地図を見つめた。北東と南西。挟撃の形。偶然か、それとも——。
「ご主人様?」
ミーシャの不安げな声に、レイドは拳を握った。
試練は、一つではなかった。




