揺るぎなき礎
地平線の向こうから押し寄せてきたのは、魔獣の群れだった。
荒野に棲む下級魔獣——角狼の大群が、季節の変わり目に伴うマナの乱れに追われて南下してきたのだ。その数はおよそ五十。かつてのブランフェルト荒野であれば、集落ひとつを壊滅させるに十分な戦力だった。
だが、今のアルカディア・ノヴァには通用しない。
「防衛結界第一層、反応確認。侵入者探知網が群体パターンを検出したのです」
ミーシャが淡々と報告する。レイドが設計した二重結界の外縁部が淡い光を放ち、角狼たちの突進を柔らかく受け止めた。弾き返すのではなく、進路を逸らす設計。無駄な殺傷を避ける、レイドらしい発想だった。
「第二層まで到達した個体はゼロ。結界の減衰率も想定内だ」
レイドは記録用の魔導端末にデータを書き込みながら頷いた。
「団長、俺たちの出番はなさそうだな」
ガルムが城壁の上から角狼たちを見下ろし、やや残念そうに腕を組んだ。彼の背後には、訓練を重ねた自警団の兵士たちが武器を構えて待機している。
「出番がないのが最善だろう。結界の実地テストとしては上出来だ」
レイドの言葉に、ガルムは鼻を鳴らした。
「違いねえ」
角狼の群れは結界に沿って西へ逸れ、やがて荒野の闇に消えていった。城壁の上で待機していた住民たちから安堵の声が漏れる。誰一人怪我をすることなく、脅威は去った。
——あの祝宴の夜から、数週間が過ぎていた。
ドワーフとの交易が始まって以来、アルカディア・ノヴァの発展は加速の一途を辿っている。
「レイドさん、今月の薬の出荷量、まとめましたよ」
翌朝、フィーネが工房から駆けてきた。手には分厚い帳簿を抱えている。その頬には薬草の緑色がついていたが、本人は気づいていない。
「高純度の回復薬が月産二百本。解毒薬と強壮剤がそれぞれ百本。ドワーフの鍛冶師たちに特に好評なのが筋弛緩薬で、追加発注が来てます」
「筋弛緩薬?」
「鍛冶仕事で体を酷使するから、需要が高いみたいです。王都の薬師ギルドでも同等品は作れないって、ドゥルガンの商人が言ってました」
フィーネの声には隠しきれない誇りが滲んでいた。魔力増幅炉の恩恵で、彼女の植物魔法は格段に精度を増している。薬草の成分を分子レベルで制御し、不純物を限りなくゼロに近づけた高品質の薬。それは、もはやこの辺境でしか手に入らない逸品だった。
「フィーネの腕があってこそだ。魔力増幅炉はあくまで補助に過ぎない」
「もう、そうやってすぐ人のせいにするんですから」
フィーネは照れ隠しに帳簿で顔を隠した。耳の先端がわずかに赤い。
「リリアーナ、商業区画の進捗はどうだ?」
レイドが執務室に戻ると、リリアーナが大きな図面を広げて待っていた。
「順調ですわ。ドワーフ商人の常駐交易所が先週開設されましたの。現在三名が常駐し、月に二回の定期隊商も確立されましたわ」
彼女は図面の一角を指さした。
「こちらが新設の市場広場。住民向けの日用品と、対外交易品を扱う区画を分けてありますの。それと——」
リリアーナの目が鋭くなった。交渉者の顔だ。
「魔導通信網の拡張によって、近隣三つの交易拠点とリアルタイムで相場情報を共有できるようになりましたわ。これは革命的ですのよ? 通常、商人は片道三日かけて相場を確認しに行くのですから」
「情報の速度が商売を制する、か」
「その通りですわ。わたくしたちは今、王国の経済封鎖を迂回するどころか、独自の交易圏を構築しつつありますの」
レイドは窓の外に目を向けた。
人口三百を超えた都市の朝は活気に満ちている。石畳の大通りを行き交う住民たち——人間、獣人、ハーフエルフ、様々な種族が自然に言葉を交わしている。上下水道が整備され、公衆浴場が建設され、先月からは子供たちのための学校も開かれた。
地方の城塞都市を凌駕する都市基盤。それが、わずか数ヶ月前まで不毛の荒野だった場所に存在している。
「ヴァルターが恐れたのは、俺の魔法じゃない」
レイドは静かに呟いた。
「こういう場所が生まれる可能性だ。種族の壁を越えて、人が集まり、力を合わせる。それが既存の秩序を揺るがすことを、あの男は本能的に理解していたんだろう」
「レイドさん……」
フィーネが、その横顔を見つめた。追放された日、恨み言ひとつ言わなかったこの男が、初めて自分の正しさを確信した瞬間のように見えた。
だが、確信は同時に覚悟でもある。レイドの目に、僅かな厳しさが宿った。
「ご主人様」
その時、ミーシャが小さな声で割り込んできた。普段の無邪気さが消え、真剣な表情を浮かべている。
「少しお話があるのです。魔力増幅炉の件で」
レイドはミーシャを執務室の隅に呼んだ。
「炉の負荷データを見てほしいのです。ここ二週間で消費効率が三パーセント低下しているのですよぅ」
「三パーセント……都市の拡大に伴う負荷増加か」
「それだけではないのです。大地の心臓から汲み上げるマナの安定性にも微小な揺らぎが出始めているのです。今すぐ問題になるレベルではないのですが——」
ミーシャは虹色の瞳をレイドに向けた。
「このまま都市が拡大を続ければ、半年以内に炉の許容限界に達する可能性がありますのです」
「わかった。対策を考える。今はまだ誰にも言うな」
「了解なのです」
ミーシャは小さく頷いた。レイドは心の中で計算を始めた。第二炉の建設か、既存炉の改良か。いずれにせよ、成長の代償は確実に迫っている。
——同じ頃、王都クレスティア。
宰相執務室に、複数の報告書が積み上がっていた。
ヴァルター・ゼーリヒは、それらを一枚一枚読み終えるたびに、机の上に叩きつけるように置いた。
「経済封鎖、実効性なし。ドワーフ王国との独自交易により物資は潤沢——」
次の報告書。
「派遣した間諜ベルク、捕縛。現在拘束中。接触した協力者も全員が翻意——」
さらに次。
「辺境都市の人口、推定三百超。防衛結界により軍事偵察も困難——」
ヴァルターの手が止まった。こめかみに青筋が浮かぶ。
「……あの男を甘く見ていた」
宰相の声が執務室に低く響いた。側近たちが息を呑む。冷静沈着で知られるヴァルターが、声を荒らげたのは就任以来初めてのことだった。
「たかが追放された宮廷魔術師一人。何の後ろ盾もない男が、半年足らずで城塞都市を築くなど——」
ヴァルターは椅子の背に体を預けた。天井を仰ぎ、深く息を吐く。
そして、その目が再び鋭さを取り戻した。冷酷な合理主義者の目だ。
「……手段を選んでいる場合ではないな」
翌日、ヴァルターは王への謁見を求めた。
玉座の間。荘厳な石柱が並ぶ広間で、老いた王がヴァルターを見下ろしている。
「辺境の件か、宰相よ」
「左様でございます、陛下」
ヴァルターは一礼し、言葉を選んだ。
「ブランフェルト荒野に拠点を築いた元宮廷魔術師レイド・アシュフォードが、王国の統制を逸脱した独立勢力を形成しつつあります。ドワーフ王国との無許可交易、難民の不法収容、独自の軍事力の構築——いずれも看過できぬ事態であるかと」
「追放したのはお前であろう、ヴァルター。あの若者に荒野を与えたのもお前だ」
王の声には微かな非難が含まれていた。ヴァルターは表情を変えない。
「仰る通り。余の判断に誤りがあったことは認めましょう。だからこそ、今ここで是正せねばなりません」
「是正とは?」
「討伐軍の派遣をご裁可いただきたく」
玉座の間に沈黙が落ちた。王は眉をひそめた。
「討伐、と言うか。いささか大仰ではないか?」
「大仰であればよいのですが——」
ヴァルターは懐から一通の書簡を取り出した。
「陛下、あの地にはかつて古代魔導文明アルカディアが栄えておりました。そしてレイド・アシュフォードは、その遺跡の上に都市を築いている。つまり——」
ヴァルターの目が、冷たく光った。
「あの地には、古代アルカディアの兵器が眠っている可能性があります。もし反乱勢力がそれを手にすれば、王国の脅威となりましょう」
王の顔から血の気が引いた。
ヴァルターは静かに膝をついたまま、王の決断を待った。
その唇の端に、かすかな——しかし確かな笑みが浮かんでいた。




