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荒野の薬師

 長い耳——それが意味するものを、レイドは即座に理解した。


 エルフ、あるいはその血を引く者。この荒野にそんな存在がいるとは思わなかった。


 少女は身を縮め、今にも逃げ出しそうな体勢を取っている。碧い瞳には警戒と恐怖が入り混じり、枯れた灌木の陰から動こうとしない。


「落ち着いてくれ。危害を加えるつもりはない」


 レイドは右手の魔力光を弱め、ゆっくりとしゃがみ込んだ。目線を合わせるためだ。急に立ち上がったり近づいたりすれば、怯えた獣のように走り去ってしまうだろう。


 少女は答えない。ただ、その視線がレイドの背後——焚き火の方へとちらりと動いた。


 火の温もりと、干し肉の匂い。おそらくそれに惹かれてここまで来たのだろう。


「腹が減っているなら、分けてやれる。たいしたものはないが」


 沈黙が続いた。瘴気混じりの風が枯れ草を揺らす音だけが、二人の間を流れていく。


 やがて、少女がかすれた声を絞り出した。


「……あなたは、何者ですか」


 丁寧な言葉遣いだが、声は震えている。


「レイド・アシュフォードだ。元宮廷魔術師——まあ、昨日付けで追放されたから『元』がつくがな」


「追放——」


 少女の目が大きく見開かれた。警戒の色が一層濃くなる。追放された者と聞いて、犯罪者か危険人物だと思ったのだろう。無理もない。


「安心しろ。罪を犯したわけじゃない。魔法が役立たずだと言われて放り出されただけだ」


 レイドは苦笑して、焚き火の方へ顎をしゃくった。


「火にあたらないか。この荒野の夜は冷える」


 少女は逡巡していた。逃げるべきか、留まるべきか。その葛藤が碧い瞳の奥で渦巻いているのが見て取れた。


 だが最終的に、空腹が警戒心に勝ったらしい。少女はおそるおそる灌木の陰から這い出し、焚き火の傍まで歩いてきた。外套のフードを深く被り直す動作——長い耳を隠そうとする仕草が、痛々しいほど手慣れていた。


 何度もそうしてきたのだろう、とレイドは思った。


「フィーネ・ルーチェと言います。薬師を……していました」


 干し肉を受け取りながら、少女——フィーネは小さく名乗った。


「薬師か。この荒野で薬草を?」


「はい。ブランフェルトの瘴気地帯には、他では採れない薬草が自生しているんです。それを採取して、近くの村に卸して生計を立てていました」


 フィーネは干し肉を小さく噛みちぎりながら、ぽつぽつと事情を語った。


 ハーフエルフ。人間の父とエルフの母の間に生まれた混血児。人間の村では尖った耳を気味悪がられ、エルフの里では血の穢れと蔑まれた。どちらにも居場所がなく、各地を転々としながらここへ流れ着いたという。


「人里に近づけば石を投げられる。エルフの森に帰れば追い返される。だからこんな荒野の端で、一人で——」


 フィーネの声が途切れた。焚き火の炎が揺れ、その横顔に影を落とす。


 レイドは何も言わなかった。安易な慰めは、彼女の痛みを軽んじることになる。


 代わりに、別の話題を切り出した。


「さっき薬草と言っていたが、瘴気地帯で育つ薬草とは珍しいな。普通、瘴気は植物を枯らす」


「それが違うんです」


 フィーネの目にわずかに光が戻った。自分の専門分野の話になると、声に張りが出る。


「浄毒草って呼ばれている植物があるんですけど、これが瘴気を吸収して育つんです。根が瘴気を濾過して、茎に浄化成分を蓄える。煎じれば解毒薬になりますし、瘴気中毒の治療にも使えます」


「瘴気を吸収して育つ——」


 レイドは研究ノートを引っ張り出した。昼間調べた古代遺跡の調査結果と、今の話が頭の中で繋がり始めている。


「フィーネ、その浄毒草が自生している場所を見たことはあるか? 群生地の分布に偏りはないか」


「え、ええ。遺跡の周辺に集中して生えています。特に、地下から何か光が漏れているような場所の近くに多くて——」


「やはりそうか」


 レイドの目が輝いた。研究者の顔になっている。


「つまりこの浄毒草は自然発生した植物じゃない。古代アルカディア文明が設計した生態系の一部だ。遺跡周辺のマナ湧出点に沿って分布しているなら、これは人工的な環境浄化システムの名残だろう。荒野が『呪われた土地』だという伝承があるが、実態は違う。管理者がいなくなって放棄された古代都市の跡地なんだ」


「古代文明の、設計……?」


 フィーネは目を丸くした。自分が長年採取してきた薬草に、そんな来歴があるとは考えもしなかったのだろう。


「ああ。そしてこの瘴気も、本来はマナの循環システムが制御していたはずだ。システムが停止して千年、制御されなくなったマナが変質して瘴気になった。逆に言えば、システムを復旧させれば瘴気は消せる」


 レイドは立ち上がり、右手を地面に向けた。淡い光が指先から流れ、地面に複雑な紋様を描いていく。


「見ていてくれ」


 万象構築魔術——現象そのものを魔術式として記述し、再現する技術。宮廷では「火も起こせない半端者の手遊び」と嘲笑われた魔術だ。


 だが今、レイドが描いた魔術式は地中の水脈に干渉し、地表に透明な水を汲み上げた。石ころを器の形に再構成し、そこに清浄な水が溜まっていく。瘴気を含まない、純粋な水だ。


「これ——瘴気が混じっていない。どうやって濾過を?」


 フィーネが身を乗り出した。荒野で清浄な水を得ることが、どれほど困難か。薬師として、それを誰よりも知っている。


「水脈から汲み上げる過程で、マナのフィルタリング式を噛ませた。瘴気の粒子構造を解析して、それだけを弾く条件式を組んである」


「そんなことが魔術で——」


「普通の魔術じゃできない。火属性や水属性の魔術は、あらかじめ決まった現象しか起こせないからな。だが俺の万象構築魔術は、現象そのものを設計できる。水を出すだけじゃなく、どんな水を、どう出すかまで制御できるんだ」


 フィーネは水に指先を浸し、口に含んだ。澄んだ味が広がったのだろう、その碧い瞳が驚きに見開かれた。


「すごい。こんな綺麗な水、この荒野に来てから初めて飲みました」


「宮廷じゃ役立たず扱いだったがな」


 レイドは肩をすくめた。だが口元には満足げな笑みが浮かんでいる。


「……あの、レイドさん」


 フィーネが控えめに声をかけた。水の入った石の器を両手で抱えている。


「さっき私の植物魔法の話をしましたけど、少し見てもらえませんか」


 フィーネが手のひらを上に向けると、淡い緑色の光が灯った。傍らの枯れ草に光が触れると、茶色く萎びた茎がゆっくりと緑を取り戻していく。枯死した植物に生命力を注ぎ込む——薬師の域を超えた、本格的な植物魔法だ。


「これは——エルフの古典魔術体系か」


 レイドは目を細めた。研究ノートの頁を素早くめくる。


「フィーネ、君のこの魔法、独学か?」


「はい。母がエルフだったので、見よう見まねで……。でも体系的に学んだわけではないので、すぐに魔力が尽きてしまうんです」


「制御効率の問題だな。魔力の放出パターンが最適化されていない。だが素質自体は——いや、これはかなりの才能だ」


 レイドの頭の中で、構想が形を取り始めていた。万象構築魔術で基盤を設計し、フィーネの植物魔法で生態系を再生する。二つの魔術は驚くほど噛み合う。自分が骨格を作り、彼女が命を吹き込む。


「フィーネ」


「はい」


「俺はこの荒野に都市を作ろうと思っている。水道、通信、結界——魔導インフラを一から構築する。君の植物魔法があれば、農地の再生や薬草の栽培も可能になる。一緒に来ないか」


 フィーネの表情が揺れた。期待と不安が入り混じった、複雑な色だ。


「でも——私はハーフエルフですよ。どこに行っても厄介者扱いされます。あなたの足手まといに——」


「種族は関係ない」


 レイドはきっぱりと言い切った。


「俺が作る都市に、そんな差別は持ち込ませない。来たい者は誰でも受け入れる。それが人間でも、エルフでも、獣人でも」


 焚き火の炎がぱちりと爆ぜた。フィーネはしばらく黙って炎を見つめていた。その碧い瞳に、小さな光が揺れている。


「……どうせ、行く場所もありませんしね」


 フィーネは自嘲気味に笑った。だが、その笑みの奥にはかすかな希望の色があった。


「ご一緒します。足手まといにならないよう、頑張りますので」


「ああ。頼りにしている」


 二人は焚き火を挟んで、翌朝の計画を話し合った。まずは古代遺跡のマナ湧出点を調査し、都市建設の候補地を決める。フィーネは浄毒草の群生地を案内すると申し出た。


 その夜、フィーネは外套にくるまって眠りについた。寝顔は穏やかだったが、時折うなされるように眉根を寄せる。フードからこぼれた金髪の奥で、長い耳がかすかに震えていた。過去の記憶が、夢の中でも彼女を苛んでいるのだろう。


 レイドは焚き火の番をしながら、研究ノートに新たな頁を開いた。「浄毒草の分布と古代マナ循環システムの相関」——書き出しはそう記した。


 夜明けは早かった。


 東の空が白み始めると同時に、二人は荷物をまとめて出発した。フィーネの案内で、浄毒草の群生地を経由しながら荒野の奥へと進む。


 朝霧が薄く立ち込める荒野は、昨夜とは違った表情を見せていた。瘴気は地表近くに溜まりやすく、朝の冷気と混じって紫がかった靄を作る。足元の土は乾ききっているが、所々に浄毒草の緑が点在していた。


「あの丘の向こうに、遺跡の入り口があるはずです」


 フィーネが前方を指さした、その時だった。


 荒野の奥から、地を揺るがすような咆哮が響いた。


 獣の叫び——だがそれだけではない。


 咆哮の合間に、か細い泣き声が混じっている。子供の声だ。


「——誰かいる」


 レイドは足を止め、音の方角を見据えた。瘴気の靄の向こうに、何かが蠢く影が見える。


 フィーネの顔から血の気が引いた。


「あの方角は瘴気溜まりの中心部です。普通の人間が踏み入れる場所じゃない——なのに、子供の声が」


 再び咆哮が轟いた。明らかに、何かが暴れている。そして泣き声は、悲鳴に変わりつつあった。

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