凱旋と祝宴
ブランフェルト荒野の東門に、歓声が轟いた。
使節団の馬車がゆっくりと門をくぐる。先頭を行くリリアーナが馬車の窓から手を振ると、沿道に集まった住民たちが一斉に声を上げた。
「リリアーナ様、おかえりなさい!」
「交渉はうまくいったのか!?」
赤毛の令嬢は、にっこりと微笑んだ。
「ええ、もちろんですわ。わたくしを誰だと思っていますの?」
レイドは中央広場で腕を組んだまま、その光景を眺めていた。隣に立つガルムが、低い声で呟く。
「無事に戻ったか」
「ああ。正直、ドワーフ王国までの道中が一番心配だったんだが——」
馬車が停まり、リリアーナが軽やかに降り立った。旅装の上に鍛冶王から贈られた金属細工のブローチが光っている。彼女は真っ直ぐレイドの前に歩み寄り、一通の巻物を差し出した。
「ドゥルガン王国との正式な交易協定書ですわ。鍛冶王ドラグニール陛下の御名入りです」
レイドは巻物を受け取り、封蝋を確認した。ドワーフ王家の紋章——交差する鍛冶槌が刻まれている。
「よくやってくれた、リリアーナ」
「褒めるのは中身を聞いてからにしてくださいまし」
リリアーナは住民たちに向き直ると、声を張った。
「皆さん、お聞きくださいまし! 本日をもって、アルカディア・ノヴァはドゥルガン王国と正式な交易協定を締結いたしました!」
広場が静まる。住民たちが固唾を呑んで次の言葉を待った。
「協定の骨子は三つ。第一に、ドゥルガン王国は我々に鉄鉱石、ミスリル合金、各種金属素材を安定供給してくださいます」
ざわめきが起きた。王国の経済封鎖で最も不足していたのが、まさに鉱石と金属だった。
「第二に、その対価として我々は魔力結晶の定期供給を行います。大地の心臓から生成される高純度結晶は、ドワーフの鍛冶技術と極めて相性が良いのですわ」
フィーネがレイドの隣に来て、小声で尋ねた。
「魔力結晶の供給、大丈夫なんですか? 足りなくなったりしません?」
「問題ない。大地の心臓のマナ湧出量を考えれば、都市の運営に必要な分を差し引いても十分すぎる余剰がある」
「第三に——」
リリアーナの声が一段と高くなった。
「我々はドワーフ鉱山に対し、防衛結界技術の支援を行いますわ。鉱山深部での魔獣被害に対する、実用的な防護技術の提供です」
今度こそ、広場は歓声に包まれた。
鉱石が手に入る。金属が手に入る。それは単なる物資の話ではない。農具が作れる。建材が補強できる。武具の修繕ができる。生活の基盤そのものが安定するということだ。
レイドは歓声を聞きながら、すでに頭の中で設計を始めていた。
「ドワーフ鉱山向けの小型防衛結界か……都市結界の縮小版をベースにして、坑道の形状に合わせた可変展開式にすれば——いや待て、鉱山内部はマナの流れが地上と違う。岩盤を介した伝導率を考慮に入れないと……」
「もう始まってますね、研究モード」
フィーネが苦笑した。
「ミーシャ、古代の鉱山防衛に関する記録はあるか?」
レイドの足元に浮かんでいたミーシャが、虹色の瞳を輝かせた。
「ありますよぅ! アルカディア時代の『地脈連動型防壁』のデータが残っているのです。坑道のマナ流を利用して自動で結界を維持する、とっても賢い仕組みなのです」
「地脈連動型——そうか、鉱山内のマナ流を動力源にすれば、外部からの魔力供給が不要になる。これは良い実験になるな。都市結界の小型版を実地テストできる」
レイドの目が輝いた。研究者としての血が騒いでいる。
「団長」
ガルムが低い声で割って入った。
「実験の前に、やることがあるだろう」
レイドは一瞬きょとんとし、ガルムの視線を追った。広場では住民たちがまだ興奮冷めやらぬ様子で語り合っている。獣人の家族、ハーフエルフの職人、人間の農夫——種族の垣根なく、誰もが喜びを分かち合っていた。
「……そうだな。今夜は祝おう」
レイドは研究ノートを閉じた。
リリアーナが即座に仕切り始めた。
「祝宴の手配はわたくしにお任せくださいまし。住民の皆さんには料理の持ち寄りをお願いして、ドワーフから贈られた地酒もございますわ。広場に長テーブルを並べて——」
「流石だ。段取りが速い」
「商人の基本ですもの。機を逃さないことが肝要ですわ」
彼女は小さく笑って付け加えた。
「それに——この協定で、ヴァルター宰相の経済封鎖は完全に意味を失いましたの。王国を介さない独立した交易路が確立された以上、もう我々を干上がらせることはできませんわ」
ガルムが腕を組んだ。
「あの宰相が大人しくしているとは思えんが」
「ええ。鍛冶王陛下からも警告をいただきましたわ。ヴァルターの手はドゥルガンにも伸びていたと」
「だが断られた」
「断られましたわ。ドワーフは義理堅い種族です。そして何より——利に聡い」
リリアーナの目が鋭く光った。彼女はすでに次の手を考えている。ドゥルガン経由で、王国圏外の商人たちとの接点を築く構想が、その頭の中にはあるのだろう。
夜が来た。
中央広場に並べられた長テーブルに、色とりどりの料理が並んだ。獣人の家庭料理、エルフ流の香草焼き、人間の素朴なパン、そしてドワーフから贈られた琥珀色の地酒。種族ごとに異なる食文化が一つのテーブルに集まる光景は、アルカディア・ノヴァならではのものだった。
「うわぁ、全部おいしそうですよ! こっちのスープ、誰が作ったんです?」
フィーネが目を輝かせて鍋を覗き込む。獣人の女性が照れくさそうに手を挙げた。
「ウチの故郷の味でさ。口に合うかわからないけど」
「絶対おいしいです、いただきます!」
レイドはテーブルの端に腰を下ろし、木杯にドワーフの地酒を注いだ。一口含むと、喉が焼けるような強烈な酒精が走った。
「……強いな、これは」
「ドワーフの地酒を甘く見てはいけないのです。アルカディア時代にも『鉄の胃袋でなければ飲めない』と記録されていますよぅ」
ミーシャが得意げに解説する。
宴が進むにつれ、広場の空気は柔らかくほどけていった。子供たちが走り回り、職人たちが肩を組んで歌い、誰かが即興で楽器を鳴らし始めた。
そして——信じがたいことが起きた。
ガルムが、歌った。
普段は寡黙な虎族の巨漢が、ドワーフの地酒に頬を赤く染め、低く太い声で獣人の古い歌を歌い始めたのだ。草原を駆ける狩人の歌。歌詞は獣人の言葉で、意味がわかる者は少なかったが、その力強い旋律に広場は聞き入った。
「ガルムさんが歌ってる……」
フィーネが信じられないという顔で呟き、次の瞬間、堪えきれずに笑い出した。
「ふふっ、あはは! なんだか、すごくいい声じゃないですか」
レイドも思わず笑みがこぼれた。ガルムの隣では彼の娘が父親の腕にしがみつき、一緒にでたらめな節で歌っている。
ミーシャが突然、テーブルの上に立ち上がった。
「ミーシャも祝いの言葉を述べるのです! えーっと——『アーク・ヴァレリス・ノクターン・エルディシア・フォルテッシモ』!」
全員が沈黙した。
「……ミーシャ、それは何語だ?」
「古代アルカディア語の祝詞なのです! 直訳すると『星々よ、この地に集いし者たちの盃を満たし、二日酔いから守りたまえ』ですよぅ」
「後半が実用的すぎる」
広場が笑いに包まれた。
レイドは少し離れた場所に腰を下ろし、その光景を眺めた。
篝火に照らされた広場。笑い声。歌声。杯を交わす人と獣人とハーフエルフ。
宮廷にいた頃、こんな光景は想像もしなかった。あの場所では魔術は政治の道具で、研究は成果でしか測られず、異なる種族が同じ食卓を囲むことなど絶対にあり得なかった。
追放された時、確かにこう思った。
これで自由に研究ができる、と。
だがいま目の前にあるものは、研究の成果だけではなかった。
「——これが、俺の作りたかった場所だ」
呟きは、宴の喧騒に溶けた。
「レイドさん」
フィーネが隣に座った。手には二つの木杯。
「はい、どうぞ。ドワーフのお酒、強すぎるので薬草で割りましたよ」
「……気が利くな」
「薬師ですから」
フィーネは杯を掲げた。
「アルカディア・ノヴァに」
「ああ——アルカディア・ノヴァに」
二つの杯が、静かに合わさった。
その時だった。
ミーシャの動きが、止まった。
さっきまで古代語の祝詞を陽気に唱えていた人工精霊が、表情を消し、ゆっくりと空を見上げた。虹色の瞳が、月明かりの下で異質な光を帯びる。
「ミーシャ? どうした?」
レイドの声に、ミーシャは振り向かなかった。
「ご主人様」
その声には、いつもの幼さがなかった。
「遠くから、たくさんの足音が聞こえるのです」
レイドの背筋に、冷たいものが走った。
「足音?」
「人間じゃないのです。もっと大きなものの——もっと、たくさんの」
ミーシャの視線は、北西の地平線に固定されていた。祝宴の喧騒の中、レイドは自身の感覚を研ぎ澄ませた。万象構築魔術で周囲のマナの流れを読む。
——乱れている。
遠く、まだ遥か遠く。だが確かに、大気中のマナが異常な揺らぎを見せていた。大量の魔力を持つ何かが、移動している。それも一体や二体ではない。
「ガルム」
レイドの声が変わったことに、虎族の戦士は即座に反応した。酔いが一瞬で消え、鋭い目がレイドを見る。
「何かが来るのか」
「まだわからない。だが——」
レイドは北西の闇を見つめた。
祝宴の篝火が、風に揺れた。
地平線の向こうで、大地が微かに——震えていた。




