間諜の正体
フィーネは息を切らしながら、レイドの研究室の扉を叩いた。
深夜だった。だが灯りは点いている。この男がこの時間に眠っているはずがないと、確信があった。
「フィーネ? どうした、こんな時間に——」
扉を開けたレイドの表情が、フィーネの顔色を見て即座に引き締まった。
研究ノートを机に置き、椅子を引く。
「座れ。水を——」
「いいから聞いて、レイド」
丁寧語が完全に抜け落ちていた。それだけで事態の深刻さが伝わったのだろう、レイドは黙って頷いた。
フィーネは見たことのすべてを話した。
夜間の薬草園巡回中に感知した不審な魔力波。ベルクという寡黙な男が、見慣れない通信器具で誰かと交信していたこと。そして——「住民の動揺は計画通り。あと二週間で内部崩壊に持ち込める」という、あの言葉。
話し終えると、沈黙が落ちた。
レイドの深緑の瞳が、静かに揺れている。
「……ガルムを呼ぼう」
レイドが魔導通信機に手を伸ばした。ほどなくして、重い足音が廊下に響く。
扉をくぐったガルムは、二人の表情を見て一瞬で状況を察した。
「何があった」
フィーネが再び経緯を説明する。ガルムの金色の瞳が鋭く細まった。
「やはりあの男か」
低い唸りが虎族の喉から漏れた。
「第一防衛線を敷いた頃から、妙に周辺を嗅ぎ回っていた。俺の勘は当たっていたわけだ」
「ガルム、あのときの——」
「ああ。侵入者探知網が拾った不自然な魔力反応。あれもベルクだったんだろう。外部への通信魔術を使えば、結界が微弱な異常を検知する」
ガルムが拳を握った。筋肉が隆起し、古傷が引き攣れる。
「即刻捕らえるべきだ、団長。間諜を泳がせておく理由はない」
レイドは腕を組み、数秒間目を閉じた。
そして首を横に振った。
「いや、泳がせる」
「何だと?」
「ベルク一人を捕まえても、情報源は断てない。通信を傍受して、どこに繋がっているのか——誰が指示を出しているのか、まず特定する。ミーシャ」
レイドが天井に向かって呼びかけると、虹色の光が空中に滲んだ。銀髪の少女が半透明の姿で現れる。
「はいはーい、呼びましたかご主人様。こんな夜更けにミーシャを呼ぶなんて、もしかしてデート——」
「仕事だ」
「ですよねー」
ミーシャは頬を膨らませたが、レイドが状況を説明すると、虹色の瞳が一瞬で真剣な色に変わった。
「あの粗い魔力波、ミーシャも検知していたのです。古い軍用通信術式ですね。アルカディア時代の技術から見れば骨董品もいいところですけど、王国の標準装備なら納得なのです」
「解読できるか?」
「ご主人様、誰に聞いているのですか?」
ミーシャが不敵に笑った。
「古代魔導通信の管理者たるミーシャにかかれば、あんな旧式の暗号なんて——えーと、三十分ください」
実際には二十分だった。
ミーシャが研究室の空中に、傍受した通信内容を投影する。文字列が虹色の光で浮かび上がった。
全員が息を呑んだ。
「——ヴァルター直属、か」
レイドが呟いた。
通信の宛先は宰相府の暗号名。ベルクは難民に紛れて送り込まれた間諜ではなく、最初から宰相ヴァルターの命を受けてアルカディア・ノヴァに潜入した工作員だった。
経済封鎖は外からの締め付けに過ぎない。本命は内部崩壊——住民の不安を煽り、種族間の信頼を切り崩し、レイドの求心力を削ぐこと。
「それだけじゃないのです」
ミーシャの声が硬くなった。
「直近の通信に、次の作戦指示が含まれていたのです。——食料備蓄庫への毒物混入」
空気が凍った。
フィーネが口元を押さえた。ガルムの全身の毛が逆立つのが見えた。
「食料に……毒を……」
フィーネの声が震えた。薬師として、毒がどれほどの被害をもたらすか、誰よりも理解していた。子供たちの顔が脳裏をよぎる。
レイドが立ち上がった。
その表情を見て、フィーネは思わず息を止めた。
温厚で、いつも穏やかで、追放されてさえ笑っていたあのレイドの顔から、一切の温もりが消えていた。
「仲間を——この街の人たちを傷つけようとする者には、容赦しない」
深緑の瞳が冷たい光を帯びた。フィーネは、この男がかつて宮廷魔術師として戦場に立っていたことを、初めて実感した。
「ガルム、備蓄庫の警備配置は」
「夜間は二名。だが毒物混入なら、日中の搬入時を狙うはずだ」
「明日の搬入に合わせて動くと見るべきだな。備蓄庫周辺に結界を追加する。ガルム、お前の部隊で出入り口を固めろ。ベルクが手を出した瞬間に押さえる」
「——了解した、団長」
ガルムの返事に、かつての傭兵としての鋭さが戻っていた。
翌日。
計画は完璧に機能した。
搬入作業に紛れたベルクが、穀物袋に小瓶を忍ばせようとした瞬間——ガルムの巨躯が背後から影を落とした。
「動くな」
短い一言。ベルクの腕がガルムの鉄のような手に掴まれ、小瓶が地面に転がった。フィーネがすかさず拾い上げ、蓋越しに匂いを確かめる。
「……遅効性の植物毒ですね。致死量ではないけど、大量の住民が倒れる程度には充分」
フィーネの声が怒りで震えていた。丁寧語が完全に消えている。
「子供たちも食べるものに、これを入れようとしたんですか——あなたは!」
ベルクは無表情のまま抵抗をやめた。プロの間諜らしい、感情を見せない態度だった。
レイドは住民を広場に集めた。
ベルクを中央に立たせ、傍受した通信記録をミーシャに投影させる。
「皆に知ってもらいたいことがある」
レイドの声は静かだが、広場の隅々まで届いた。
「この男——ベルクは、宰相ヴァルターが送り込んだ間諜だ。経済封鎖で我々を追い詰め、内側から崩壊させる。それが王国の計画だった」
住民たちがざわめいた。
「そして今朝、この男は食料備蓄庫に毒を仕込もうとした。この街で暮らす全員——子供も、老人も、種族も関係なく、全員を病に伏せさせるために」
ざわめきが怒号に変わった。
獣人の男が拳を振り上げた。エルフの女性が子供を抱きしめた。人間の老職人が「ふざけるな」と叫んだ。
レイドが片手を上げると、怒号が収まった。
「俺たちがここで何をしてきたか、皆が一番知っているはずだ。種族も出自も関係ない。一緒に街を作り、一緒に飯を食い、一緒に未来を築いてきた。それを壊そうとする連中がいるなら——俺たちは、より強く結束するだけだ」
広場に歓声が湧いた。怒りが結束に変わる瞬間を、フィーネは目の当たりにした。レイドの言葉には魔術がかかっていないのに、人の心を動かす力があった。
夜。
拘束されたベルクの尋問を、レイドとガルムが行った。
「一つだけ聞きたい。封鎖の弱点は?」
ベルクは長い沈黙の後、口を開いた。
「……ドワーフ領経由のルートは、王国の管轄外だ。宰相もそれは把握しているが、ドゥルガンとの外交問題を避けるため手を出せずにいる」
レイドとガルムが視線を交わした。リリアーナが立案した交易路が、確実に有効だという裏付けが取れた。
「それと——」
ベルクの目が初めて感情を見せた。それは恐怖だった。
「もう一つ、付け加えておく」
通信の解読データをミーシャが再度展開した。ヴァルターの指令書の端に、辺境とは無関係な暗号文が含まれていた。
「ミーシャ、これは?」
「周辺諸国への探りなのです。ファングランド、シルヴァリア、ドゥルガン——宰相は辺境だけでなく、三国すべての動向を調べている。まるで……大きな戦争の準備をしているみたい」
嫌な予感が、部屋の全員の背筋を走った。
そしてベルクが、最後の一言を吐いた。
「宰相閣下はこの程度で終わらない。次は——軍を動かすことも辞さないと言っていた」
沈黙が落ちた。
経済封鎖でも、間諜でもない。
王国正規軍による武力介入。
レイドは窓の外を見た。夜空に星が散っている。この美しい空の下で、彼が築いた街に、軍靴の音が迫ろうとしていた。
「……受けて立つさ」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。




