宰相の盤上
王都クレスティアの宰相執務室は、深夜であっても灯りが消えることはない。
ヴァルター・ゼーリヒは、先刻の報告書を再び広げると、その一行一行を指でなぞるように読み返した。
机上には密偵からの第一報だけではなく、魔術師団が独自にまとめた調査書、さらには商人たちの交易記録まで並んでいる。それらを突き合わせるたびに、一つの事実が浮き彫りになっていく。
——辺境の急速な発展は、すべてレイド・アシュフォードの手によるもの。
「……あの男の魔術には、確かに戦場での即応力がなかった」
誰に言うでもなく、ヴァルターは呟く。
万象構築魔術。現象そのものを魔術式として記述し、再現するメタ魔術。火球を放つわけでもなく、防壁を瞬時に展開するわけでもない。宮廷の魔術師団においては、その特異性は「半端」の一言で片付けられてきた。
追放を決裁したのは、ほかならぬヴァルター自身である。
「だが、余の判断は正しかった」
右手の指が、無意識に報告書の端を折り曲げる。
その判断が——誤りだったと認めるわけにはいかない。宰相就任直後の人事刷新として断行した追放劇。あれを撤回すれば、ヴァルターの政治基盤そのものが揺らぐ。
「閣下」
控えの間から、側近のハインツが姿を現した。四十がらみの痩身の男で、表情に乏しいが事務処理においては宮廷随一の切れ者だ。
「魔術師団第三部隊の隊長が、追加報告を持参しております」
「通せ」
入室した隊長は、緊張した面持ちで羊皮紙を差し出した。ヴァルターはそれを受け取り、流し読みする。
「——大規模なマナ波動が観測されたのは、二週間前だったな」
「はい。ブランフェルト方面から発生した異常な魔力反応です。規模から推定するに、古代魔導炉級の出力かと」
ヴァルターの瞳が、冷たく光る。
第十八話での出来事——あのマナ波動は、王都の観測網にまで届いていたのだ。古代遺跡を利用した何らかの大規模魔術。追放されたはずの「役立たず」が、王国全土に響くほどの魔力を行使できるという事実。
「下がれ」
隊長が退室すると、ヴァルターは椅子の背にもたれかかった。
「ハインツ。辺境の人口推移を把握しているか」
「はい。三ヶ月前には数十名程度だった入植者が、現在は百五十を超えております。獣人、ハーフエルフ、ドワーフ——王国内で居場所を失った者たちが流入しているようです」
「多種族の寄せ集めか。烏合の衆に過ぎん」
嘯きながらも、ヴァルターの視線は壁に掛けられた大陸地図へと向かう。
その地図は、通常のものとは異なっていた。辺境ブランフェルトの位置だけでなく、北のファングランド獣人連合の兵站拠点、東のシルヴァリア国境防衛線、南のドゥルガン地底通路の出入口——周辺諸国の軍事配置が、細かな朱書きで記されている。宰相の職務に必要な範囲を、明らかに超えた情報量だった。
「……直接手を下すのは得策ではないな」
ヴァルターは椅子から立ち上がり、地図の前に歩み寄る。
「辺境を軍事攻撃すれば、世論が騒ぐ。何より、周辺諸国が余計な関心を持つ。ファングランドの獣人どもが辺境との連携を口実に動き出せば、北方の均衡が崩れかねん」
「では、いかがなさいますか」
「兵糧攻めだ」
短く、断定する。
「交易商ギルドの長老会議に書状を送れ。王国法第三十七条、辺境未認可領域との商取引禁止令——この布令を、今週中に起草させる」
ハインツが無言で頷き、羽根ペンを走らせ始めた。
「さらに、もう一つ」
ヴァルターは机に戻り、引き出しから封蝋と印章を取り出す。
「辺境に送り込んでいる男がいただろう。寡黙な——そう、職人として紛れ込んでいるはずの」
「ご報告では、入植者に溶け込んでおります。怪しまれた様子はないかと」
「あの男に新たな指令を出す。住民の不満を煽れ、とな」
ヴァルターの唇が、薄く弧を描く。
「多種族の寄せ集めなど、内側から揺さぶれば容易に瓦解する。獣人は差別に敏感だ。人間の入植者との間に楔を打ち込めば、あの男の理想主義などすぐに崩れ去るだろう」
封書をしたためる羽根ペンの音だけが、しばらく執務室に響いた。
◇
ブランフェルト荒野——ノヴァ・アルカディアの中央広場は、朝市の喧騒に包まれていた。
ドワーフの鍛冶師が打った農具を、獣人の農夫が品定めする。エルフの薬師が調合した軟膏を、人間の母親が子供のために買い求める。三ヶ月前には荒野でしかなかった土地に、確かな生活の営みが根を下ろしつつある。
レイドはその光景を眺めながら、研究ノートに何事かを書き込んでいた。
「団長」
ガルムが足音もなく近づいてきた。巨躯に似合わぬ静かな歩みは、傭兵時代に叩き込まれたものだろう。
「どうした、ガルム」
「リリアーナが呼んでいる。商館のほうだ。少し面倒な話らしい」
ガルムの表情は普段と変わらないが、「面倒」という言葉を使う時は大抵、本当に面倒な案件を意味する。レイドはノートを閉じ、商館へと足を向けた。
◇
商館の執務室で、リリアーナは帳簿を広げて待っていた。赤毛をハーフアップにまとめた快活な少女——だが、今日のその表情には険しさがにじんでいる。
「レイド様、お越しいただきありがとうございます」
「リリアーナ、その顔は良くない報告だな」
「ええ。率直に申しますわ」
リリアーナは帳簿の数字を指で示しながら、淡々と説明を始めた。
「先月まで、王都方面から月に四回は交易隊が来ておりました。穀物、布、鉄材——まだ自給できない物資の主要な調達ルートですの。ところが今月に入ってから、その数が激減しております」
「どの程度?」
「ゼロですわ。今月に入って、王都方面からの交易隊は一隊も到着しておりません」
レイドの眉が、わずかに動いた。
「偶然ではないな」
「わたくしもそう判断しました。独自に調べたところ、王都の交易商ギルドに対して、何らかの圧力がかかっている形跡がありますの。具体的な布令はまだ確認できておりませんが——」
「ヴァルターか」
名前を口にした瞬間、レイドの脳裏に宰相の冷たい目が浮かんだ。追放の日、あの男が向けた蔑みの視線。「お前の魔術は戦場では役に立たん」と言い放った、あの声。
だが、レイドは首を振った。過去に囚われている暇はない。
「備蓄はどのくらい持つ?」
「現状の消費量であれば、二ヶ月程度ですわ。ですが、人口は増加傾向にあります。新たな入植者を受け入れ続ければ、もっと早く底をつく可能性も」
「……なるほど。経済で締め上げる気か」
レイドは腕を組み、窓の外に目をやった。広場では相変わらず、多種族の住民たちが穏やかに行き交っている。この光景を守るために、何が必要か。
「リリアーナ。王都以外の交易ルートの可能性は?」
「すでに検討を始めておりますわ。南のドゥルガン経由、あるいは東のシルヴァリアとの直接取引。どちらも前例のない交渉が必要ですけれど——不可能ではありませんわ」
リリアーナの目に、商人としての闘志が灯る。
「やってくれるか」
「もちろんですわ。わたくしの商才、存分に振るわせていただきます」
レイドは頷いた。王都が経済封鎖を仕掛けてくるなら、それを上回る交易網を構築すればいい。万象構築魔術で水道を引いたように、商路もまた「構築」するだけのことだ。
ただ——と、レイドは思考の隅で引っかかるものを感じた。
経済封鎖だけで、あの宰相が満足するだろうか。ヴァルターは合理主義者だ。一手だけで勝負を決めようとする男ではない。
「ガルム」
「何だ」
「都市内の警備を少し強化してくれ。特に、最近入ってきた入植者の中に——不自然な動きをしている人間がいないか、注意を払ってほしい」
ガルムは黄金の瞳をわずかに細め、短く答えた。
「心当たりが、ないわけではない」
それだけ言って、ガルムは商館を後にした。
◇
同じ頃——王都の宰相執務室。
ヴァルターは、したためた密書に封蝋を押した。赤い蝋の上に刻まれた紋章は、宰相家のものではなく、もっと古い——王国建国以前から続く、ある組織の印。
ハインツが密書を受け取り、懐に収める。
「辺境の芽は、育つ前に摘むものだ」
ヴァルターは窓の外、西の空を見据えて呟いた。
その密書の宛先は——辺境ノヴァ・アルカディアに職人として潜む、一人の寡黙な男だった。




