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赤毛の商人志願

 初収穫の余韻が残るブランフェルトに、一台の荷馬車が砂煙を上げてやってきたのは、祭りから三日後のことだった。


 東の街道——とは名ばかりの獣道を揺られてきたその馬車は、御者台に商人風の中年男を乗せ、荷台には木箱がいくつか積まれている。定期的に立ち寄るようになった行商人の一人だ。


 だが今日は、いつもと違う乗客がいた。


「ここが、ブランフェルト……」


 荷台から軽やかに飛び降りたのは、赤毛をハーフアップにまとめた少女だった。旅塵にまみれた外套の下に、仕立ての良い——しかし何度も繕った跡のある——ドレスを着ている。


 年の頃は十九か二十。快活な碧眼が、集落の全景を舐めるように見渡した。


「——なるほど」


 少女は腰に下げた革の鞄から手帳を取り出し、何かを素早く書き留めた。


 門番代わりに立っていた獣人の青年が、ガルムに伝令を走らせる。ガルムはすぐにレイドを呼びに行った。


「団長、妙な客だ。行商人の馬車に便乗してきた小娘が一人。身なりからして、ただの旅人じゃない」


「貴族か?」


「元、だろうな。服の生地は上等だが、繕いが多い。没落した家の出と見た」


 レイドは研究ノートを閉じ、立ち上がった。


「会ってみよう。悪意がある相手なら、ミーシャの結界が反応しているはずだ」


 集落の入り口に向かうと、赤毛の少女はすでに周囲を観察し終えたらしく、手帳を片手に佇んでいた。レイドの姿を認めると、背筋を正して優雅に一礼する。


「お初にお目にかかりますわ。わたくし、リリアーナ・フォン・クレスティアと申します」


 クレスティア。王国と同じ姓に、レイドはわずかに目を細めた。


「クレスティアというと——」


「ええ、王家の遠縁ですわ。もっとも、とうに没落した傍流の家ですの。名前だけが立派で、中身は空っぽ——よくある話ですわね」


 自嘲気味に微笑むリリアーナの目には、しかし卑屈さはなかった。むしろ、現実を正確に見据える鋭さが宿っている。


「ここを取り仕切っているのは、あなたですの? 元宮廷魔術師のレイド・アシュフォード様」


「俺のことを知っているのか」


「王都では有名ですわよ。『役立たずの魔術師が辺境に追放された』という話は、社交界の格好の話題でしたもの」


 ガルムが低く唸った。レイドは片手を上げて制する。


「それで、その話題の人物に何の用だ?」


 リリアーナは手帳をぱたりと閉じた。


「単刀直入に申しますわ。わたくしをここで働かせてください。商業と物流の管理——それがわたくしの専門ですの」


 レイドはリリアーナを集落の中心部へ案内した。簡素だが清潔な集会所で、フィーネが茶を淹れてくれる。


「遠いところからお疲れ様です。どうぞ」


「ありがとうございます。……良い香りですわね、この茶葉。ローグベリーの乾燥葉にカモミールを混ぜていますの?」


「わかるんですか?」


「商人志望ですもの。商材の見分けは基本中の基本ですわ」


 フィーネがぱっと顔を輝かせた。隣でガルムが腕を組み、値踏みするような視線を送っている。


「それで、なぜわざわざこんな辺境に?」リリアーナの向かいに座りながら、レイドは問うた。「王都で商人を目指すなら、もっと近い場所に機会があるだろう」


 リリアーナの表情が、一瞬だけ翳った。


「王都の商業ギルドでは、女性の正規登録を認めていませんの。『女は帳簿より針仕事を』——ギルド長のベルンハルト・グリューネが、そう定めましたのよ」


 ベルンハルトの名を口にした瞬間、リリアーナの口元がかすかに歪んだ。それは差別への怒りとも、個人的な憎悪ともつかない微妙な表情だった。すぐに笑顔を取り繕ったが、レイドはその一瞬の変化を見逃さなかった。


「種族も性別も問わない新しい都市がある——そんな噂が、王都の裏通りにまで届いていましたの。それで、自分の目で確かめようと」


「噂か……」レイドは苦笑した。「まだ都市と呼べる代物じゃないがな」


「ですが——」リリアーナは立ち上がり、窓の外を指さした。「可能性はありますわ。むしろ、今この段階でわたくしが入らなければ手遅れになりますの」


「どういう意味だ」


「レイド様。失礼を承知で申し上げますわ」


 リリアーナは鞄から一冊の地図帳を取り出し、卓上に広げた。


「この集落の物流は、破綻寸前ですわね」


 沈黙が落ちた。ガルムの眉が跳ね上がる。


「現在の人口は百名超。初収穫を迎えたとはいえ、魔導農法の生産量では全員の食料を賄いきれないはず。外部からの搬入に頼っていますわね?」


「……ああ、行商人から買い付けている」


「不定期の行商に依存している時点で、供給線は脆弱ですわ。このままの体制では、二ヶ月以内に食料危機が来ますの」


 フィーネが息を呑んだ。レイドは腕を組み、リリアーナの言葉を黙って聞いた。


 反論はできなかった。彼女の指摘は正確だ。魔術と建設に注力するあまり、商業と物流の設計が後手に回っていたことは、レイドも感じていた。


「解決策はあるのか」


「もちろんですわ」


 リリアーナの目が鋭く光った。商談に入る交渉人の顔だ。


 地図帳の上に指を走らせる。


「まず、ここ。ブランフェルトから北東に半日の距離にある小村——ホルンの集落ですわ。酪農が盛んで、乳製品と干し肉の余剰を持て余しています。彼らが欲しいのは、良質な薬草と水」


「薬草ならフィーネの温室で量産できるな」レイドが頷いた。


「そしてこちら——南の草原地帯を移動する遊牧民の一団。革製品と羊毛の加工技術を持っていますけれど、定住地との取引先がなく困っていますの。ブランフェルトの魔導井戸の水を提供すれば、交渉の余地は十分ですわ」


「よく調べている」ガルムが低い声で言った。警戒の色は残っていたが、その目には認めるような光もあった。


「商人を志した以上、情報収集は怠りませんわ。この辺境に来ると決めた時点で、周辺の経済圏は一通り把握してきましたの」


 リリアーナは地図の一点を指先で叩いた。そこには、細い線で間道が書き込まれている。南西の山脈を抜け、ドワーフ王国ドゥルガンへと通じるルートだった。


「将来的には、この間道を使ってドワーフとの交易も視野に入れるべきですわ。彼らの鍛冶技術と鉱石資源は、都市建設に不可欠ですもの」


 レイドはその書き込みに目を留めた。通常の地図には載っていない道だ。


「この間道の情報はどこで?」


「——企業秘密ですわ」


 リリアーナは軽くウィンクして見せたが、その反応の速さがかえって何かを隠している印象を与えた。


 レイドは追及しなかった。今はまだ、その時ではない。


「レイドさん、わたし思うんですけど」フィーネが口を開いた。「物流のことは正直、誰も手が回っていなかったですよね。リリアーナさんの言う通りだと思います」


「だが——」ガルムが渋い顔をする。「素性の知れない相手に、集落の物流を任せるのは」


「素性なら明かしましたわ。没落貴族の娘で、借金まみれで、商業ギルドに門前払いを食らった女ですの。隠すことなど何もありませんわよ」


 あっけらかんと言い放つリリアーナに、ガルムは言葉を詰まらせた。


「……リリアーナ」レイドが静かに言った。「一つ聞きたい。お前がここで成果を出したとして、何を求める」


「正当な報酬と、商人としての実績ですわ。わたくしには返さなければならないものがありますの。ここで力を証明できれば、それが第一歩になりますわ」


 その言葉に嘘はないと、レイドは直感した。追放された自分と同じだ。居場所を失い、それでも前に進もうとしている。


「わかった。商業顧問を任せる」


「団長」ガルムが異を唱えかけたが、レイドは首を振った。


「俺たちに足りないものを、彼女は持っている。使わない手はないだろう」


「——ありがとうございます、レイド様」リリアーナは深々と頭を下げた。だがすぐに顔を上げ、不敵な笑みを浮かべる。


「では早速ですが、三日以内に最初の交易契約を取りつけて見せますわ。ホルンの集落との定期取引——これを手土産にさせていただきますの」


「三日?」ガルムが目を見開いた。「片道半日の距離だぞ。交渉の時間を入れれば——」


「だからこそ、今すぐ準備に取りかかりますわ。フィーネさん、薬草の在庫を見せていただけます? 交渉材料の品質を確認したいですの」


「あ、はい! こっちです!」


 フィーネに手を引かれ、リリアーナは足早に集会所を出ていった。嵐のような登場と、嵐のような退場だった。


「……大した嬢ちゃんだ」ガルムが呟いた。


「気に入らないか?」


「気に入る気に入らないの話じゃない。あの目は——何かを背負っている人間の目だ。信用できるかどうかは、まだわからん」


「同感だ」レイドは頷いた。「だが、俺たちだって最初はそうだっただろう。信用は、これから積み上げればいい」


 ガルムは鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。


 その夜、リリアーナに割り当てられた小屋で、彼女は荷物の整理をしていた。


 外套、着替え、筆記具、そして——あの地図帳。


 使い込まれた革表紙の地図帳を手に取り、裏返す。


 裏表紙には、焼印が押されていた。


 蔦と剣を組み合わせたクレスティア家の紋章。その下に、無慈悲な数字が刻まれている。


 『債務額:金貨五万枚』


 リリアーナは一瞬だけ目を閉じた。


 それから地図帳を鞄の底に押し込み、手帳を開く。


「三日、ですわね」


 小さく呟き、明日の交渉の段取りを書き始めた。


 燭台の灯りが、彼女の横顔を照らしている。その瞳には、借金の重圧ではなく、挑戦者の炎が宿っていた。

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