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荒野に実る希望

 夜が明けても、レイドは研究ノートから顔を上げなかった。


 二週間。リリアーナが突きつけた猶予は、途方もなく短い。だが嘆いている暇はなかった。


「——三つ、同時に動かす」


 集会所に集めた仲間たちの前で、レイドは指を三本立てた。


「第一に、魔導農場。フィーネの植物魔法と俺の構築魔術を組み合わせて、作物の成長速度を飛躍的に引き上げる。第二に、古代の食料生成技術の復元。ミーシャ、アルカディアにそういう技術があったはずだ」


「練成食ですね! マナ結晶から栄養素を直接変換する技術なのです」


 ミーシャが銀髪を揺らして手を挙げた。


「レシピはミーシャの記憶にばっちり残ってますよぅ」


「助かる。そして第三——」


 レイドの視線がリリアーナに移った。


「最寄りの街との交易だ。リリアーナ、以前手に入れた通行証が使えるか?」


「もちろんですわ」


 リリアーナは帳簿を閉じ、自信に満ちた笑みを浮かべた。


「西のグレンデール街道を使えば、交易都市カルムまで片道三日。通行証があれば関所も問題ありませんわ」


「護衛は俺がつく」


 ガルムが壁に背を預けたまま、短く言った。


「荒野の外は獣人への風当たりが強い。だが、商人の護衛なら怪しまれにくいだろう」


「ガルム——」


「団長の頼みだ。断る理由がない」


 レイドは一つ頷いた。三つの策を同時に走らせる。一つでも当たれば、住民たちを飢えさせずに済む。


「全員、持ち場に散ってくれ。時間がない」



   * * *



 翌朝、リリアーナとガルムが交易遠征に出発した。


 ガルムの巨躯に荷馬車の御者台が軋む。リリアーナが荷台から手を振る姿を見送ると、レイドはすぐに集落の東側——荒れ地を切り拓いた実験区画へ向かった。


 フィーネが既に土の上に膝をつき、両手を地面に当てていた。


「土壌の魔力循環を確認しました。マナの浸透率は悪くないですよ」


「なら、始めるか」


 レイドは研究ノートを開き、昨夜描き上げた魔法陣の設計図を地面に展開した。指先から銀色の光が走り、複雑な幾何学模様が土の上に刻まれていく。


 万象構築魔術——現象そのものを魔術式として記述する、レイドだけの魔法体系。今回記述するのは「成長促進」という現象だ。


「植物が養分を吸い上げ、光合成を行い、細胞分裂で成長する。その一連の過程を魔術式で十倍に加速させる」


「十倍……本当にできるんですか?」


「理論上はな。ただし、加速だけでは植物が枯渇する。だからフィーネの力が要る」


 レイドが魔法陣の中央を指差した。


「ここに植物魔法の供給回路を組み込みたい。成長に必要な生命力を、お前の魔法で補填してくれ」


 フィーネの碧い瞳が見開かれた。


「構築魔術と植物魔法の——融合、ですか」


「無茶を言ってるのは分かってる。だが——」


「やります」


 フィーネは迷いなく頷いた。


「やりますよ、そんなの。面白そうじゃないですか」


 その笑顔に、レイドは少しだけ肩の力が抜けた。


 作業は難航した。二つの異なる魔術体系を一つの魔法陣に統合するなど、前例がない。


 フィーネが供給する生命力の波長と、レイドの構築式が要求する入力パラメータが噛み合わない。何度も試行を繰り返し、昼食も忘れて魔法陣の調整を続けた。


「つまりこの接続部の位相を三度ずらせば——いや待て、そもそも植物魔法の波動関数が——」


「レイドさん、ご飯食べてないでしょう。はい、これ」


 フィーネが差し出したのは、硬いパンと干し肉だった。残り少ない食料の一部。レイドは黙って受け取った。


 日が傾き始めた頃、ミーシャが走ってきた。


「ご主人様! 練成食の試作品ができたのです!」


 ミーシャが差し出した皿の上には、灰色の固形物が載っていた。見た目は粘土の塊に近い。


「……これは」


「マナ結晶を栄養素に変換した古代の携行食なのです。一個で成人一日分の栄養が摂れますよぅ」


 レイドが一口齧った。


 味がない。正確には、微かに土の味がする。


「……栄養価は?」


「完璧なのです!」


「なら合格だ。量産体制を整えてくれ」


「味の感想は聞かないのですか?」


「聞かない方がいいだろう」


 ミーシャが頬を膨らませたが、すぐに作業場へ駆け戻った。練成食は味こそ最悪だが、飢えを凌ぐ手段としては十分だ。マナ結晶ならこの土地に豊富にある。


 ——これで最悪の事態は防げる。


 だが、住民たちに練成食だけを食べさせ続けるわけにはいかない。やはり、農場を成功させなければ。



   * * *



 二日目の夜。


 月明かりの下、レイドとフィーネは魔法陣の前に座り込んでいた。


「波長の変換式を間に挟めばいいんだ。俺の構築魔術で、フィーネの生命力を魔法陣が受け入れられる形に翻訳する」


「翻訳——そうか、通訳みたいなものですね」


 フィーネが膝を打った。


「私の魔法とレイドさんの魔法、言語が違うだけで言ってることは同じ。なら、翻訳回路を作ればいい!」


「そういうことだ」


 二人の手が同時に魔法陣に触れた。銀色と翠色の光が交錯し、螺旋を描いて融合する。


 魔法陣が脈動した。


 種を蒔いた区画から、小さな芽が顔を出す。それが見る間に茎を伸ばし、葉を広げ、実をつけていく。


「——嘘」


 フィーネが呆然と呟いた。


 種を蒔いてわずか数時間。通常なら数ヶ月かかる成長が、目の前で起きていた。


 トマトが赤く色づく。キャベツが丸々と結球する。ニンジンの葉が青々と茂る。


「成功だ」


 レイドの声が震えていた。


「魔導農法——こいつは使えるぞ」


 フィーネが両手で口を覆った。碧い瞳に月光が反射して、きらきらと揺れている。


「すごい……すごいですよ、レイドさん。これ、すごいことですよ!」


 語彙が追いつかないらしい。レイドは思わず笑った。


「お前の植物魔法がなければ実現しなかった。礼を言うのはこっちだ」


「そんな——二人で作ったんですから、二人の成果です」


 フィーネは頬を染めて目を逸らした。半エルフの長い耳が、髪の隙間から微かに揺れた。



   * * *



 五日目の朝。


 集落の広場に、長テーブルが置かれていた。


 その上に並ぶのは、採れたての野菜たち。真っ赤なトマト、瑞々しいレタス、黄金色のトウモロコシ。荒野に来て以来、誰も見たことのなかった光景だった。


「……本物、なのか」


 ドルンが震える手でトマトを持ち上げた。


「この不毛の荒野で、本当に野菜が育ったのか」


「ドルンさん、早く食べてくださいよ。もっと採れますから」


 フィーネが大きな籠を抱えてきた。中にはさらに大量の野菜が詰まっている。


 最初に齧りついたのは、ガルムの子供たちだった。トウモロコシにかぶりつき、甘い汁を頬に飛ばしながら無心に食べる。


「おいしい! おとうさん、おいしいよ!」


 その声が広場に響いた途端、堰を切ったように住民たちが集まってきた。


 トマトを齧って泣き出す老婆。子供に野菜を取り分けながら笑う母親。黙々と食べ続ける若い獣人の男の目尻にも、光るものがあった。


 レイドは広場の端から、その光景を眺めていた。


「——ここに来て、初めてまともな食事だな」


 独り言に、隣からフィーネの声が重なった。


「みんな、泣いてますね」


「ああ」


「私も、泣きそうです」


「……俺もだ」


 二人は並んで立ったまま、何も言わなかった。言葉はいらなかった。


 荒野に吹く風が、畑の若葉を揺らしている。


 この土地は、もう不毛ではない。



   * * *



 収穫祭のような賑わいが続く広場に、荷馬車の轍の音が響いたのは夕暮れ時だった。


「リリアーナ様たちが戻ったぞ!」


 見張りの声に、住民たちが門へ駆け寄る。


 荷馬車には布袋や木箱がうず高く積まれていた。穀物、塩、布、鉄材——交易は成功したのだ。ガルムが御者台から飛び降り、無言で頷く。その目が広場に並ぶ野菜に留まり、僅かに見開かれた。


「団長。荒野で野菜を育てたのか」


「色々あってな」


「……化け物だな、あんたは」


 褒め言葉として受け取ることにした。


 だが、荷台から降りてきたリリアーナの表情に、レイドは気づいた。


 笑っていない。


 交易を成功させたにもかかわらず、その翡翠の瞳には険しい影が落ちている。


「リリアーナ。何かあったか」


 レイドが声をかけると、リリアーナは周囲に目を配り、声を落とした。


「——場所を変えましょう。レイド様、フィーネ様も」


 集会所に入り、扉を閉める。ランプに火を灯すと、リリアーナは帳簿の代わりに一枚の紙を取り出した。交易先の酒場で入手した情報を書き留めたものらしい。


「交易は成功しましたわ。カルムの商人たちは辺境からの取引を歓迎してくれました。通行証も問題なく機能しましたの」


「なら——」


「ですが」


 リリアーナの声が低くなった。


「街で噂になっていますの。『追放された宮廷魔術師が荒野で怪しい集団を率いている』と。獣人や亜人を集めて軍隊を作っているだの、古代兵器を発掘して王国に反旗を翻そうとしているだの——悪意に満ちた尾ひれがついていますわ」


 室内の空気が凍りついた。


 フィーネが息を呑み、ガルムの目が鋭くなる。


「そして、その噂の出所は——」


 リリアーナが紙をテーブルに置いた。


「王都ですわ」


 ランプの炎が揺れた。


 レイドの脳裏に、一人の男の顔が浮かぶ。冷酷な灰色の瞳。すべてを駒として見下す、あの宰相。


「……ヴァルター」


 呟きは、宣戦布告にも似た響きを帯びていた。

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