種族の碑
リリアーナとの契約から五日が過ぎた。
交易路の整備計画が動き始める一方で、集落には別の問題が生じていた。
人口が百名を超えたのだ。
人間の難民、獣人の家族連れ、矮人の職人集団、そして数名のハーフエルフ。行き場を失った者たちが噂を聞きつけ、日ごとに荒野を越えてくる。
レイドにとっては歓迎すべきことだった。
——はずだった。
「なんであいつらと同じ釜の飯を食わなきゃならねえんだ」
朝の共同食堂。人間の男が、隣の席に座ろうとした獣人の少年を睨みつけた。
「獣臭えんだよ。あっち行けよ」
少年の耳がぺたりと伏せた。尻尾を丸めて、無言で席を立つ。
誰も止めなかった。
人間の難民たちは目を逸らし、獣人たちは黙って拳を握る。食堂に重い沈黙が落ちた。
同じ頃、建設現場でも声が上がっていた。
「こんな組み方じゃ三年保たんぞ」
矮人の石工が、人間の大工に食ってかかっている。
「石の目を無視して積み上げおって。素人か」
「うるせえな、こっちのやり方があるんだよ。穴掘り族に口出しされる筋合いはねえ」
「穴掘り族だと——」
矮人の顔が赤く染まった。侮蔑の言葉だ。ドルンが間に入らなければ、殴り合いになっていただろう。
レイドが異変に気づいたのは、昼過ぎのことだった。
薬草園の手入れをしていたフィーネのもとへ向かうと、彼女はいつもの場所にいなかった。
少し離れた木陰に、一人で座り込んでいる。
「フィーネ?」
声をかけると、彼女はわずかに肩を震わせた。
「あ、レイドさん。すみません、ちょっとぼんやりしてて」
笑顔を作ろうとしている。だが目元が赤い。
「何かあったのか」
「……なんでもないですよ」
そう言って、無意識に髪を耳にかけ——途中で手を止めた。長い耳を隠すように、髪を元に戻す。
レイドは黙って隣に腰を下ろした。
「話したくなったら聞く。無理にとは言わない」
しばらくの沈黙のあと、フィーネが小さく呟いた。
「……子供に、耳を指差されたんです」
「——」
「『お姉ちゃんの耳、なんで尖ってるの? 化け物?』って」
子供に悪意はなかったのだろう。親から聞いた言葉をそのまま口にしただけだ。だからこそ、余計に深く刺さる。
「慣れてるはずなんですけどね」
フィーネは膝を抱えて、小さく笑った。
「エルフの里では『人間の血が混じった穢れ』と言われて。人間の街では『尖り耳の化け物』って。どこにいても、同じことの繰り返しで」
レイドの胸に、鈍い痛みが走った。
ガルムを見つけたのは、集落の外れだった。
一人で素振りをしている。いつもの鍛錬とは違う。荒々しく、叩きつけるような剣筋だった。
「ガルム」
「……団長か」
振り返ったガルムの右手は、拳を握りすぎて白くなっていた。
「聞いたのか。食堂の件」
「ああ。息子が追い出されたそうだな」
「俺の息子だけじゃねえ。獣人の子供が三人、飯も食えずに帰ってきた」
ガルムの金色の瞳が、怒りに燃えている。
「殴ってやりたかった。だがそうすれば『やっぱり獣人は野蛮だ』と言われる。いつもそうだ。俺たちは怒ることすら許されねえ」
大剣を地面に突き刺し、深く息を吐いた。
「団長。俺はあんたを信じてここに来た。だが——このままじゃ、傭兵団にいた頃と何も変わらねえ」
レイドは何も言わなかった。
ただ、頷いた。
その日の夕刻。
レイドは集落の中央広場に、全住民を集めるよう触れを出した。
ミーシャが拡声の術式を組み、リリアーナが人を誘導する。ガルムは腕を組んだまま、広場の隅に立っていた。フィーネは人垣の後ろに身を隠すようにしている。
百余名の視線が、広場の中央に立つレイドに集まった。
人間の難民。獣人の家族。矮人の職人。数名のハーフエルフ。それぞれが種族ごとに固まり、互いの間に見えない壁を作っている。
レイドは一度、深く息を吸った。
「今日、この集落で幾つかの問題が起きた」
声は穏やかだった。だが、よく通る。
「食堂で獣人の子供が追い出された。建設現場で矮人が侮辱された。ハーフエルフが化け物と呼ばれた」
広場がざわめく。当事者たちが目を伏せた。
「俺は怒っている。だが、責めるためにここに集めたんじゃない」
レイドは広場をゆっくりと見渡した。
「一つ聞きたい。——ここに来る前、お前たちはどこにいた?」
沈黙。
「王国の街で獣人だからと門を閉ざされた者。貴族に搾取されて逃げてきた者。種族が違うだけで故郷を追われた者。この荒野に来た理由は、皆違うだろう」
視線がフィーネに向いた。ガルムに向いた。矮人のドルンに、人間の難民たちに。
「だが一つだけ、共通していることがある」
レイドの声が、静かに広場を満たした。
「——他に行き場がなかったということだ」
誰かが息を呑んだ。
「俺もそうだ。宮廷を追放されて、呪われた荒野に放り出された。役立たずだと言われてな」
自嘲するように笑い、すぐに表情を引き締めた。
「だからこそ、ここでは同じことを繰り返さない。繰り返させない」
レイドが片手を掲げた。
万象構築魔術が起動する。
広場の地面から、大きな石柱がゆっくりとせり上がった。荒野の粗い岩肌が、魔術の光に包まれて変質していく。不純物が除かれ、表面が滑らかに磨き上げられ——白銀に近い輝きを帯びた石碑が姿を現した。
高さは二メートルほど。頂部には盾の意匠。
その表面に、レイドの魔術が文字を刻んでいく。
——種族を問わず、意志ある者を受け入れる。
百人を超える住民が、声を失って石碑を見上げた。
夕陽が碑面を照らし、刻まれた文字が金色に輝く。
「これがこの集落の法だ」
レイドの声は、もう穏やかではなかった。静かだが、芯に鋼が通っている。
「嫌なら出ていけ。だが残るなら——隣にいる者を、尊重しろ」
長い静寂が広場を支配した。
風の音だけが荒野を渡る。
最初に動いたのは、ガルムだった。
大きな体躯がゆっくりと前に進み出る。広場の全員が見守る中、虎族の戦士は石碑の前で片膝をついた。
「——ガルム・ドラグハート。この碑に刻まれた言葉に、命を懸ける」
低く、重い声だった。
それまで怒りに燃えていた金色の瞳に、別の光が宿っている。
ドルンが続いた。無言で膝をつき、深く頭を下げる。
矮人の石工たちが、一人、また一人と続く。人間の難民の中から、先ほど獣人を罵った男が目を赤くしながら前に出て、不器用に頭を下げた。
広場に、静かな波紋が広がっていった。
人垣が薄くなり始めた頃。
レイドは石碑の傍で、一人残っていた。
夕闘の最後の光が荒野を染めている。
足音が近づいた。軽い、聞き慣れた歩調。
「レイドさん」
振り返ると、フィーネが立っていた。
碧色の瞳が揺れている。唇が微かに震えていた。
「あの碑に書かれた言葉——」
声が詰まる。髪の隙間から、尖った耳が覗いていた。今日はもう、隠そうとしていない。
「私、ずっと——誰かに、そう言ってほしかったんです」
涙が一筋、頬を伝った。
レイドは何も言えなかった。
気の利いた言葉も、慰めの台詞も浮かばない。ただ——フィーネが泣いているのに、その顔がどこか晴れやかに見えた。
「……ありがとう、ございます」
声は震えていたが、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
荒野の風が二人の間を吹き抜ける。石碑に刻まれた文字が、最後の夕陽を受けて静かに光っていた。
翌朝。
レイドが広場に出ると、石碑の前に花が供えられていた。
荒野に自生する、名もない野花の束。
そしてその傍らに——一枚の紙が石で押さえて置かれている。
走り書きの文字。
「この碑のことを、王都の誰かが嗅ぎつけたようですわ」
背後からリリアーナの声が響いた。
振り返ると、彼女の手には見覚えのない封蝋の手紙が握られている。
「——宰相府からの書状ですの」
朝の光の中、レイドの目が細まった。




