万象の先に、笑顔の街を
丘を登る石段は、レイドが最初にこの荒野を訪れた頃にはなかった。
ガルムの部隊が整地し、ドワーフの石工が積み、子供たちが花を植えた道だ。たった数年で、不毛の荒野はここまで変わった。
隣を歩くフィーネの横顔に、夕陽が金色の輪郭を描いている。
「きれいですね」
フィーネが呟いた。視線はアルカディア・ノヴァの街並みに向いている。
「ああ」
レイドは街を見なかった。フィーネを見ていた。
丘の頂に着くと、大陸で最も若い都市が一望できた。中央のマナ塔を軸に、居住区、商業区、医療院、研究棟が放射状に広がっている。獣人の子供たちが広場を駆け回り、ドワーフの鍛冶師がエルフの木工師と肩を並べて歩いている。
追放された日、ヴァルターに言われた言葉を思い出す。
——お前の魔法は役立たずだ。
あの日、レイドは笑って答えた。「これで自由に研究できる」と。
負け惜しみだと、誰もが思っただろう。レイド自身、半分はそうだった。だが半分は——本心だった。
「レイドさん」
フィーネが隣に立ち、同じ景色を見ている。
「話したいこと、って」
「ああ」
レイドは研究ノートなら何冊でも書ける。魔術式の理論も、インフラ設計の仕様書も、何千ページでも苦にならない。
だが、たった一言が出てこない。
「……俺は、言葉にするのが下手だ」
「知ってます」
フィーネが小さく笑った。
「研究のことになると何時間でも話すくせに、自分のことは全然話さないんですから」
「そうだな。だから——回りくどくなるかもしれないが、聞いてくれ」
レイドは息を吸った。夕陽に染まるマナの微粒子が、大気の中できらきらと光っている。
「俺がこの街を作れたのは、万象構築魔術があったからだ。古代遺跡を見つけたからだ。ガルムやリリアーナやミーシャがいたからだ。全部、偶然と仲間の力だ」
「はい」
「でも——この街を作ろうと思えたのは」
レイドはフィーネを見た。
「お前が、最初に俺を信じてくれたからだ」
フィーネの碧い瞳が揺れた。
「荒野に一人で立ってた俺のところに来て、『ここに薬草園を作りたいんです』と笑った。あの日から、俺は一人の研究者じゃなくなった。誰かのために魔術を使いたいと思うようになった」
「レイド、さん——」
「フィーネ。俺は——」
万象構築魔術は、現象を言語化して再現する魔術だ。どんな複雑な事象も、正確に記述すれば形にできる。
だが、この感情だけは魔術式に書けない。
「お前がいないと駄目だ。研究者としてじゃなく、都市の長としてでもなく——俺個人として」
不器用な告白だった。詩的でも洗練されてもいない。ただ、嘘のない言葉だった。
フィーネの目から、涙が一筋流れた。
「ずるいです」
「え?」
「私が——どれだけ待ったと思ってるんですか」
声が震えている。でも、その顔は笑っていた。
「ネヘルとの戦いの前に、『終わったら話す』なんて言って。生きて帰れるかもわからないのに。私がどんな気持ちで待ってたか——」
「すまない」
「謝らないでください。だって——」
フィーネは涙を拭い、まっすぐにレイドを見た。
「ずっと待ってました。あなたがこの言葉を言ってくれるのを、ずっと」
夕陽が沈みゆく空の下、二人の影が重なった。
アルカディア・ノヴァの街明かりが、一つ、また一つと灯り始める。レイドの万象構築魔術が設計した街灯が、まるで祝福するように柔らかな光を放っていた。
◇
翌朝。
レイドの研究室には、いつもの光景が広がっていた。
机の上に積まれた研究ノート、壁一面に貼られた魔術式の走り書き、棚に並ぶ試料瓶。だが、窓の外に見える景色は一年前とは違う。
戦いは終わった。深淵教団は壊滅し、ネヘルの脅威は去った。大陸連合の代表たちは各国へ帰り、アルカディア・ノヴァは平時の営みを取り戻しつつある。
レイドは新しいノートを開いた。
戦いのための魔術はもう要らない。マナの流れを兵器に変えるのではなく、人々の暮らしを豊かにするために使う。それが、レイドが最初からやりたかったことだ。
ペンを走らせる。
——万象構築魔術・応用研究ノート第一号。テーマ:すべての人が笑って暮らせる都市の設計。
研究項目を書き連ねていく。マナ循環式の温水供給システム。属性を問わない汎用治癒魔術陣。長距離マナ通信の安定化。獣人の体格差に対応した可変型住居設計——
「団長。訓練場の拡張申請だ」
扉を叩かずにガルムが入ってきた。手には書類の束。
「多種族合同の治安部隊、人数が増えすぎて場所が足りん」
「もう増えたのか。この前編成したばかりだろう」
「志願者が後を絶たない。特に若い獣人が多い。ファングランドから武者修行に来る連中もいる」
ガルムの口元が、わずかに緩んだ。
「いい傾向だ。獣人が自分の意思で剣を取る場所がある。それだけで——来た甲斐があった」
「承認する。ミーシャに地下空間の拡張を頼んでくれ」
「了解した」
ガルムが去ると、入れ替わりにリリアーナが顔を出した。
「レイド様、お忙しいところ失礼いたしますわ」
「リリアーナ。何かあったか」
「嬉しい悲鳴ですの。シルヴァリアとドゥルガン双方から、常設の交易路開設の正式申請が届きましたわ。それに加えて——」
リリアーナは書面を広げた。快活な笑みが浮かんでいる。
「クレスティア王国の商業ギルドから、アルカディア・ノヴァへの支部設置を打診されましたの。あの、女性商人を門前払いにしていたギルドからですのよ?」
「時代が変わったな」
「ええ。わたくしたちが変えましたの」
誇らしげに胸を張るリリアーナを見て、レイドは思わず笑った。借金返済のために一人で戦っていた少女は、大陸有数の交渉人に成長していた。
「あ、あと一つ。ヴァルター前宰相の件ですが——王都での軟禁処分が正式に決まりましたわ。もう妨害の心配はありませんの」
「そうか」
恨みはなかった。追放がなければ、この街は生まれなかった。それだけのことだ。
リリアーナが去った後、廊下から甲高い声が聞こえた。
「はーい、今日の授業は古代アルカディアの農耕魔術についてなのです!」
窓の外を見ると、ミーシャが子供たちを引き連れて歩いている。獣人の子供、人間の子供、エルフの子供が入り混じって、ミーシャの話に目を輝かせていた。
「エルシオン様が作った灌漑システムは、マナの位相差を利用した三重循環構造だったのです。つまりですね——あ、難しい顔しないでくださいですよぅ。要するに、すごい水路なのです!」
子供たちが笑う。千年の知識を持つ人工精霊は、誰よりも優しい教師になっていた。
レイドはペンを置き、窓の外の景色を眺めた。
かつて不毛の荒野だった場所に、人々の声が響いている。ドワーフの鍛冶の槌音、獣人の子供たちの歓声、エルフの歌声、商人たちの活気ある掛け合い。
——お前の魔法は役立たずだ。
あの言葉は、間違っていなかったのかもしれない。
万象構築魔術に攻撃力はない。敵を打ち倒す力はない。宮廷が求めた「兵器としての魔術」には、確かに不向きだった。
だが。
人々の暮らしを作る魔術としては——大陸で最も優れている。
「役立たず、か」
レイドは静かに笑い、再びペンを取った。ノートの新しいページに、次の研究テーマを書き込んでいく。
コンコン、と控えめなノックが聞こえた。
「レイドさん、お茶をお持ちしました」
フィーネがトレイを手に入ってくる。湯気の立つカップからは、辺境産の薬草茶の香りが漂っていた。
「ありがとう。……すまないな、朝から研究室にこもって」
「いいんですよ。レイドさんはそういう人ですから」
フィーネはカップを机に置き、ノートを覗き込んだ。
「『すべての人が笑って暮らせる都市の設計』……大きなテーマですね」
「ああ。たぶん一生かかっても終わらない」
「それなら——ずっと隣で見ていられますね」
フィーネが微笑んだ。その笑顔に、レイドの胸が温かくなる。
「ああ。頼りにしてる」
「あ、でも今日は定時で切り上げてくださいね。昨日の祝宴の片付けがまだ残ってるんですから」
「わかった、わかった」
フィーネが研究室を出ていく。その足音が遠ざかるのを聞きながら、レイドはノートの隅に小さく書き添えた。
——追記:フィーネに怒られたので、今日は定時で研究を切り上げること。
ペンを置いて、窓の外を見る。
アルカディア・ノヴァの空は、今日も澄んでいた。
(完)




