万象の証明
大陸が、歌っていた。
レイドにはそう感じられた。東からも西からも、北からも南からも、無数のマナの流れが押し寄せてくる。それは奔流というよりも——合唱だった。
一つ一つは小さな声。だが、それらが重なり合い、共鳴し、大陸規模のうねりとなって深淵の闇に立ち向かっている。
「なんだ、これは……!」
ネヘルの声に、初めて動揺が混じった。
漆黒のマナが大陸を覆い尽くすはずだった。万象収斂——全てのマナを一点に凝縮し、世界を無に帰す究極の破壊魔術。その完成を目前にして、予想外の抵抗が生まれていた。
「お前一人の力ではあるまい。だが、烏合の衆が束になったところで——」
「烏合の衆?」
レイドは静かに首を振った。
「違うな、ネヘル。これは烏合じゃない」
万象構築魔術の回路が、レイドの身体を超えて広がっていく。辺境都市アルカディア・ノヴァの上下水道、魔導通信網、結界システム、照明網——全てがレイドの魔術回路の延長として機能していた。
そしてそれは、もう辺境だけに留まらない。
◇
クレスティア王都。
魔導通信塔の管制室で、技術者たちが目を見開いていた。
「マナ出力が通常の三十倍を超えています! 通信塔が勝手に共鳴して——」
「止めるな」
低い声が制止した。宰相ヴァルターだった。
その冷酷な目が、西の空を見据えている。地平線の彼方で、翡翠の光と漆黒の闇が激突しているのが——遠く離れた王都からでも見えた。
「……あの男の魔術回路だ。余が『役立たず』と断じた魔術が、大陸の基盤と接続しおった」
ヴァルターの声に、嘲りはなかった。ただ、認識の修正があった。
「通信塔のリミッターを解除せよ。全マナを西方に送れ」
「宰相閣下!?」
「大陸が滅べば政治も何もあるまい。——やれ」
◇
ファングランドの要塞都市。
ガルムの同胞たちが、鍛え上げた身体にマナを漲らせていた。獣人特有の野性的なマナが、魔導通信網を通じて南へ流れていく。
「団長が呼んでる」
年老いた虎族の戦士が、若い獣人たちに告げた。
「遠吠えで応えろ。——全力でな」
要塞全体が振動するほどの咆哮が、北の大地を揺るがした。
◇
ドゥルガンの地底都市。
ドワーフの大鍛冶炉が赤く脈動している。千年の歴史を持つ炉に組み込まれた魔術回路が、レイドの設計した共鳴パターンに応答していた。
「坑道の壁が光っとるぞ!」
「いいから打て! 鉄を打つんだ! わしらにできるのはそれだけじゃ!」
槌が振り下ろされるたびに、マナが大地を伝って南西へと走る。
◇
シルヴァリアの森。
古樹の根が光を帯び、エルフたちの祈りのマナが大気に溶けていく。フィーネの母方の故郷——かつて彼女を拒絶した森が、今は惜しみなくマナを送り出していた。
◇
それら全てが、レイドの身体を通じて一つに束ねられる。
万象構築魔術。
現象そのものを記述し、再現するメタ魔術。攻撃力は低い。一対一の戦闘では、属性魔術の使い手に劣ることもある。宮廷では「何の属性にも秀でない半端者」と評された。
だが。
「俺の魔術はな、ネヘル」
レイドの瞳が深緑に輝く。
「一人で完結する力じゃないんだ」
水道管を通じてマナが循環する。通信網を通じてマナが伝播する。結界を通じてマナが共鳴する。照明を通じてマナが灯る。鍛冶炉を通じてマナが脈打つ。古樹を通じてマナが歌う。
人々が生活するためのインフラ。それ自体が、魔術回路だった。
「——馬鹿な。馬鹿なッ!」
ネヘルが叫んだ。その声には、もはや余裕も傲慢もなかった。
「万象構築は一個の天才が世界を塗り替える術だ! エルシオンが——余がそう設計した! 群衆の力を束ねるなど、術式の本質に反して——」
「エルシオンの万象構築は、確かにそうだったのかもしれない」
レイドは穏やかに、しかし揺るぎなく言った。
「でも、俺のは違う。俺はずっと、みんなが暮らしやすい街を作りたかっただけだ。水が流れ、灯りがともり、誰もが安心して眠れる場所を」
翡翠の光が膨れ上がる。
「それが——俺の万象構築魔術だ」
創造のマナが大陸を覆った。
ネヘルの万象収斂が吸い上げたマナの奔流を、レイドは「上書き」していく。破壊の指向性を帯びたマナに、生活の、営みの、命の記憶を刻み込んでいく。
「ご主人様の術式、大陸の四十七パーセントをカバーなのです! いえ、五十二——六十——まだ上がってるのですよぅ!」
ミーシャの興奮した声が響く。
フィーネが目を見開いた。荒野の地面から、緑の芽が顔を出していた。
「嘘……枯れた大地に、花が……」
万象収斂で死んだはずの大地に、生命が戻り始めている。枯れた川筋に水が染み出し、細い流れを作っていく。
倒れていた連合軍の兵士たちが、一人、また一人と目を覚ましていく。マナを奪われて意識を失っていた彼らに、穏やかな創造のマナが流れ込んでいた。
「おい……生きてるぞ……!」
「空が……明るくなって……」
レイドは攻撃していない。ネヘルを倒そうとしていない。ただ——世界を、元に戻している。人が暮らせる世界に。命が息づく世界に。
「やめろ……やめろォッ!」
ネヘルが深淵の力を全開にする。漆黒の触手が無数に伸び、翡翠の光を引き裂こうとする。だが裂いた端から光が満ち、闇を押し返していく。
「なぜだ……なぜ余の深淵が……一介の追放魔術師ごときに……!」
「一介じゃないさ」
レイドの背後に、仲間たちの気配がある。
ガルムの揺るぎない忠誠。フィーネの温かな癒しの力。リリアーナの鋭敏な知略。ミーシャの古代知識。そして、大陸中の無数の人々の——生きる意志。
一対一なら、レイドはネヘルに敵わなかっただろう。
だが、これは一対一ではない。
ネヘルの術式に、明確な「揺らぎ」が走った。
第百十八話で感じた、あの微かな揺らぎ。あのときは確信が持てなかった。だが今は違う。創造のマナに晒されたネヘルの術式が、内側から軋みを上げている。
「フィーネ」
レイドは隣の彼女を見た。
「あなたの言った通りでした……ネヘルの中に、もう一つの意志がある」
フィーネが頷く。イリスとの戦いで掴んだ情報——ネヘルの内部に存在する、もう一つの人格。それが今、創造のマナに呼応するように目覚め始めていた。
「ぐ……ッ! 何を、して……余の身体で……勝手に……!」
ネヘルが自らの胸を掴んだ。漆黒の瞳の奥に、一瞬だけ——温かな金色の光が瞬いた。
「これが……エルシオンの光の人格……」
レイドは確信した。揺らぎの正体。ネヘルという闇の中に閉じ込められた、エルシオン本来の意志。千年の時を経て、なお消えていなかった創造者の魂。
ネヘルの身体が痙攣する。漆黒と金色が交互に明滅し、その表情が激しく歪んだ。
「やめ……ろ……余は……余こそが……!」
そして——ネヘルの口から、全く別の声が漏れた。
穏やかで、深く、どこか懐かしい響き。
「……よくぞ……ここまで……」
ネヘルの顔が苦悶に歪む。だがその唇は、ネヘルの意志とは無関係に動いていた。
「……我が術を……受け継いでくれた……」
千年の封印を超えて。
万象構築魔術の創始者エルシオンが——目覚め始めていた。




