創始者の玉座
神殿の最深部へと続く回廊は、もはや人の手が造ったものではなかった。
壁面に刻まれた魔術式が青白い光を放ち、レイドの足元を照らしている。一歩進むごとに大気中のマナ密度が跳ね上がり、肌がぴりぴりと痺れた。
呼吸を整え、レイドは歩を進めた。
研究ノートはとうに仕舞った。ここから先は、記録する余裕などないだろう。
回廊の果てに、巨大な扉が現れた。古代アルカディアの紋章——万象を示す円環が、その表面に深く彫り込まれている。レイドが手を触れる前に、扉は独りでに開いた。
その向こうに広がっていたのは、玉座の間だった。
天井は見えない。はるか上方まで続く空間に、無数の魔術式が星のように浮かんでいる。それら一つ一つが、レイドが生涯をかけても解読しきれないほどの情報を内包していた。
そして、部屋の最奥。
朽ちた石の玉座に、一人の男が腰掛けていた。
「——遅かったな」
穏やかな声が反響した。
白銀の長髪。端正な顔立ち。纏う白衣は千年の時を経てなお汚れ一つない。レイドが万象の書庫で見た肖像画と寸分違わぬ姿——大賢者エルシオン。
だが、その瞳だけが違った。
深い紫に染まった瞳の奥で、闇が渦を巻いている。深淵の色だ。レイドはそれを一目で看破した。
「ネヘル」
「その名で呼ぶか。まあよい」
ネヘルは玉座から立ち上がった。長身の体躯が、浮遊する魔術式の光を受けて影を落とす。
「千年待った。この玉座で、ただひたすらに」
「何を待っていた」
「決まっている。万象構築魔術の後継者をだ」
ネヘルが右手を掲げると、空中に魔術式が展開された。
レイドは息を呑んだ。
それは万象構築魔術だった。だが、レイドが独学で組み上げたものとは次元が違う。術式の階層が幾重にも折り畳まれ、一つの式の中に百の現象が記述されている。これが——本来の万象構築魔術。
「不完全だが、よくぞここまで再現した」
ネヘルの紫の瞳がレイドを射抜いた。感嘆とも嘲笑ともつかない表情だった。
「万象の書庫の断片から、独力でここまで辿り着くとは。やはりお前には素養がある」
「褒め言葉として受け取っておく」
「素直でよろしい。ならば提案だ」
ネヘルが一歩近づいた。周囲の魔術式が共鳴し、玉座の間全体が振動する。
「我が側に立て、レイド・アシュフォード。お前は万象構築魔術の正統な後継者だ。深淵の力と合わせれば、この世界を根本から書き換えることができる」
世界を書き換える。
その言葉の意味を、レイドは理解できた。万象構築魔術の本質は現象の記述と再現。究極的には、世界そのものを一つの術式として捉え、書き換えることすら理論上は可能だ。
だが。
「断る」
レイドは即答した。
「俺の万象構築魔術は、壊すためのものじゃない。水道を引き、通信網を整え、結界で街を守る。そのために磨いてきた術だ」
「矮小な使い方だ」
「そうかもしれない。だが俺の街には、その矮小な魔術を必要としてくれる人たちがいる」
フィーネの笑顔が脳裏をよぎった。ガルムの不器用な忠誠。リリアーナの鮮やかな知略。ミーシャの無邪気な声。ノヴァ・アルカディアで暮らす全ての人々の顔が。
「それだけで十分だ」
「——愚かな」
ネヘルの声から温度が消えた。
次の瞬間、レイドは防御術式を全力で展開していた。
ネヘルの万象構築魔術が、壁となって押し寄せてくる。空間そのものを歪める力場。重力の方向が書き換えられ、レイドの体が天井に向かって引き寄せられた。
「くっ——!」
足裏に固定術式を刻み、かろうじて踏みとどまる。だが、ネヘルの攻撃は止まらない。レイドが構築した防御式の構造を一瞬で読み取り、的確に解体してくる。
「お前の術式は美しい。構造が明確で、無駄がない」
ネヘルが淡々と語りながら、次の術式を放つ。レイドの第二防壁が紙のように引き裂かれた。
「だがそれゆえに脆い。創造に偏りすぎている」
三層目の防壁も崩された。レイドは後方に跳び、新たな術式を組み上げる。攻撃用の構成——周囲の空気を圧縮し、衝撃波として放つ。
だがネヘルは片手で受け止めた。レイドの術式を分解し、そのまま再構築して投げ返してくる。自分自身の魔術が、強化されて襲いかかってきた。
「破壊なくして真の創造はない。わかるか、後継者よ」
レイドは必死に回避した。石柱の陰に身を隠し、乱れた呼吸を整える。
圧倒的だった。
同じ万象構築魔術でありながら、ネヘルの練度は桁が違う。千年の蓄積。大賢者エルシオンの才能と深淵の力が融合した、完成された魔術体系。
「お前が守りたいものを守るには、力が要る。この世界には理不尽が満ちている。種族間の差別、権力者の横暴、弱者の嘆き。それらを根こそぎ書き換えるには——」
ネヘルが足元を踏み鳴らした。
轟音。
神殿の外壁が崩れ始めた。いや、外壁だけではない。神殿周囲の大地そのものが、深淵の力で侵食されている。地面に亀裂が走り、闇が噴き出す。
「——破壊が必要なのだ」
レイドは唇を噛んだ。
防戦一方。術式を組み上げるたびに解体され、反撃の糸口すら掴めない。ネヘルの言葉には、否定しきれない重みがあった。この世界の理不尽を、レイド自身が誰よりも知っている。
追放された日のことを思い出す。ヴァルターの冷たい宣告。同僚たちの嘲笑。「お前の魔法は役立たず」——あの言葉に、反論する術すら持てなかった自分を。
だが。
「それでも、俺は壊さない」
レイドは石柱の陰から踏み出した。
もう一度術式を組む。何度崩されても。何度解体されても。
そのとき、不意に気づいた。
ネヘルの放つ術式の中に、かすかな揺らぎがあった。
ほんの一瞬、術式の一部が乱れる。それは深淵の闇とは異質な——光の残滓。レイドが万象の書庫で感じたものと同じ、温かな波動。
エルシオンの人格が、まだ内側で抵抗している。
その発見に、レイドの目が見開かれた。希望の光だ。だがそれを確かめる暇は与えられなかった。
「無駄な足掻きはやめろ」
ネヘルが玉座に手をかざした。石の表面に刻まれた紋章が赤く輝き始める。
いや——玉座だけではない。
玉座の下の床面全体が光を放ち始めた。そこに刻まれていたのは、レイドがこれまで見たどの魔術陣よりも巨大で複雑な構成式。直径数十メートルに及ぶ古代の大魔術陣が、千年の眠りから目覚めようとしていた。
「これは——」
「万象収斂」
ネヘルが静かに告げた。
「アルカディアが遺した全ての遺跡、全ての魔導回路を触媒とし、大陸中のマナを一点に集約する禁術だ」
レイドの脳裏に、ノヴァ・アルカディアの姿が浮かんだ。都市核。魔導インフラ。あの街を支える全てのシステムが、古代アルカディアの遺産の上に成り立っている。
それが触媒にされるということは。
「やめろ、ネヘル!」
「遅い」
大魔術陣が、起動した。




