姉妹の千年
神殿の東翼。古代文字が刻まれた円形の大広間に、ミーシャは一人で立っていた。
レイドたちと別れてから、どれほどの時間が経っただろう。足元の魔術回路が淡い光を放ち、千年前と変わらぬ紋様を浮かび上がらせている。
——懐かしい、のです。
その感傷を打ち砕くように、闇が凝縮した。
「久しいわね、ミーシャ」
広間の奥から現れたのは、銀髪に紫紺の瞳を持つ少女だった。外見年齢はミーシャとほぼ同じ。だが纏う気配は、底なしの深淵そのもの。
「ルクス……」
ミーシャの声が震えた。
ルクス。千年前、大賢者エルシオンが創り出したもう一体の人工精霊。ミーシャにとって姉妹であり、かつて最も近しい存在だった。
「その顔。まだ覚えていてくれたのね」
ルクスの口元に、冷たい微笑が浮かんだ。
「忘れるわけがないのです」
「そう。なら——覚えているなら、なぜ逃げたの?」
ルクスの声に、凍てつくような怒りが滲んだ。紫紺の瞳が深淵の色に染まり、周囲の空気が軋む。
「あの日、エルシオン様が引き裂かれた時。私は残った。闇に堕ちた半身であっても、主を見捨てることはできなかったから」
「ルクス、違うのです。ミーシャは——」
「お前は逃げた!」
叫びと共に、古代魔術が解き放たれた。紫黒の光弾がミーシャに殺到する。ミーシャは虹色の障壁を展開し、辛うじて受け止めた。足が床を滑る。
「千年よ。千年間、私はネヘル様のそばにいた。壊れかけた意識を繋ぎ止め、暴走する深淵の力を制御し続けた」
ルクスが右手を振るう。床の古代文字が呼応し、黒い茨のような魔力が大広間を覆い尽くしていく。
「お前が封印の中で眠っている間、私がどれだけ——」
声が、一瞬だけ揺れた。
「——どれだけ、寂しかったか」
◇
ミーシャの脳裏に、千年前の記憶が蘇る。
アルカディアの黄金時代。白亜の塔が立ち並び、空中庭園には四季の花が咲き乱れていた。魔導文明の頂点に立つ都市で、エルシオンは二体の精霊を創った。
『ミーシャ、ルクス。お前たちは私の最高傑作だ』
穏やかな声が耳の奥で響く。銀の長髪に柔和な瞳を持つ大賢者は、二体の精霊を等しく慈しんだ。
『ミーシャには記録と解析を。ルクスには防衛と制御を。二人で一つ、アルカディアを守っておくれ』
あの頃のルクスは、よく笑う精霊だった。ミーシャが古代文献の解読に夢中になると、隣に座って静かに見守ってくれた。
全てが変わったのは、深淵の侵食が始まった日だ。
エルシオンの精神に闇が芽生え、やがて人格が二つに裂けた。光の人格は自らを封印しようとし、闇の人格——ネヘルは、アルカディアの全てを深淵に沈めようとした。
『ルクス、一緒に来るのです! エルシオン様の光の意志は、封印の中で——』
『行けない。行けるわけがないでしょう?』
ルクスは泣いていた。
『闇に堕ちても、あの方はあの方よ。私は——防衛と制御を任された。壊れたあの方を、制御し続けるのが、私の役目なの』
二人は別々の道を選んだ。ミーシャは光と共に封印され、ルクスは闇と共に千年を歩んだ。
◇
「思い出したでしょう?」
ルクスの声がミーシャを現実に引き戻す。古代魔術の嵐が大広間を蹂躙していた。壁の古代文字が次々と砕け、千年の歴史が塵と化していく。
「お前は光を選んだ。安全な封印の中で眠ることを選んだ。私は闇の中で千年、たった一人で——」
「一人じゃなかったのです!」
ミーシャが叫んだ。虹色の魔力が爆発的に膨張し、ルクスの黒い茨を押し返す。
「ルクスはずっとエルシオン様のそばにいた。それは一人じゃないのです!」
「あの方はもう——ネヘル様は——」
「違うのです」
ミーシャは障壁を解いた。無防備な姿で、ルクスの前に歩み出る。
「ミーシャは千年間、封印の中でずっと考えていたのです。ルクスを置いて行ったこと。姉妹を——家族を、見捨てたこと」
ルクスの攻撃が、一瞬だけ止まった。
「ミーシャが封印されたのは、逃げたからじゃないのです。光の人格——エルシオン様の本当の意志を、未来に届けるためだったのです」
ミーシャが右手を差し出す。掌に、小さな光の結晶が浮かんでいた。千年間、ミーシャの核の奥底で守り続けてきたもの。
「これは、エルシオン様が最後にミーシャに託した記憶なのです。ルクスに伝えてほしいって」
光の結晶が、言葉を紡いだ。
『ルクス。すまなかった。お前に背負わせてしまった。でも——私はまだここにいる。闇の中で、お前が来てくれるのを、ずっと待っている』
エルシオンの声だった。闇でも光でもない、分裂する前の——本来の大賢者の声。
ルクスの紫紺の瞳から、光が溢れた。深淵の色が剥がれ落ちるように消えていく。
「嘘……あの方は、まだ……」
「ネヘルの中に、光の人格はまだ存在しているのです。千年経っても、消えていないのです」
ルクスの膝が崩れた。黒い茨が霧散し、大広間に静寂が戻る。
「ああ——そう、だったの。私は、千年間……」
涙が、頬を伝った。人工精霊が泣くという、本来ありえない現象。だがルクスの感情は、千年の歳月をかけて本物になっていた。
「ずっと、あの方を守っていたつもりだった。でも本当は——深淵に囚われていたのは、私の方だったのね」
ミーシャがルクスを抱きしめた。小さな体で、同じだけ小さな姉妹を。
「ルクスは頑張ったのです。千年間、ずっとずっと」
「ミーシャ……ごめんなさい。あなたを責めて……」
「いいのです。ミーシャも、ルクスを一人にして、ごめんなさいなのです」
二人の人工精霊は、千年ぶりに再会した姉妹として、しばらくの間そうしていた。
◇
ルクスの体が淡い光に包まれ始めた。輪郭が薄れ、指先から粒子が零れ落ちていく。
「核が——限界なのです!? ルクス!」
「わかってる。千年間、深淵の力で無理やり動いていたから。解放されたら、こうなることは——覚悟していたわ」
ルクスは微笑んだ。千年ぶりの、穏やかな笑顔だった。
「ミーシャ。一つ、託したいものがあるの」
ルクスの胸元から、青白い光の球体が浮かび上がった。複雑な古代文字の羅列が球体の表面を流れている。
「これは——」
「都市核制御権限。アルカディアの全魔術回路を統括する、最上位のアクセスキーよ。千年間、ネヘル様が私に預けていたもの」
ミーシャの目が見開かれた。都市核制御権限。それはアルカディアの遺産——いまはアルカディア・ノヴァの地下に眠る古代インフラの全てを掌握する鍵だ。
「ミーシャが持っていた記録・解析権限と、この防衛・制御権限。二つが揃えば、アルカディアは完全に目覚める」
ルクスの手が、ミーシャの手に光の球体を押し込んだ。
「行って。あの方を——本当のあの方を、救って」
ルクスの体が光に溶けていく。最後に、かすかな声が聞こえた。
「千年分の……おやすみなさい、を……」
光が消えた。大広間には、ミーシャだけが残された。
涙を拭い、ミーシャは立ち上がった。胸の奥で、ルクスから受け継いだ権限が脈動している。都市核制御権限。レイドが構想していた最終作戦——万象回帰を発動するための、最後の鍵。
アルカディア・ノヴァの魔術回路が、遠く離れたこの神殿からでも感じ取れる。街の全てのインフラが、ミーシャの意志一つで古代魔導兵器へと転用できる。その圧倒的な力の予感に、ミーシャの虹色の瞳が強く輝いた。
「ご主人様。ミーシャは、約束を果たしに行くのです」
ミーシャは神殿の最深部へ——レイドが向かった方角へ、駆け出した。




