策略家の迷宮、商人の逆手
市場区画の空気は、埃と火薬の匂いが入り混じっていた。
リリアーナは壁に背を預け、息を整える。眼前に広がるのは、かつて古代都市の商業中枢だったであろう巨大な空間——無数の通路と扉が格子状に連なり、まるで生きた迷宮のように行く手を阻んでいた。
「また分断されましたわ」
苦々しく呟く。ドゥルガン支援部隊の三十名と共に市場区画に突入してから、まだ一刻と経っていない。だが既に部隊は三つに寸断され、リリアーナの手元にはドワーフ兵八名しか残っていなかった。
「嬢ちゃん、この先も罠だらけだぞ」
ドワーフの分隊長バロンが斧を構えたまま報告する。
「通路Bに落とし穴、通路Dに魔導式の閉鎖壁。正面突破は自殺行為だ」
「ええ、分かっていますわ」
リリアーナは腰の鞄から折り畳んだ羊皮紙を取り出した。突入前にミーシャから渡された市場区画の概略図だ。しかし実際の構造は図面と大きく異なっている。通路の接続が変えられ、扉の開閉が遠隔操作されている。
つまり——この迷宮を操っている者がいる。
「補給線を断つのが目的なら、わたくしたちを殺す必要はありませんの。足止めすれば十分」
「だが罠は殺傷力がある」
「殺傷力があるように見せているだけですわ。落とし穴の深さは二メートル——致命的ではない。閉鎖壁も破壊不能ではなく、時間をかければ壊せる程度。全ては遅延が目的」
バロンが唸った。
「嬢ちゃんの言う通りだとして、誰がこんな芸当を?」
答えは、通路の奥から響いてきた。
「なかなか鋭いな、小娘。いや——クレスティアの末裔と呼ぶべきか」
声が反響する。姿は見えない。だが声の主は確実に、この迷宮のどこかでリリアーナたちを監視していた。
「名乗りなさい」
「ヴァルナ。深淵教団の策略担当と言えば分かるか。もっとも、私にはもう一つの顔がある」
リリアーナの指先が、僅かに震えた。
「——クレスティア公爵家の取引記録を偽造し、王都の貴族派閥に売却した元帳簿士。違いますこと?」
沈黙が落ちた。それは肯定だった。
「よく調べたものだ」
「調べるまでもありませんわ。お父様の帳簿と実際の取引記録の差異を洗い出したのは、わたくし自身ですもの」
リリアーナの声は穏やかだったが、その碧い瞳には冷たい炎が灯っていた。
クレスティア家の没落。表向きは不正取引による信用失墜とされた。しかし実態は違う。帳簿を操作し、ありもしない負債を作り上げ、貴族議会に密告した者がいた。父は弁明の機会すら与えられず爵位を剥奪され、母は心労で倒れた。
その黒幕が——教団の一員だった。
「因縁ですわね」
「因縁? 違うな。あれは単なる仕事だった。教団が王国内の有力貴族を潰す計画の一環に過ぎん。お前の父が標的になったのは、たまたま教団の活動に気づきかけたからだ」
バロンが怒りに顔を歪める。
「嬢ちゃん、こいつを——」
「落ち着いてくださいまし、バロン殿」
リリアーナは深呼吸した。感情に飲まれれば負ける。それは商人として叩き込まれた鉄則だった。
「ヴァルナ。あなたの目的は補給線の寸断。わたくしたちをこの迷宮に閉じ込め、レイドさんへの物資供給を止めること。そうでしょう?」
「ご明察」
「では一つ、商人としての助言を差し上げますわ」
リリアーナは概略図を畳み、代わりに白紙の羊皮紙を広げた。
「相手の意図が読めた時点で、その策は半分破綻していますの」
◇
リリアーナの指が羊皮紙の上を走る。
これまでに遭遇した罠の位置、閉鎖された通路、分断された部隊の最終確認位置——全てを書き出していく。
「バロン殿。この迷宮の罠には法則がありますわ」
「法則だと?」
「ええ。全ての罠は、わたくしたちを北西方向から遠ざけるように配置されていますの。落とし穴は北西への通路に集中し、閉鎖壁は北西へ向かう分岐点を塞いでいる」
バロンが地図を覗き込み、目を見開いた。
「確かに……偏りがある」
「つまり北西に、触れられたくない何かがある。ヴァルナの本陣ですわ」
リリアーナは立ち上がった。
「ここからが本題ですの。バロン殿、分断された二部隊と連絡は取れますこと?」
「魔導通信は妨害されているが、ドワーフ式の打音信号なら壁越しに届く」
「素晴らしい。では、こう伝えてくださいまし」
リリアーナの作戦は単純にして大胆だった。
まず、分断された二部隊に東側の補給路を大々的に確保するよう指示する。派手に動き、物資を運び込む振りをさせる。ヴァルナが「補給線を潰す」ことに執着しているなら、必ずそちらに罠と人員を割く。
「囮ですわ。東の補給路は最初から捨て駒。本命は——」
「北西への強行突破か」
「正解ですわ」
バロンが渋い顔をする。
「だが北西にも罠があるはずだ」
「あるでしょうね。でも、全方位に均等に罠を張る余裕はないはず。東に注意を向けさせている間に、わたくしたちが北西を突きますの」
これは、かつて王国の経済封鎖を突破した時と同じ発想だった。相手の策略を読み切り、その力を逆手に取る。ヴァルナが迷宮を操るなら、その操作の癖を利用すればいい。
「商売の鉄則ですわ。相手が守りたいものを見極めれば、交渉は勝ったも同然」
壁の向こうで、ドワーフたちの打音信号が響き始めた。
作戦開始。
◇
東側で派手な音が鳴り響く。ドワーフ兵たちが壁を叩き、わざと罠を発動させ、あたかも補給路を力づくで確保しようとしているかのように振る舞う。
ヴァルナの反応は速かった。北西通路を塞いでいた閉鎖壁の一つが、不意に開いた。恐らく東側の防御に魔力を回すため、北西の制御が一部解除されたのだ。
「今ですわ!」
リリアーナの号令で、八名のドワーフ兵が北西通路に突入する。
罠はまだ残っていた。床の圧力板、天井からの落下物。しかしリリアーナはそれすら読んでいた。
「右壁沿い。圧力板は通路中央にしか仕掛けられていませんの。壁際は安全ですわ」
「なぜ分かる」
「罠を仕掛ける側の心理ですわ。中央を歩くのが人間の本能。限られた資材で最大の効果を狙うなら、端は後回しにする」
商人の観察眼。取引相手の仕草から嘘を見抜き、市場の流れから次の動きを予測する。その技術が、今この瞬間、軍事作戦を支えている。
三つ目の角を曲がった時、広い部屋が開けた。
そこにヴァルナがいた。
痩身の男。灰色の髪を後ろに撫でつけ、片眼鏡の奥から冷たい目でリリアーナを見つめている。背後には操作盤らしき古代の装置が鎮座していた。迷宮を制御する中枢だ。
「驚いたな。まさか本陣まで辿り着くとは」
「あなたの罠は優秀ですわ。でも、優秀すぎた。規則的すぎて読みやすかったのですわ」
ヴァルナの口元が歪む。
「なるほど。商人の目か。だがここに辿り着いたところで——」
ヴァルナが操作盤に手を伸ばす。しかしその指が触れるより早く、ドワーフの投斧が操作盤を砕いた。バロンの一投だった。
「遅い」
バロンが短く言い放つ。
迷宮の壁が軋み、各所で閉鎖壁が一斉に開放される音が響いた。制御を失った迷宮は、ただの通路に戻った。
ヴァルナは動かなかった。逃げようともしない。
リリアーナが一歩近づく。
「ヴァルナ。あなたにはお聞きしたいことが山ほどありますの。わたくしの家族を壊した理由。教団の目的。全て——」
「捕まえたつもりか、小娘」
ヴァルナが嗤った。それは追い詰められた者の笑みではなかった。全てを見通した者の——余裕の笑みだった。
「補給線? そんなものはどうでもいい。私の真の任務は時間稼ぎだ」
リリアーナの背筋に冷たいものが走る。
「時間稼ぎ……ですって?」
「お前たちがこの迷宮で遊んでいる間に、ネヘル様は——儀式を始めている」
ヴァルナの片眼鏡が、不気味な光を反射した。
「千年の悲願。深淵の門を開く儀式だ。もう誰にも止められん」
その瞬間、神殿全体が震えた。低く、重い振動が足元から這い上がってくる。空気中のマナが異常な密度で渦を巻き始め、リリアーナの肌を刺すような圧力が膨れ上がる。
「レイドさん——」
リリアーナは北西の、神殿最深部へと続く方角を見つめた。
全ての戦いは、陽動だった。ガルムの死闘も、フィーネの激戦も、そしてリリアーナ自身の頭脳戦も。全ては、ネヘルが儀式を完成させるための——時間稼ぎに過ぎなかったのだ。




