半端者の花、架け橋の光
庭園だった。
虚空の神殿の一角に、こんな場所があるとは思わなかった。天井は遥か高くに霞み、人工の陽光が降り注ぐ広大な空間。色とりどりの花々が咲き乱れ、蔓が石柱を絡め取り、甘い芳香が空気を満たしている。
美しい。だが、フィーネの肌が粟立った。
「……この花、全部呪われてる」
薬師としての直感が警鐘を鳴らす。目に映る花弁の一枚一枚に、微かな深淵のマナが脈打っていた。触れた者の生命力を吸い取る、罠そのものの庭園。
「気づいてしまうのね。さすがは同胞」
花々の奥から声がした。白銀の長い髪を揺らし、一人の女が歩み出る。尖った耳、紫に染まった瞳。エルフの血を引く者特有の、人間離れした美貌。
四蛇の一人、イリス。
「同胞?」
「ええ。私もあなたと同じハーフエルフ。人間にもエルフにも受け入れられなかった、半端な存在よ」
イリスの指先が蔓に触れると、呪いの植物がざわめくように蠢いた。彼女もまた植物魔法の使い手。しかしその力は深淵に染まり、生命を奪う方向に歪められている。
「あなたの力、感じるわ。私と同根——けれど、なんて勿体ない使い方をしているの」
「勿体ない?」
「薬草を育てる? 傷を癒す? そんな小さなことのために、この力があるんじゃない」
イリスが腕を振ると、床から無数の茨が噴き出した。
フィーネは咄嗟に後方へ跳び、右手から緑光を放って蔓の壁を編み上げる。だが茨は壁を貫き、鋭い棘がフィーネの頬を掠めた。
熱い。傷口から、じわりと力が抜けていく。
「生命吸収……っ!」
「触れただけで命を奪える。これが植物魔法の本来の姿よ」
イリスの声は穏やかだった。まるで迷子の妹に道を教えるような、優しい響き。
「あなたも知っているでしょう? 人間の村では『化け物の子』と石を投げられ、エルフの里では『血が穢れている』と門前払い。どこにも居場所がなかった」
フィーネの手が震えた。
知っている。知りすぎるほどに。
幼い頃、母の故郷であるエルフの集落を訪ねた時の冷たい視線。人間の街で耳を見られた時の嫌悪の表情。どちらの世界にも自分の椅子はなかった。
「深淵においで、フィーネ。ここでなら、完全な存在になれる。半端なまま苦しむ必要はないの」
イリスが手を差し伸べる。その掌の上で、一輪の花が咲いた。黒い花弁に銀の縁取り——美しく、禍々しい。
フィーネは唇を噛んだ。
◇
茨の攻撃は止まなかった。
フィーネが生み出す蔓は、イリスの呪いの植物に次々と侵食されていく。同じ植物魔法でありながら、破壊に特化した深淵の力は圧倒的だった。
「くっ……!」
左腕を茨に絡め取られ、生命力が吸われる感覚に膝をつく。視界が霞み始めた。
「無駄よ。同じ根を持つ力で、深淵に勝てるはずがない。あなたの魔法は優しすぎる」
優しすぎる。
その言葉が、不思議と胸に響いた。
——優しすぎる。
レイドにも言われたことがある。辺境に流れ着いたばかりの頃、怪我をした獣人の子供を治療した時。
『フィーネの魔法は、本当に優しいな』
あの時、レイドは笑っていた。馬鹿にしたのではない。心の底から感心したように、嬉しそうに。
アルカディア・ノヴァでの日々が蘇る。
獣人の子供たちが「フィーネ先生」と駆け寄ってきた朝。ドワーフの鍛冶師が「嬢ちゃんの薬がなけりゃ、この腕はとっくに駄目になっとった」と頭を下げた日。エルフの使節団が訪れた時、長老が「あなたは二つの世界の懸け橋です」と微笑んだ夕べ。
人間にも、エルフにも、獣人にも、ドワーフにも。
あの街では、誰もがフィーネを受け入れてくれた。
「——違う」
フィーネは顔を上げた。茨に絡まれた左腕が、淡い緑の光を放ち始める。
「え?」
「あなたの言う通り、私は半端者ですよ。人間でもなく、エルフでもない」
左腕の茨が、光に触れて震えた。呪いの紫が薄れ、茨の棘が丸みを帯びていく。
「でも——だからこそ、私にしかできないことがあるんです」
フィーネは右手を地面に押し当てた。
植物魔法。その本質は生命の循環を司ること。攻撃でも防御でもない。生と死の境界に働きかけ、命を正しい流れに戻す力。
薬師として学んだ知識。毒草から薬を精製する技術。腐った土壌を蘇らせる浄化の術。アルカディア・ノヴァの農地を開墾した時に編み出した、荒れ地を実りの大地に変える応用魔法。
全てが、この瞬間のためにあった。
「浄化——!」
緑の光が地面を走った。
呪いの花々に触れるたび、黒い花弁が色を取り戻していく。紫の瘴気が消え、蔓の棘が柔らかな葉に変わる。死を撒く庭園が、息を吹き返すように生命力を取り戻していった。
「馬鹿な……! 私の呪いを、浄化だと……!?」
イリスが後ずさった。足元の茨が次々と浄化され、色鮮やかな花へと変わっていく。
「やめなさい! これは深淵の力——千年の呪いよ! そんな簡単に——」
「簡単じゃないですよ」
フィーネの額に汗が浮かんでいた。全身のマナを搾り出すような負荷。だが、足は止めない。
「でも、呪いも植物も、元は同じ命の力なんです。歪んでしまっただけ。なら、元に戻せばいい」
浄化の波が庭園全体に広がっていく。天井近くまで伸びた大樹の黒い葉が、鮮やかな緑に染まり直す。枯れた泉から清水が湧き出し、虫たちの羽音が蘇る。
死の庭園が、本物の楽園へと姿を変えていく。
「私は半端者です。人間とエルフの間に生まれた、どちらにも属さない存在」
フィーネはイリスに向かって歩み出した。
「でもね、イリスさん。半端者だから、どちらの世界も理解できる。半端者だから、すべての種族の架け橋になれる。それを教えてくれた人たちが——私の街にいるんです」
浄化の光がイリスを包んだ。
「——あ」
イリスの紫の瞳から色が抜けていく。深淵のマナが浄化され、その下から現れたのは——澄んだ翠の瞳。ハーフエルフ本来の、美しい緑。
「あったかい……」
イリスの膝が折れた。フィーネが駆け寄り、倒れかけた体を支える。
「……ごめん、なさい。私、ずっと……」
「大丈夫ですよ。もう大丈夫」
フィーネはイリスの頭をそっと抱き寄せた。かつて自分がそうしてもらったように。辺境に流れ着いた夜、レイドが差し出してくれた温かいスープの記憶と共に。
庭園に、本物の光が満ちていた。浄化された花々が輝きを放ち、かつてのアルカディア文明が愛でたであろう美しい姿を取り戻している。
イリスの体が光の粒子となって薄れ始めた。深淵の器としての肉体が、呪いの消失と共に維持できなくなっている。
「イリスさん!」
「いい、の。これで……やっと、楽になれる」
消えゆく意識の中で、イリスの唇が微かに動いた。
「聞いて……フィーネ。あの方……ネヘルの中に……」
「ネヘルの中に?」
「もう一つの意志が——泣いている。千年間、ずっと……」
その言葉を最後に、イリスの姿は光の花弁となって散った。
フィーネの腕の中には、もう何もない。ただ、一枚の翠色の葉だけが掌に残されていた。
「千年間、ずっと泣いている——」
フィーネはその葉を胸に押し当て、神殿の奥を見つめた。レイドが向かった先。全ての答えがある場所。
ネヘルの中に、もう一つの意志。それはもしかして——。
答えを確かめるには、進むしかない。
フィーネは立ち上がり、花咲く庭園を後にした。




