守るべきものの名前
大地が、獣の咆哮で震えていた。
「左翼、押されてるぞ! 陣形を立て直せ!」
ガルムの怒号が戦場に響く。しかしその声すら、無数の魔獣が発する唸り声にかき消されそうだった。
虚空の神殿へ続く荒野の一角。ファングランド軍を中核とする獣人連合部隊は、魔獣の大群に包囲されつつあった。
百を超える魔獣が地を埋め尽くしている。その中に混じるのは——深淵の力で変容した獣人兵たち。かつての同胞が、理性を失った目でこちらを睨んでいる。
「これが、深淵教団のやり方か」
ガルムは歯を軋ませた。獣人を駒として使い捨てる。それは彼がもっとも許せない所業だった。
前線が軋みを上げる中、魔獣の群れが不自然に左右へ割れた。
道を空けるように。
一人の巨躯が、悠然と歩み出た。
虎族。ガルムと同じ種族だが、その体は倍近くに膨れ上がり、黒い紋様が全身を這っている。深淵の力による強化——いや、もはや改造と呼ぶべき姿だった。
「久しいな、ガルム」
低く、地鳴りのような声。
ガルムの全身が総毛立った。忘れるはずがない。十年経っても、この声だけは。
「ベルガ……」
「覚えていたか。光栄だな、元・団長殿」
魔獣軍団長ベルガ。かつてガルムが率いた傭兵団——鉄牙団を壊滅させた男。「弱い獣人は淘汰されるべきだ」と嗤いながら、仲間たちを一人ずつ殺していった張本人。
「お前の団員どもは弱かった。守る価値もない連中だ」
「……黙れ」
「お前もそうだ、ガルム。あの時逃げ出した臆病者が、今さら何を守るつもりだ?」
ベルガの挑発に、ガルムの握る大剣が軋んだ。
かつてなら、この怒りに呑まれていた。復讐だけを糧に、命を削るように戦っていたあの頃なら。
だが——。
脳裏に浮かんだのは、妻と子供たちの笑顔だった。辺境都市アルカディア・ノヴァで、初めて安心して眠れた夜。獣人も人間もエルフも同じ食卓を囲んだ祭りの光景。
そして、あの男の背中。
種族も出自も問わず、ただ「一緒にやろう」と手を差し伸べた銀灰色の髪の魔術師。
「守るものなら、ある」
ガルムは静かに言った。
「お前に語る必要はないがな」
◇
ベルガが腕を振り上げると、魔獣の群れが一斉に突進してきた。
「数で潰せ! 所詮は烏合の衆だ!」
だがファングランド軍は崩れなかった。
「三番隊、楔形陣! 突進を横に受け流せ!」
ガルムの指示に迷いはない。辺境都市で培った多種族混成部隊の運用経験が、ここで活きていた。獣人の本能的な戦闘力と、人間から学んだ組織戦術の融合。
それでも、数の差は圧倒的だった。
一体倒しても三体が押し寄せる。兵士たちの息が荒くなっていく。
「団長、このままでは持ちません——」
「わかっている」
ガルムはベルガの戦い方を見ていた。魔獣を直接操っているのではない。深淵の紋様から放たれる波動が、獣人兵の本能を支配し、その恐怖を通じて魔獣を従わせている。
鎖の起点は、獣人兵だ。
ならば——。
ガルムは大剣を構え、魔獣の群れの中へ突っ込んだ。
「来たか! 猪突猛進は相変わらずだな!」
ベルガが嗤う。だがガルムの狙いは違った。
魔獣と深淵化した獣人兵の間に、体ごと割って入る。至近距離で、変容した獣人兵の目を見据えた。
黒く濁った瞳。だがその奥に、微かな理性の光が揺れている。
「聞こえるか!」
ガルムは吠えた。言葉ではない。獣人としての全力の咆哮——魂に響く獣の叫びだった。
「お前たちは駒じゃない! 戦士だ!」
深淵化した獣人兵の動きが、一瞬止まった。
「お前たちにも守りたいものがあったはずだ! 家族が、仲間が、帰る場所があったはずだ!」
「無駄だ! 深淵の力に囚われた者に言葉など届かん!」
ベルガが波動を強めた。獣人兵たちが苦しげに唸る。体中の紋様が脈打ち、理性を再び塗り潰そうとしている。
だがガルムは退かなかった。
「俺も昔は復讐しか見えなかった」
大剣を地面に突き立てた。両手を広げる。無防備な姿を晒して。
「お前を殺すことだけを考えて生きていた。だが今は違う。俺には帰る場所がある。種族なんか関係ない——共に飯を食って、共に笑うと決めた仲間がいる」
一人の獣人兵が、膝をついた。
黒い紋様の隙間から、涙が一筋こぼれた。
続いてもう一人。さらにもう一人。
深淵の紋様が薄れていく。本能の奥底にある「群れを守る」という獣人の根源的な衝動が、深淵の支配を内側から食い破ったのだ。
「馬鹿な……!」
ベルガの顔が歪んだ。制御を失った魔獣たちが暴走し、互いに噛みつき始める。統率なき獣の群れは、もはや軍団ではなかった。
「これが答えだ、ベルガ」
ガルムは大剣を引き抜いた。
「力で支配した群れは、いつか必ず瓦解する」
◇
「小賢しい真似を……!」
ベルガが咆哮し、深淵の力を全開にして突進してきた。黒い雷が巨体を包み、一歩ごとに大地が抉れる。
一騎討ち。
ガルムが待ち望み——そして乗り越えなければならない戦い。
ベルガの拳がガルムの大剣と激突した。衝撃波が砂塵を巻き上げ、周囲の魔獣を吹き飛ばす。
「復讐を捨てただと? 甘いわ!」
「捨てたんじゃない。もっと大事なものを見つけた。それだけだ」
打ち合うたびに、ガルムの体に裂傷が増えていく。純粋な膂力ではベルガが上だった。深淵の強化は、獣人本来の力を何倍にも引き上げている。
だが、ガルムの足は退かない。
——団長が言ってたな。「お前の強さは、拳じゃなくて心だ」と。
あの時は鼻で笑った。戦場で心など何の役に立つ。
今ならわかる。
心が折れない限り、体は動く。守るべきものがある限り——倒れるわけにはいかない。
ベルガの渾身の右拳が迫る。ガルムは避けなかった。体ごと受け止め、肋骨が軋む音を無視して踏み込んだ。
零距離。
「お前と俺の違いはな、ベルガ——」
大剣が、ベルガの胸に刻まれた深淵紋様の中心を貫いた。
「——負けられない理由の、重さだ」
ベルガの体から黒い光が噴き出し、急速に消えていく。膨れ上がっていた巨躯が元の大きさに戻り、膝から崩れ落ちた。
周囲で歓声が上がった。ファングランド軍の兵士たちが、武器を掲げて叫んでいる。獣人も、共に戦った人間の兵士も。種族を超えた勝鬨が、荒野に響き渡った。
ガルムはその声を背に受けながら、静かにベルガを見下ろした。
「……ふん。守るもの、か」
瀕死のベルガが血を吐きながら笑った。嘲りではない。どこか諦観の混じった笑みだった。
「お前が守るものなど、ネヘル様の前では塵に等しい」
「何だと」
「あの方は……大陸の全マナを喰らい、世界を一から創り直すつもりだ」
ガルムの目が見開かれた。
「全マナを喰らう——? そんなことをすれば」
「魔術も結界も消える。お前たちの都市も、この大地に満ちる生命の力も、全てな」
ベルガの目から光が消えかけていた。最後の力を振り絞るように、唇が動く。
「守るものがある、と言ったな。ならば……急ぐことだ。もう——始まって、いる」
言葉が途切れた。
ガルムは立ち尽くした。風が血の匂いを運んでいく。歓声が遠い。
全マナの消失。それは魔法都市アルカディア・ノヴァの消滅を意味する。レイドの魔術も、ミーシャの存在も、都市を守る結界も——全てが無に帰す。
——団長。急がなければ。
ガルムは血に濡れた大剣を握り直し、神殿の最深部を見据えた。レイドが一人で向かった、あの暗い回廊の先を。
勝利の余韻はなかった。本当の戦いは、まだ終わっていない。




