四つの戦場、四つの因縁
闇の奥から響いた声が消えた後も、門は開き続けていた。
レイドは奥歯を噛み締め、震える術式を意志の力で押さえ込んだ。挑発に乗るつもりはない。だが、体内の万象構築魔術が勝手に反応している事実——それだけは無視できなかった。
「団長、どうする」
ガルムの低い声が隣から飛ぶ。巨大な戦斧を肩に担いだ虎族の傭兵は、闇の門を前にしても一切怯んでいなかった。
「予定通りだ。全軍、突入する」
レイドの号令に、四勢力の部隊長たちが頷いた。
◇
虚空の神殿の内部は、誰もが想像していたものとは違った。
狭い神殿ではない。門をくぐった先に広がっていたのは、途方もなく巨大な地下空間だった。
天井は遥か頭上——おそらく百メートル以上の高さに、人工的な光源が星のように散りばめられている。そしてその光に照らされた地下世界には、千年前のアルカディアの都市が、そのままの姿で眠っていた。
「これは……」
フィーネが息を呑む。
石畳の大通り。精緻な彫刻が施された列柱。噴水広場。円形闘技場。緑に覆われた庭園区画。商店が連なる市場通り。そして中央の奥、最も高い塔が聳える宮殿区画。
全てが千年前のまま、時を止めたように保存されていた。
「ミーシャの時代の……アルカディアなのです」
ミーシャが呟いた。虹色の瞳に、複雑な感情が渦巻いている。懐かしさと、悲しみと、そして怒り。
「こんな形で再会するとは思わなかったのです」
「ミーシャ」
レイドが静かに呼びかけた。
「大丈夫か?」
「……はい。大丈夫なのです。ここは、もうミーシャの知っているアルカディアではないのです。教団に穢された、偽物の街なのです」
小さな拳を握りしめるミーシャに、レイドは頷いた。
ここで感傷に浸っている暇はない。神殿の門が開いた以上、教団側も迎撃態勢に入っているはずだ。
「各隊、作戦通りに展開する」
レイドは地図——ミーシャの記憶を元に再構成した千年前の都市図——を広げた。
「ガルム。闘技場区画は任せた。ファングランド軍の機動力なら、あの円形空間は有利に戦える」
「ああ」
ガルムが短く応じた。だが、その琥珀色の瞳には、いつもと違う光が宿っている。静かな、しかし灼けるような怒りの炎。
「団長。一つだけ聞いておく」
「なんだ」
「闘技場に何がいるか、分かっているんだろう」
レイドは一瞬だけ目を伏せ、それから正面からガルムの視線を受け止めた。
「ああ。教団の魔獣軍団長——ベルガだ」
ガルムの全身の毛が逆立った。首筋の古傷が——かつて傭兵団を壊滅させられた日の傷が、疼くように熱を持つ。
「……そうか」
たった二文字。だがその声には、五年分の感情が凝縮されていた。ファングランドで語った過去。仲間を失った夜。家族を連れて逃げた恥辱。全てが、この一戦に集約される。
「殺すなよ、ガルム。情報が要る」
「善処する」
嘘だな、とレイドは思った。だが、それ以上は言わなかった。
「フィーネ。庭園区画は君に頼む。シルヴァリアの癒し手部隊と連携してくれ」
「分かりました。庭園区画なら植物魔法が使いやすいですし——」
フィーネは一度言葉を切り、表情を引き締めた。
「呪いの森を操るイリスがいるんですよね。植物を汚染する相手……正直、相性は最悪です。でも、だからこそ私が行くべきなんですよ」
「頼もしいな」
「もう、そういうところですよ。心配してるなら素直に言えばいいのに」
フィーネは苦笑しながらも、腰の杖を握り直した。エルフの血が流れる彼女にとって、植物を穢す敵は許しがたい存在だ。
「リリアーナ。市場区画の兵站線確保を任せる。ドゥルガン軍の重装歩兵が支援につく」
「承知いたしましたわ。市場区画であれば、わたくしの得意分野ですの」
リリアーナは扇子を畳み、鋭い目つきに切り替わった。商人の顔だ。
「ですが、策略家のヴァルナが罠を張っているという情報——油断はいたしませんわ。罠には罠で返すのが、商人の流儀ですもの」
「ドゥルガンの工兵隊が罠解除を手伝ってくれる。うまく使ってくれ」
「もちろんですわ。ドワーフの皆様の技術力は、わたくし常々尊敬しておりますの」
各隊が配置につき始める。四つの部隊が四つの方向へ——それは同時に、四つの戦場が幕を開けることを意味していた。
◇
ガルムは闘技場への道を進みながら、背後のファングランド兵に声を投げた。
「いいか。相手は魔獣を操る。まず魔獣を潰せ。術者は俺がやる」
兵士たちが鬨の声を上げる。獣人たちの闘志が大気を震わせた。
闘技場の入口が見えた。千年前の石造りの門。その奥から、獣の咆哮が重なり合って聞こえてくる。
そして——門の上に、一人の男が立っていた。
筋骨隆々の巨体。顔の半分を覆う獣の面。腰には鎖で繋がれた複数の魔獣が蠢いている。
「久しいな、虎の小僧」
ベルガが笑った。
ガルムの瞳が、金色に燃え上がった。
◇
フィーネがシルヴァリアの部隊と共に庭園区画へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
甘い——いや、甘すぎる花の匂い。正常な植物のものではない。
「皆さん、息を浅くしてください。この香りには催眠の呪いが混じっています」
フィーネの警告に、エルフの癒し手たちが即座に浄化の結界を展開した。
庭園の奥、黒い薔薇が異常繁殖した花壇の中央に——銀髪の女が佇んでいた。
「あら、エルフの血を引く子。植物を愛する者同士、仲良くできると思ったのに」
イリスの指先から、黒い蔦が伸びる。触れた白い花が、瞬時に黒く染まっていく。
「仲良く? 植物を苦しめておいて、よくそんなことが言えますね」
フィーネの杖が緑の光を放った。
◇
市場区画は、静寂に包まれていた。
リリアーナは足を止め、周囲を見回した。千年前の商店が並ぶ通り。陳列台にはまだ商品の残骸が乗っている。だが——人の気配がない。
「静かすぎますわね」
「罠だ。間違いねえ」
ドゥルガンの工兵隊長が低い声で唸る。
「ええ、分かっておりますわ。ですから——」
リリアーナは懐から小さな水晶球を取り出した。レイドが作った魔力探知器だ。
「先に罠を見つけますの」
水晶球が赤く点滅した。足元の石畳の下に、魔力反応。
「ほう、気づくとは優秀だな」
通りの奥、影の中からヴァルナが姿を現した。細身の男が、嘲るように拍手する。
「だが、気づいた時にはもう遅い。この区画全体が、既に私の盤面だ」
「あら。盤面の上で踊るのは得意ですのよ——交渉の席では、いつもそうしておりますもの」
リリアーナの瞳が鋭く光った。
◇
レイドとミーシャは、中央の宮殿区画へ向かう大通りを進んでいた。
だが、通りの中程で——光が降りてきた。
金色の光。ミーシャと同じ、人工精霊特有のマナの輝き。
光の中から現れたのは、ミーシャと瓜二つの少女だった。ただし髪は黒く、瞳は深い紫。そして表情には、感情の欠落した空虚さが漂っている。
「……ルクス」
ミーシャが震える声で呼んだ。
「久しぶりなのです、姉さん」
「姉さん、か。千年ぶりにその呼び方を聞いた」
ルクスの声には抑揚がなかった。
「私はもうお前の知る『ルクス』ではない。ネヘル様に作り直された。正しく作り直された」
「正しくなんかないのです! ルクスは——」
「ミーシャ」
レイドがミーシャの肩に手を置いた。
「ご主人様……」
「ルクスのことは、君に任せる。いいな」
ミーシャの虹色の瞳が大きく見開かれた。
「でも、ご主人様一人で最深部に——」
「大丈夫だ。俺にはやるべきことがある」
レイドは微笑んだ。穏やかな、いつもの笑み。だがその奥に、覚悟の色が滲んでいる。
「みんなが戦っている間に、俺は核を叩く。それが俺の役目だ」
「……約束してくださいなのです。必ず、帰ってくると」
「ああ。約束する」
ミーシャの手を離し、レイドは一人で宮殿区画の奥へ——最深部への回廊へ足を踏み入れた。
◇
仲間の気配が完全に消えた。
回廊は深く、暗い。だが壁面に埋め込まれた古代の光源が淡い燐光を放ち、道を照らしている。
レイドは足を止めた。
「これは……」
壁面に、術式が刻まれていた。
万象構築魔術の術式。レイドが使い、研究し、極めてきたはずの術式体系。
だが——違った。
刻まれた術式は、レイドが知るものとは次元が違う複雑さを持っていた。一つの術式記号に込められた情報量が桁違いに多く、構造は何重にも折り畳まれ、三次元どころか四次元的な展開を前提とした記述法で書かれている。
「俺の術式は、これの……劣化複製だと?」
さっきの声が脳裏に蘇る。
壁面の術式が、レイドの接近に反応して淡く輝き始めた。まるで読めと言わんばかりに。
そしてレイドは気づいた。この術式を解読できれば、万象構築魔術は今とは比較にならない高みに到達する。同時に——これを操る者がこの先にいるという事実に、背筋が凍った。
四つの戦場で仲間たちが命を懸けている。
自分もまた、この回廊の先で、全ての答えと対峙しなければならない。
レイドは研究ノートを取り出し、壁面の術式を写し取りながら、最深部への歩みを進めた。




