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母の遺した共生の術

 聖樹の幹に両手を当てたまま、フィーネは涙を拭おうともせずに意識を深く沈めていった。母の魔力の残滓が導くように、記憶の層がひとつ、またひとつと開いていく。


 そこに記されていたのは、膨大な量の研究記録だった。


 人間の魔力とエルフの魔力。本質的に同じマナを源としながら、両者の回路構造はまるで異なる。人間の魔力回路は瞬発力に優れ、エルフのそれは持続と共鳴に長ける。この二つを融合させることで、従来の治癒術では不可能だった領域——大地そのものの浄化、生態系全体の再生が可能になる。


 母はそれを「共生治癒術」と名付けていた。


「すごい……理論としては完璧に近い」


 フィーネは治癒術師としての目で記録を読み解いていく。魔術式の構造は精緻で美しく、長い年月をかけて磨き上げられたことが一目でわかった。


 だが、記録を追うにつれ、フィーネの手が震え始めた。


 共生治癒術の実践には、人間とエルフ双方の魔力回路を生まれながらに持つ者が必要だった。つまり——ハーフエルフ。母の研究ノートには、その「媒介者」の必要性が繰り返し記されている。


 そして母は、人間の男性との間に子を設けた。


「私は……研究のために生まれた子だったの?」


 声が掠れた。聖樹の周囲で見守っていたエルフの治癒術師たちが、心配そうにフィーネを見つめる。だがフィーネは構わず、記録の最深部へと手を伸ばした。


 知らなければならない。たとえそれが、どんな真実であっても。


 最後の記録は、研究ノートではなかった。震える筆跡で綴られた、母の手記だった。


「研究のために産んだのではない」


 フィーネの唇が、聖樹から流れ込む言葉をなぞる。


「あなたが生まれた瞬間、全てが変わった。小さな手が私の指を握ったとき、理論も仮説も関係なくなった。この子のために——両種族が手を取り合える世界を作りたい。それが私の、最後の願い」


 涙が止まらなかった。だが、それは悲しみの涙ではない。


「……お母さん」


 フィーネは聖樹の幹に額を押し当て、しばらく静かに泣いた。周囲のエルフたちも目を伏せ、その時間を守るように沈黙した。



  ◇



 感傷に浸る時間は、長くは許されなかった。


 胸元の通信石が淡く光る。レイドからの魔力波だ。フィーネは目元を袖で拭い、通信に応じた。


「レイド……さん。聞こえますか」


「ああ、聞こえてる。フィーネ、そっちの状況はどうだ?」


 遠く離れたアルカディア・ノヴァからの声は、いつもと変わらず穏やかだった。フィーネは母の研究記録の内容を手短に伝えた。共生治癒術の理論。人間とエルフの魔力融合。そして、母の本当の想い。


 通信の向こうでレイドが少し黙り、それから言った。


「……君のお母さんは、すごい人だったんだな」


「はい。でも今は、泣いてる場合じゃないです」


「その通りだ。共生治癒術の理論、もう少し詳しく聞かせてくれ。魔術式の基幹構造は——いや待て、人間側の魔力回路を触媒にしてエルフの共鳴術式を増幅する仕組みか? つまりこの融合パターンの効率を最適化すれば——」


「始まった」


 フィーネは小さく笑った。レイドの研究者モードだ。早口でまくし立てる声を聞きながら、不思議と心が落ち着いていく。


「——そうか、フィーネ。君自身が触媒になれる。君の体内にある二重回路を起点にすれば、周囲の治癒術師たちの魔力を共鳴させて束ねられるはずだ」


「私が、中心に?」


「ああ。君のお母さんが理論を作り、君がそれを実現する。これ以上ふさわしい術者はいない」


 その言葉が、フィーネの背中を強く押した。



  ◇



 聖樹の森の広場に、シルヴァリアの治癒術師十二名が円陣を組んだ。その中心にフィーネが立つ。


「これから私が術式の起点を作ります。皆さんは私の魔力波に共鳴して、治癒の力を森全体に広げてください」


 長老格の術師が静かに頷いた。


「エレナの娘よ。我らは従おう」


 母の名を聞いて、フィーネの胸が熱くなる。だが今は集中すべき時だ。


 両手を大地につけ、意識を深く沈める。体内の二重回路——人間の瞬発力とエルフの共鳴力が、初めて一つに溶け合う感覚があった。


「共生治癒術——展開」


 萌黄色の光がフィーネを中心に波紋のように広がった。十二人の術師たちが即座に共鳴し、それぞれの治癒魔力が波紋に乗って森の奥へ、さらに奥へと浸透していく。


 腐敗に蝕まれた木々が、光に触れた端から生気を取り戻す。黒ずんだ樹皮が剥がれ落ち、その下から瑞々しい青緑の幹が現れた。枯れた下草が芽吹き、死んだ小川に水が戻る。


「効いてる……! お母さんの理論は正しかった!」


 だが、浄化の波動が森の深部に達した瞬間、大地が激しく震えた。


 地鳴りと共に、森の最奥から巨大な影が立ち上がる。腐敗した大樹の姿をした異形——幹は黒紫に爛れ、枝の先端には無数の目玉が蠢いている。根は大地を這い、周囲の木々を吸収しながら膨張を続ける。


 四蛇が一柱、腐蝕のメドゥーラ。


「浄化を……許さぬ……」


 大樹の裂け目から、搾り出すような声が響いた。


「この森は……我が苗床……」


 メドゥーラの根が地面を割って突き上がり、治癒術師たちに襲いかかった。


「散開してください!」


 フィーネが叫ぶ。術師たちが円陣を崩して飛び退く。だがメドゥーラの根は執拗に追い、一人の術師の足首を捕らえた。


「きゃあっ!」


「させません!」


 フィーネは咄嗟に共生治癒術の力を根に叩きつけた。治癒の魔力が腐敗した根に流れ込み、黒紫の色が薄れていく。根が苦しむように痙攣し、術師を解放した。


 攻撃に転用できる。母の理論に示唆されていた可能性が、今ここで実証された。


「メドゥーラが支配した生命力を……奪い返せるんだ」


 フィーネの目に決意の光が宿る。共生治癒術の本質は、生命の循環を正常に戻すこと。ならば、メドゥーラが奪った森の命を取り戻すことこそ、この術の最も正しい使い方だ。


「術師の皆さん、もう一度共鳴を! 今度は私に力を集中してください!」


 十二人の術師が再び魔力を束ね、フィーネに注ぎ込む。二重回路が白熱し、フィーネの全身から眩い光が溢れた。


「共生治癒術・転——浄滅!」


 光の奔流がメドゥーラに突き刺さった。腐敗した樹皮が焼け落ち、黒紫の幹が悲鳴を上げるように軋む。メドゥーラの巨体が大きく揺らいだ。


「おのれ……半端者の……小娘が……!」


 メドゥーラが全身の枝を振り回し、森ごとフィーネたちを押し潰そうとする。だがフィーネは退かなかった。光を纏ったまま前に踏み出し、メドゥーラの幹に手を触れる。


 その瞬間、フィーネの意識にメドゥーラの内部が流れ込んできた。


 核がある。黒い結晶のような核の中に——。


「……嘘」


 フィーネの顔から血の気が引いた。核の中に閉じ込められているのは、無数のエルフの魂だった。かつてこの森で命を落としたエルフたち。メドゥーラはその魂を取り込み、エネルギー源として利用していたのだ。


 核を壊せば、この魂たちも消える。


「この子たちを……壊さずに助ける方法を見つけなければ——」


 メドゥーラの枝がフィーネに迫る中、その瞳には恐怖ではなく、かつて母が抱いたものと同じ決意が灯っていた。

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