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聖樹の記憶、母の痕跡

 シルヴァリアの大森林は、泣いていた。


 フィーネが結界門をくぐった瞬間、肌を刺すような違和感が全身を走った。マナの流れが淀んでいる。本来なら清冽な魔力に満ちているはずの森の空気が、どこか腐った果実のような重さを帯びていた。


「これは……」


 足元の苔が黒く変色している。樹齢数百年はあろうかという巨木の根元から、暗紫色の筋が地面を這うように広がっていた。マナ汚染——教団の手口だ。


「フィーネ殿、こちらです」


 出迎えたのは、シルヴァリアの治癒術師長エルーシア。銀糸のような長髪を揺らす彼女の表情は硬い。


「聖域の奥まで案内します。状況は、想像より遥かに深刻です」



  ◇



 聖域の中心部に踏み入れたフィーネは、息を呑んだ。


 七本の聖樹——シルヴァリアの信仰の根幹をなす古代樹のうち、三本が既に葉を落としていた。幹は灰色に変色し、樹皮の隙間から暗紫色の液体が滲み出している。残る四本も枝先から枯れが進行しており、かつての荘厳な輝きは見る影もない。


「腐蝕のメドゥーラ。四蛇の中でも最も陰湿な手口を使う相手ですわ」


 エルーシアが眉を寄せた。


「直接姿を現さず、地下のマナ脈を通じて汚染を広げています。森の生命力そのものを吸い上げ、死の領域に変えていく。私たちの治癒術では——」


「追いつかない、ですね」


 フィーネは静かに頷いた。膝をつき、掌を黒く染まった地面に押し当てる。植物魔法で土中のマナの流れを読み取った。


 汚染は根の網目に沿って広がっている。聖樹の根は地下深くで互いに繋がっており、一本が侵されれば全てに波及する構造だった。


「浄化の起点を作ります。汚染の進行が最も遅い箇所から順に結界を張って——」


「待たれよ」


 鋭い声が背後から飛んだ。


 振り返ると、白い長衣を纏った老エルフが三人、険しい顔でこちらを見下ろしていた。長老会議の反対派——フィーネがここに来ると聞いた時から、反発していた者たちだ。


「ハーフエルフ風情が聖域に足を踏み入れるなど、前代未聞の冒涜である」


 中央の長老——エルダリオンが、冷え冷えとした声で言い放った。


「いかに同盟の名の下とはいえ、混血の者に聖樹への施術を許すわけにはいかぬ。穢れた魔力が聖樹をさらに蝕む恐れがある」


 エルーシアが一歩前に出た。


「長老エルダリオン、今はそのような議論をしている場合では——」


「だからこそだ。焦りに駆られて判断を誤れば、取り返しがつかぬ」


 フィーネは立ち上がった。手についた黒い土を払い、長老の目を真っ直ぐに見る。


 かつてなら、この視線だけで萎縮していただろう。人間からもエルフからも拒絶された記憶が、身体を硬くしていたはずだ。


 だが今は違う。


 アルカディア・ノヴァで過ごした日々が、仲間たちとの時間が、フィーネの足元を支えていた。


「長老。一つだけ聞かせてください」


 声は静かだった。怒りでも悲しみでもなく、穏やかな問いかけだった。


「純血でなければ、森を愛せないのですか」


 エルダリオンの眉が跳ね上がった。


「私はハーフエルフです。人間の血が半分流れています。でも——」


 フィーネは枯れかけた聖樹に手を伸ばした。


「この森の匂いを嗅ぐと、胸が痛くなるほど懐かしいんです。母がよく話してくれました。シルヴァリアの風の音、葉擦れの歌、朝露に光る蜘蛛の巣。私は一度もこの森に来たことがなかったのに、ずっと故郷のように感じていました」


 指先が聖樹の幹に触れた。


「この子たちが苦しんでいるのを、黙って見ていられません。血の純度なんて関係ない。目の前で誰かが苦しんでいたら、手を差し伸べる。それだけです」


 沈黙が聖域を満たした。


 その時——変化が起きた。


 フィーネの掌が触れた箇所から、淡い緑の光が滲み出した。聖樹の幹を伝い、黒ずんだ樹皮の下で何かが脈動する。


「な——」


 エルーシアが目を見開いた。


 枯れ落ちたはずの枝の先端に、小さな芽が生まれていた。萌黄色の、生まれたばかりの命。マナ汚染に覆われた聖域の中で、その一点だけが鮮烈な生命力を放っている。


「馬鹿な……我々の治癒術では、汚染の進行を遅らせることすらできなかったのに」


 エルダリオンが呆然と呟いた。


「これは……人間の生命力とエルフの自然魔力の融合……」


 エルーシアが震える声で分析する。


「ハーフエルフだからこそ起こせた現象です。人間の魔力は生命力に根ざし、エルフの魔力は自然と共鳴する。その両方を持つフィーネ殿の魔力が、汚染に対する新たな抗体のように作用している——」


「そんなことが」


「理論上は可能だと、古い文献に記述がありました。ですが実際に成功した例は——千年以上前の記録にしか」


 フィーネ自身も驚いていた。意図してやったことではない。ただ、聖樹を助けたいと思った。その想いに、聖樹が応えてくれた。


 エルダリオンは長い沈黙の後、深い溜息をついた。


「……老いた頭は、時に真実より伝統を選ぶ。愚かなことだ」


 それは謝罪ではなかったが、認めるという意思表示だった。


「フィーネ殿。聖域での施術を——許可する」


「ありがとうございます」


 フィーネは深く頭を下げた。



  ◇



 作戦会議はすぐに始まった。


 エルーシアを筆頭とするシルヴァリアの治癒術師十二名が、フィーネを中心に円陣を組む。長老会議からも三名の術師が合流し、かつてない規模の共同治癒術が準備された。


「メドゥーラの汚染は地下のマナ脈を伝って広がっています。私が浄化の核を作り、皆さんの治癒魔力で増幅してください」


 フィーネが地図を広げながら説明する。その目には、もう迷いはなかった。


「聖樹の根のネットワークを逆に利用します。汚染の通り道を、浄化の経路に変える。メドゥーラの力は強大ですが、この森そのものが味方してくれるなら——勝機はあります」


 エルーシアが力強く頷いた。


「では明朝、日の出と共に開始しましょう。森のマナが最も活性化する時間帯です」


 会議が終わり、治癒術師たちが準備に散っていく。フィーネは一人、先ほど芽吹いた聖樹の前に残った。


 もう一度、幹に手を当てる。


 すると——流れ込んできた。


 映像ではない。感覚だ。聖樹が長い年月をかけて蓄積してきた記憶の断片。風の温度、雨の匂い、根に触れた無数の生き物たちの気配。


 その中に、一つだけ異質なものがあった。


 温かい掌の感触。人間の生命力とエルフの自然魔力が混ざり合った、独特の魔力の波動。今のフィーネによく似た——けれど、もっと成熟した魔力の痕跡。


 聖樹の記憶の中で、その人物は何度もこの幹に触れていた。魔術式を刻み、データを記録し、誰にも見つからないように深夜に研究を重ねていた。


「——嘘」


 フィーネの声が震えた。


 記憶の中の魔術式。それは今フィーネが無意識に行った「融合治癒」と、根本原理が同じだった。いや、それ以上に体系化され、緻密に構築されている。


 この研究を行っていたのは、フィーネが生まれるより前のこと。記録の主の名は聖樹の記憶には残っていない。だが、その魔力の波動を、フィーネの身体は知っていた。


 幼い頃、熱を出すたびに額に当てられた手。子守唄と一緒に流し込まれた、優しい治癒の魔力。


「お母さんも……同じ魔術を研究していた……?」


 フィーネの頬を、一筋の涙が伝った。母がシルヴァリアを追放された本当の理由。第九十八話で使者が告げた「復権」の裏にある真実。その全てが、この聖樹の中に眠っている。


 夜風が枝を揺らし、萌黄色の新芽がかすかに光った。まるで、答えはすぐそこにあると告げるように。

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